Steal 14 心の名
『申し遅れました。私、警視総監のアマノと申します。ふふふふ……』
「警視総監、だと」
今、このタイミングで警察関係者、しかもその頭領から電話が来るということはその意味合いが普段と全く変わってくる。
「俺の家族を拉致しやがったのは、貴様らかッ」
『拉致とは穏やかではないですね。いえ、万が一の保護のためにこちらに招いたにすぎませんよ』
「このやろうッ」
受話器をぶち壊したい衝動に駆られた。今すぐそちらに駆けつけて誰でもいいから斬りつけてやりたい気分だった。
『ご家族の声、聞きたいですか?』
「今すぐそっちに行ってやるからなッ! ぶった斬ってやるッ!」
『く、“黒影”さん、こちらに来ては――』
「!」
――あんさんッ!
アフトの叫び声が聞こえたかと思うと、電話口に雑音が響いて彼の声が途切れた。いったい、何をやった? どうしてくれたんだ?
「家族に危害を加えやがったら……ッ、ただじゃおかねぇッ!」
『勘違いしないでください、私はあなたに依頼をしに来たのですよ。怪盗としての、依頼です』
「なんだと……ッ」
『“プロジェクトF”ね、どうやらあなたが良くご存知のエイミ刑事が持っているようなのですよ』
高く、ねっとりとした気持ちの悪い声で、アマノは言う。
『彼女、刑事としての素質は考えものですが、こと戦闘力に至っては非常に厄介です。追っ手をけしかけているのに一向に捕まりません』
エイミ刑事は、いままさに不思議荘にいる。だが、落ち着け。いまその情報を奴に開示するのは致命的だ。
『あなたの怪盗としての手腕を見せていただきましょう。エイミ刑事から“プロジェクトF”を盗み、こちらに持って来ていただきましょうか。人質はそれと引き換えです』
場所は警察本部の屋上。奴はそう続けた。
『妙な気は起こさない事です。他言は無用。もちろん来る時はお一人でいらっしゃってください。……ふむ。あなたが生きているということは、“風錐”も健在なのでしょうが……そちらはギラティナが対処する事でしょう』
ギラティナ……仲介所の大ボスか。やはり警察は、仲介所と癒着を……。
『ではでは。明日の午前零時にお待ちしています』
「午前零時だと!?」
二十四時間を切っている! 対策が立てようが無いぞ……。
『期待していますよ、怪盗“黒影”。ああ、そう言えば、あなたの決まり文句はこれでしたね? ――“では、お務めご苦労”』
ブツッ。その言葉を最後に、通話は途切れた。
「……くそぉッ!」
壁を殴りつけた。ばきゃ、と大きく穴が空いて、拳は血でにじんだ。なのに、全く痛くなかった。
――また、俺が怪盗であるせいで、家族を危険な目に遭わせた。
うまく自分が歩けているのかも定かではなかった。いま、人質に取られているアフトのあんさんとティオさんが、どうなっているか想像するだけでも気が狂いそうになった。
もしなにかあったら、俺はどうなってしまうのだろう。そして、マルは。俺と同じか、それ以上の苦しみを味わうことになる。
そんなことが、あってたまるかッ……!
ロウが俺の叫びを聞きつけたのか、居間から出てこちらに小走りに駆け寄った。
「ナイル? お前、大丈夫かよ……」
俺は、ふらつく姿勢でなんとかロウの肩を持つ。そして、彼の肩を揺さぶった。
「ロウ、ロウ……ッ、俺は、どうすりゃいい……!」
「まずは説明してくれなきゃ困るぜ」
「……」
他言は無用。アマノの言葉を思い出した。
誰も、たよりに出来ない。それがわかると、俺はフラフラとその場を後にするしか無かった。
「あ、おォい! ナイルッ!」
「付いて来ないでくれ……」
「ナイルよォ、らしくねぇぜ。俺はお前の心のアニキじゃねぇか。話を――」
「――ついてくるなッ!!」
力が入らないのに、その言葉だけはなぜだか今までに無いくらいの声量となった。あのロウが、俺の声に一瞬ひるんで動けなくなった。
誰の力も借りられない。俺は、一人で行くしかない。そう奮い立たせても、先ほどから全く力が入らなくて、ひとり壁にどうにか手をつけながら、不思議荘からよたよたと夜の街へ歩き出した。
頼れるのは、俺一人しかいない。なのに、自分の事が全く信じられない。いや、信じていた物が全部嘘っぱちだったんだ。自分自身で掴んでいたものは、全て裏で操られていたんだ。
無力だ。
無力な俺がいるから、二人は捕まった。
無力な俺がいるから、マルは泣いた。
無力な俺がいるから、みんな幸せになれないんだ。
こんなに空っぽな俺に、家族を救う資格なんか、家族を救う力なんか、あるんだろうか。
――Steal 14 心の名――
自分を嗤ってやりたいのに、笑い声が出て来ない。
怒り狂っているはずなのに、叫ぶ気力が湧いて来ない。
泣きたいのに、涙が溢れて来ない。
感情が死んじまったのか。まぁ、今の俺にとっちゃ、これがお似合いだろうな。
ぜんぶ、無かった事にしてしまおうか。今すぐ楽になる方法なんて、いくらでもあるだろう。
俺が、この世界にいる意味なんてあるだろうか。いない方が、幸せなんじゃないだろうか。
――いっそ、死んでしまおうか。
「よぉ、“黒影”」
背後で、声がした。誰の声だか、興味も無かった。だがそいつは、俺が振り返らないとわかると、自ら俺の前に立ちはだかった。
夜に溶け込むような藍色の身体。俺の二倍もあろうかという身長。この状況で、なぜかうっすら笑っている、ガブリアス。
「――待たせたな、怪盗“風錐”だ」
返す言葉も無く、俺はただそいつの姿を目に通すだけだった。すると奴は、俺に手を差し伸べてくる。
「不思議荘に戻るぞ」
「俺は……あそこには、いられない」
「なぜだ」
「いちゃいけないんだ」
「誰がそう決めた?」
「俺があそこにいる限り、誰かが不幸になるんだ」
「それ、お前のせいか?」
「俺は、いちゃいけない存在なんだ」
「あそこにいちゃいけないなら、お前はどこへ行くんだ」
「俺は、どこにもいるべきじゃない。――消えるべきなんだ」
「……まさか、死ぬつもりか?」
“風錐”は、少し鼻を鳴らして差し伸べていた手を降ろした。
「なぁ、じゃあ教えてくれ。その消えるべきだっていう、お前さんの名を」
「……ナイル」
「はぁあああ、そうか、そうなのか」
“風錐”は、全身を脱力させた。さっきよりもだいぶ長い深いため息を吐いて、なんども、なんども、確かめるように、そうか、そうかと連呼する。
「あんたの名前はナイルってのか」
「……」
「じゃあナイル。お前の人生、どうだった?」
「俺は……」
俺の人生なんて、人に話すようなものでもない。ああ、でも。どうでもいい。どうせ消そうと思っていた人生だ。
「……の、きおく」
「あ?」
「ゴミだめの、記憶」
俺は、生まれた時からあのくそったれな街にいた。盗まなければ今日の食料にもありつけない日々。大人に殴られ、居場所を追われ、汚染した空気に侵され。だがそれでも頑張れて来れたのは、あのときはまだ弱った母がいたからだ。
「だが、間もなく母も死んだ。当たり前だ。あそこに生きる希望を見いだせというのも無理な話だろ」
俺のせいで死んだ。盗みでへまをした。獲物を奪われて、最後の晩餐にもありつけなかった。
未だに、彼女が死に際に俺へ言った言葉は思い出せないが、たぶん、そう、それはきっとこの世への呪詛の言葉に違いない。
「そして、俺は拾われた」
不思議荘にやって来て、まだ学生だったアフトのあんさんと、結婚したてのティオさんと、まだタマゴの中にいたマルに出会った。これが、当たり前に噛み締められる唯一の幸せだと知ったのは、しばらく経ってからだった。
みんな、誰もがやさしい。今までに無かった事だ。あの場所にいたままでは、絶対に手に入れられなかったものだ。
だが、仲介所がやってきた。俺に父の借金の肩代わりに怪盗になれと言って来た。俺が拒んだ次の日から、なぜだか不幸な出来事が起きた。
あのあんさんが、カンニングの疑いをかけられた。彼がその事実を否定し続けると、なぜか教師に殴られて骨折した。必死に証拠を探していなかったら、あのまま退学だったはずだ。
タマゴを抱えて検診に向かうティオさんが、タクシーのギャロップに踏みつぶされそうになった。事故じゃすまない。なんとかギャロップのバランスを崩して倒していなかったら、危うくタマゴもろとも死んでいた。
そしてマルは、生まれた直後に行方不明になった。
誰が連れ去ったのか、確信した。俺はヨノワールのやろうのところへ行った。すると、やはり奴がマルを抱えていた。殺してやろうかとも思った。だが、俺はその場でそいつに怪盗になることを誓った。
マルを返してもらう、条件として。
「それ以外にも、いろいろ起こっていた俺たちの周りの不吉な出来事は、それを機に一瞬で失せた。嘘のような平穏が俺たちに訪れた」
そして、奴は言った。俺が失敗したその時は、同じような事が家族に降り掛かるだろうと。幼かった俺にとって、降り掛かって来たものが、そしてそれが再び訪れる事が、どれだけ恐ろしかったことか。
やっと手に入れた幸せが、奴の手によって簡単に奪い去られる事だけは避けたかった。
だから、俺は家族の一線を踏み越えないように努力した。心を開かないようにした。もし、一線を越えて家族に情を移してしまえば、怪盗の仕事がおろそかになると思った。
失敗したら、その場でおしまいなのだ。
だが、失敗しない怪盗などいない。
「つまり俺がいる限り、みんなが不幸になるってことだ」
「なぁ、ナイル」
「気安く呼ぶなッ」
「だから、あんたは身投げでもすると?」
「……今の話を、聞いてただろう? これじゃまるで、俺は疫病神だ。見てみろ。いま家族は、史上最低なやつらの人質だろう」
「だから、あんたが消えれば全部解決すると? ――俺は、そうは思わない」
“風錐”が一歩こちらに歩み寄って来た。俺は、一歩後ずさった。
「嘘だ」
「そんなセンスの欠片も無い嘘、ここでかますと思うかね。少なくとも俺には、お前に消えてほしくはないと思っている」
「嘘をつくなッ! 会って数日のやつが、何をほざいてやがる!」
「嘘じゃない」
俺が拒絶をしているというのに、奴は俺へ距離を詰めてくる。やめろ、入ってくるな。お前も、俺といたところでなんの見返りにもならないだろうが! なぜ、無条件に歩み寄ろうとする!?
「来るなッ」
「断る」
「お前、何様なんだよッ! 俺のなんだってんだよッ!」
「俺は――。
――お前の、父親だ」
「……は?」
ちち、おや……? なんだ、その単語は? 意味が分からない。この期に及んで笑えない冗談か?
「俺に、そんなものはいない!」
「だから、俺がどうやらそうらしいんだって」
「ふざけるなッ!」
「ふざけていない。ちゃんと説明する」
“風錐”は、先ほどまで手当をしていたヨノワールに聞かされた話を、そっくりそのまま俺に話し始めた。
ヨノワールが、“風錐”の専属仲介だったこと。そして、“風錐”と妻を逃がそうとした事。
その妻が、俺の母親である事。
そして、ヨノワールが俺を守るために怪盗の道へ引き入れた事。
信じられなかった。信じられるはずが無かった。
「そんな、都合のいい話があると思うかッ!」
「信じられないかもしれないが、俺がお前にいてほしい理由だ」
俺は、“風錐”が近づいて来ないように距離を取った。
「俺を騙すのもいい加減にしろ」
「強情な奴だな」
頭がぐるぐると回っていた。
「本当に……ッ、本当に……!」
「本当の本当だって」
どうして、どうしてそんなタイミングでそんなことを言うんだ。
俺は、ずっと、ずっと父親の事を恨んでいたんだ。母を捨て、俺が辛かった時も一度だって現れたことのなかった奴を! 半分の血が流れているだけで、心底吐き気がした相手を!
憎んでいたんだぞッ!
なんで、今日。今。俺の前に現れてくれるんだッ!
「お、お前を……ッ、俺は許さねぇぞッ!」
「ナイル……!」
「俺は、父親というものが心底! 心底憎くて仕方が無かったんだッ!!」
俺は、“リーフブレード”を構えた。目の前に積年の恨みの権化が立ちはだかっているというならば、切り伏せなければならなかった。今更父親面して現れたのならば、死んだ母の気持ちと共に引導を渡さなければならなかった。
「おぉおおおおッ!」
――お前に、父親を名乗る資格など無いと!
ドガッ! 俺が力を込めた“リーフブレード”は、今までで一番のなまくらだった。相手を斬る事すらもできなくなっていた。ただ、鈍器で殴ったかのような衝撃と共に、避けることの無かった“風錐”が顔から地面に叩き付けられる。
いや、避ける気がなかったのか?
がしっ。
地面に倒れていた“風錐”は、笑っていた。笑って、殴った方の俺の手を掴んでいた。
「ははっ、捕まえたぞ」
「は、離せッ……!」
そして奴は、立ち上がる。強い力で俺を引き寄せた。
憎かった、触れていたくもない相手であった。
「離せぇッ」
「そうだ、俺が憎いだろ! そんなことは当たり前だ!」
“風錐”は叫んだ。
「だけど、俺はどれだけ憎まれても、もうお前を離さねぇ!」
「やめろッ!」
「だから、お前も消えたりしないでくれ」
「うるせぇッ! 俺は、俺はッ――」
「――生きててくれて、ありがとう」
ふわり。
“風錐”が俺の背中に手を回した。今まで聞いた中で、一番優しく、穏やかで、包み込むような声。
抱きしめられていた――。
「あ……」
ぽっかりと開いた心に、なぜだか流れ込んでくるものがあった。
なんだろう、この感覚は。
なぜだ。憎い相手に、抱きしめられているはずなのに。
どうしてか、とても暖かい。
「あ……っ、え……?」
どうしてだろう。涙が溢れてきた。
「なんで、どうして……」
涙だけではなかった。あふれてくる感情に、胸が詰まって、喋れなかった。
抱きしめられた。その瞬間に、記憶が彼方へ飛んだ。
そう、あれは、あの無音の空間。
母が死に際に言った言葉。
そうだ。
この、気持ちの名は――?
「ナイル、辛かっただろ」
「……うぅッ」
「ごめんな」
いまさら……俺に、いまさら謝るのか……。それで、全部チャラになるとでも思うのか?
「……俺がッ、今までどんな気持ちで過ごして来たか、知りもしないくせにッ……!」
「ああ」
「母さんが死ぬ時でさえ、来てくれなかっただろッ……!」
「ああ」
憎い。
「俺が盗んで、殴られて、辛くて、腹へって、独りで泣いていたとき、守ってくれた訳でもないだろッ……」
「……ああ」
寒い。
「周りが、うらやましかった。母と、父と、本当の家族で幸せに暮らしていた奴を見ると、うらやましかった……」
「ああ、そうだよな」
寂しかったのに。あんなに叫んだのに。
「なんで、呼んでも来てくれなかったんだよぉッ……!」
諦めていたのに。もう、どれだけ願っても叶わぬ願いだと思っていたのに。どれだけ腕を上げて、怪盗になって、なにを盗んでも手に入らない物だと、諦めていたのに。
「大丈夫だ、もう離さねぇよ」
「うわぁああああ……!」
今まで、忘れていた感情が、痛い。
「心配すんな」
抱きしめてもらうのが、こんなにも、感情の痛みを伴うものだなんて。
「だから、消えるだなんて二度と言わないでくれよ」
「で、でも、俺は……ッ、みんなを不幸にしちまう……」
せっかく会えた、あんたでさえもきっと……。
「お前がどんな疫病神だろうと、俺は知ったこっちゃねぇ。生きている事に理由はいらない――息子に生きていてほしいと願わない父親がいると思うか?」
「……もう誰も、俺の前からいなくならないでくれ……ッ」
「ああ」
ほのかに暖かい。
「ずっと側にいてくれよッ……!」
「約束する」
ぶっきらぼうな、優しさ。嬉しさ。
「愛してるぜ、息子よ」
俺が……。
俺がやっと、手に入れた心の名は――。