File.2 怪盗の試練
Steal 8 怪盗二人
 自分で言うのもなんだが、俺は記憶力のいい方だ。皆が苦手としている単語の暗唱も、無意味な数字の羅列も覚えるのは苦ではない。そのなかでも特に、耳から入る情報に関しては一瞬で記憶し、それでいて長く覚えている事が出来る。
 俺を不思議荘へと誘ってくれた仏のような言葉。初めて仲介と会ったとき、奴の言葉を受けた感触。一度聴いただけで頭から離れぬ、歌姫の旋律。
 だが、そんな俺がひとつだけ、どうしても思い出せないことがある。
 あの瞬間。雨が降っていて、ゴミの残骸で申し訳程度に作った、天井とも壁とも言えないボロ屋は雨の音でうるさかったはずなのに。あのときの、あの瞬間だけは、なぜか俺の中で無音の世界だった。
 母の、死に際に放った言葉だけ、俺は今も思い出す事が出来ない。



「……うッ……」
 体がだるい。瞼に光がちかちかと入り込んでいた。多分、どこかの日陰の間から漏れる光だろう。それにもかかわらず、瞼は少しの刺激でも痛みを訴えていた。
 あの無音の瞬間が、俺がさきほどまで見ていた最後の夢だった。なぜ、このタイミングであんな夢を見たのか。まさか、走馬灯か? 冗談じゃない。
 よくわからないまま意識が覚醒して、なぜだか猛烈な吐き気を覚えた。どうしてだったか。でも、このだるさ。泳ぎ疲れた時の感覚に非常に似ている。だとすると、この吐き気。溺れかけたせいで海水でも大量に飲み込んだのだろうか。
「ぐッ」
 仕方が無く、目を瞑ったまま寝ていた姿勢から四つん這いになり、気の済むまで吐くはめになった。いや、吐瀉物で窒息するよりは幾分かマシだろう。吐きながら、俺はぼんやり考えた。
 ここは、どこだ?
 俺は、生きているのか?
 あの後、どうなった?
 記憶が途切れて、何時間経った?
「ぐッ……はぁッ……はぁ……」
 やっと、落ち着いて来た。目をうっすらとだが開けてみると、ここはどこかの海岸の洞穴のようだった。ということは、誰かが俺をここまで運んだのか?
 というか、ここはどこだ?
「――おお、やっとこさ目覚めやがったか」
 俺の背後、つまり洞穴の入り口から、今では嫌でも知っている男の声がした。ついこの前、俺と窃盗試合をした怪盗の声だ。
 どうにかして、力を振り絞って、顔だけそちらを振り返るってみる。
「……おおぉ、ひでぇ顔」
 半ばニヤニヤしながら悠長に俺へとそう言ったのはまぎれも無く、俺の身長の二倍はあろうかという体躯のポケモン、ガブリアス。
 怪盗“風錐”だった。






――Steal 8 怪盗二人――






「一応聞いといてやるが、あんた自分がどうなったか覚えてるか?」
 覚えていない訳が無い。俺は、“風錐”との窃盗試合に負けた後、仲介所のボスとかいうギラティナと鉢合わせた。“風錐”に引きずられながらなんとかその場を後にしたのはいいものの、結局奇襲に遭い大時化の海の中へ真っ逆さまだ。
 船ですら軽々転覆させる自然の猛威の中、よく自分が生きていたなと驚いたくらいだ。
 “風錐”はどうやら俺が伸びている間に水分の確保をしていたらしい。奴の腕には、お世辞にも清潔とは言いがたい、多分どこかに放り投げられていたであろうポリタンクが、水がなみなみ入れられた状態で提げられている。
「感謝してくれよー、“黒影”。俺が担いでやらなかったらあんたは今頃海の藻屑だぜ」
 海の藻屑という単語に、『海の藻屑にしてやろうかえェ!?』と言いながら泳ぎ回る脳内やくざサメハダーが一瞬思い浮かんだが、さすがに今はそんな事考えている暇はない。すぐにそいつを追い出した。
「……なぜ貴様は平然としているんだ」
 “風錐”も俺と同じ状況下だったはずだ。ギラティナの“シャドーダイブ”とやらを受けて海に放り投げられた。なのに“ひでぇ顔”で今の今まで気を失っていた俺と違って、奴はぴんぴんしていてむしろ気を失う前より元気なようにも見える。
「おいちゃんをあまり舐めてくれるなよ。こちとら“なみのり”だって覚えてるんだぜ」
 そういう問題か?
「……すまん。助かった」
「おろろ、意外に素直だな」
「礼くらいはする」
 だが、これ以上共に行動する理由は無い。もともと俺たちは怪盗同士だし、この状況下で“風錐”がどこまで信用できるポケモンかも分からない。
 俺は立ち上がり、洞穴の出口へ進んだ。ここはどこか、今日がいつなのか、状況を確かめねばならなかった。マルたちは無事だろうか? まさか、仲介所に何かされていないだろうか?
 心配は募るばかりなのに、なぜか俺の頭は冴え渡っている。
 生きるために、どうするか。その方法なら次々と浮かぶ。
 ここは海岸だ。すこし歩いて行けば多少治安が悪くともどこかの町にたどり着けるかもしれない。そこまで行けば、情報も食料もなんとかなる。ロウに連絡でもとれば不思議荘にいる家族たちをどうにか守ってくれるかもしれない。
 あいつ、バーに直接足を運ぶ以外に接触手段がないんだった。バーの固定電話にかけてみるしかない。たのむ、みんな、無事でいてくれよ。
「おい待てよ、どこに行くつもりだ?」
「助けてくれた事には感謝する。が、これ以上共に行動する理由は無い」
「お前さぁ、自分の状況知ってて言ってんのかい? さっきも言ったろ、ひでぇ顔だぜ。フラフラで、足引きずってて、すぐにでもくだばっちまうぜ。別に弱ってるのを恥じる事はねぇ、四日も伸びてたんだからな」
「四日? 冗談だろう」
 窃盗試合からそんなに時間が経っていたのか?
「そんなセンスの欠片も無い冗談、ここでかますと思うかね。……休んでけよ」
「貴様は信用ならない」
「俺が信用できなかろうと関係ねぇ。だったら無理矢理休んでもらうぞ。おいちゃん、目の前にいる奴を犬死にさせる趣味はねぇ」
 そう言うと、“風錐”は洞穴の出口の前にどん、と仁王立ちした。つまり、俺の目の前に立ちはだかった。
「な、なぜ……」
 目の前のガブリアスが予想外に壁となっていた。せっかく重い体を奮い起こして歩き出そうとしたのに、膝の力が抜ける。立っていられなくなってバランスを崩した俺を、「おっと」と言いながら“風錐”は両手で支えた。
「ほうら、言わんこっちゃない」
 放っておけばいいものを。俺とお前は敵同士だろう。そんでもって、俺を腑抜けだ中途半端だと言ったじゃないか。ここまでして俺にかまう義理がどこにある?
「離せ」
「強情な奴だな」
「なぜ、そこまでして……」
「なぜって、そりゃあんた。俺は怪盗“風錐”だぜ」
 “風錐”は俺を離しちゃくれなかった。俺は強制的に壁にもたれかかる形で座らされるハメになる。くそっ、本調子ならきっとこんな奴……。
「俺は盗みのプロフェッショナルだが、そこ以外は他の奴らと変わらねぇさ。困ってる奴がいりゃ助けるし、相談があれば乗ってやる。そしてもちろん、どんな腑抜けでも同志なら協力する。それが俺の信条よ」
「またくだらん犯罪者の志か」
「かぁ! これが理解できないとは不幸なやつめ!」
 信条うんぬんの話はさておき、いささか癪だが“風錐”の言う通りだった。真っすぐ歩けもしない今の俺は何をしようにも使いものにならないだろう。
 だが、奴に「あの日から四日経った」と聞いたのが俺の中で大きかったのも確かだ。
 そんなにも時間が経ってしまった今となっては、焦ったところで全て手遅れかもしれない。そんな考えがちらりとよぎってしまった自分に対して、正直さっきよりも吐き気がした。




 それからの数日間は正直屈辱だった。
 “風錐”に食料を確保してもらい、“風錐”に傷の手当をしてもらい、“風錐”にここら一帯の状況を確認してもらった。ようは、信用ならない奴に身の回り全ての世話をしてもらったという事になる。
 敵を相手にしてここまで借りを作ってしまうと、後にどんな見返りを求められるかわかったもんじゃなかった。というか、自分の身を誰かに守ってもらっているという状況が今までに無かったためにどうも慣れず、どういう表情でいればいいのかわからなかった。
 だが、体力を回復している間にわかったこともある。
 盗んだ“プロジェクトF”の書類は“風錐”が持っていた。ギラティナの奇襲に遭ったあの土壇場で、俺を担ぎ、時化た海の中を“なみのり”し、それでいて書類を手から離さなかったとは。奴のバイタリティはどうなっているんだ。
 今俺たちがいるこの海岸は、どうやら不思議荘のある町から海を隔てた一番近い海岸らしい。不思議荘からそこまで離れていない(といっても物理的距離はだいぶある)という点ではいいニュースだったが、身の安全が保証される治安レベル圏外だという点では、悪いニュースだった。通りで、“風錐”が身を潜めるのに人気の無い海岸の洞窟を選んだ訳だ。弱っているところにたかってくる犯罪者は、ここらではちらほらいるという事だろう。
 頭が冴え渡ってくると、分かったこと以外に疑問点もいくつか浮かぶ。
 まず、なぜあのタイミングで仲介所が出て来たのか?
 ギラティナは『裏切り者の抹消』、つまりかつて仲介所にいながら姿をくらませた“風錐”の始末のために現れたのだと言っていた。だが、“風錐”の始末ならば犯行当日でなくとも、それこそ奴があの町に戻って来たときにいつでも出来たはずだ。その方が俺に姿を見られるリスクもないし、秘密結社としてなにかと秘密主義な仲介所としてはそちらのほうが都合がいい。
 なぜわざわざ、“風錐”は逃げたはずの仲介所が牛耳るこの町に戻って来たのか?
 俺自身が所属しているからそのリスクの重大さは身に染みて分かる。まず大前提として仲介所から無事に逃げ出せたという事自体が驚きなのだ。ふつう怪盗が仲介所から逃るなんて、警察に捕まるか死する以外には道がないと思っていた。“風錐”はよほど慎重に事を進めたのだろう。仲介所から逃げた後はこの町を去り、長年姿をくらませていたというのもうなずける。
 だったら、なぜ戻って来た? やっと仲介所から抜け出し、数十年もの間自由を謳歌できる日々を過ごしていたはずの“風錐”が、なぜ砂地獄に飛び込むようなことをした? 仲介所が抹殺のために接触してくる事は奴も承知の上だったはずだ。しかもその上、狙う獲物は警察本部の重要機密書類。そんなところへ飛び込んで行くなんて、捕まるか殺されに行くようなものだろう。ここまで頭がキレる“風錐”が、なぜそんな自殺行為じみたことを(本人は自殺行為だなんてさらさら思っていないだろうが)したのだろう?
 だとしたら、“風錐”がそこまでして盗みたがる“プロジェクトF”とは、一体なんなんだ?
 俺は仲介所に『窃盗試合で勝て、ただし詮索はするな』という依頼を受けていたから、“プロジェクトF”の中身まではそれほど気を止めなかったし、ロウが調べても分からなかったことはロクなことではない、と意図的に触れまいとしていたのもある。
 だがここまでくると、“プロジェクトF”の正体を探らずには俺も無事ではいられないかもしれない……。
「おぉい、“黒影”」
 と、そこまで俺の思考がまとまりかけていたとき、外へ偵察に出かけていた“風錐”がひょっこり帰って来た。
「あんたももう大分歩けるだろう。近くに町を見つけたから、そこへ行ってとりあえず今後の相談でもしようぜ」

 “風錐”は町だと言ったが、どうにもこれは寂れた集落にしか見えなかった。“風錐”が言ったからにはポケモンが住んでいる事は確かだろうが、昼間にさしかかろうというのに路地はどうも静かすぎる。店が建ち並ぶショッピングモール的なところだったのだろうが、そのほとんどがもぬけの殻で、店舗をしっかりと締めている様子すら無い。
 そんな寂れた道で唯一開いているパブに俺たちは入り込んだ。どれだけ廃れた町でも酒の需要が減る事は恐らく無いだろう。その証拠と言うべきか、店内にはお世辞にも柄がいいとは言えないポケモンたちが数名酒を静かに呑み交わしている様子が見えた。“風錐”はドカリとカウンター席に座り込み、とりあえずという風に俺には分からぬ酒の名を注文する。ご丁寧に俺の分まで。
 おい、持ち合わせはあるのか?
「さて、どこから話したもんかね」
 ガブリアスの腕の先端には鋭い爪しかついていない。彼がカウンターへパタパタとリズミカルに手を叩くと、カチカチとやかましい爪の音が耳についた。
「どうするもなにも、あんたは書類を手に入れて結果的にあの町から逃げおおせたんだ。仲介所がどこまで追ってくるかは見当もつかないが、もうあんたの目的は完遂され――」
 バサッ。
「いてぇ!」
 俺の言葉が終わらないうちに、“風錐”が無言のまま俺の頭上に書類を叩き付けてきやがった。一体何をしやがる! そう思って叩き付けられた書類を手に持ってみると、まぎれも無くそれは俺が犯行時に何度も見て来た“プロジェクトF”だ。
「それ、読んでみろよ」
「は? いやでもこれ、警察の最重要機密……」
「いいから、読んでみろ! 読めるものならな」
 有無を言わせぬ声に押されるがまま、俺は手に持った書類の束を見てみた。表紙は何の変哲も無いタイトルページだったので、ペラリとページをめくり、本文を確認してみると――。
「なんだこりゃ」
 一ページ目は、白紙だった。
 いや、一ページどころの話ではない。どれだけページを繰っても、現れるのは白紙、白紙、白紙……。
「これはいったい、どういうことだ!?」
 俺は思わず“風錐”に小さく叫んでみるが、奴も今までに無い険しい顔で木のジョッキに注がれた中身を飲み干し、唸る。
「それはまぎれもなく、ダミーだな。屈辱的だが俺らは一杯食わされたんだ、警察のヤロウに」
 じゃ、じゃあ本物の書類は、まだ警察が持っている?
 となるとこの窃盗試合、どちらかが勝利したわけでもなく最後に笑ったのは、警察という事になるのか?
「本物には一度もお目にかかった事が無かったから、まさかこれがダミーだとは思わなかった。――これでわかっただろう。俺の目的は、いまだ何一つとして完遂されていない」
 いつも軽口を叩いている“風錐”としては珍しく、低く真剣な声で俺にそう告げた。そして言う。“プロジェクトF”を、必ず盗まなければならない、と。
 なんという、執念だ。スリルや娯楽を目的とした怪盗ならば、まず一つの獲物にここまで固執するはずもない。
 “風錐”の言葉に俺は、再び先ほど考えていた疑問へと立ち戻る。
「一度は“仲介所”から逃げ出せたというのに、そこまでして盗みたがる“プロジェクトF”とは、いったいなんなんだ?」
「……」
 “風錐”は、俺の質問にも黙って空になったジョッキを傾けるのみだった。俺は、奴がすぐにその質問に答えてくれるとも思えなかった。なぜかって、そこまでして執念深く一つの獲物を追うなど、理由は一つしか無い。
 俺が、家族を守るためにそうするように。きっと“風錐”も、あの紙切れにに大切な何かを託していると思ったからだ。
 そして、いくぶんか周囲の客層が変わった後、“風錐”はやっと言葉を吐き出した。
「……知ったら、あんたも戻れなくなるぜ、“黒影”」
 今更なにを言っている?
「俺ももう戻れないところまで来てしまっているんだ。それはあんたもわかっているだろう」
「……ったく、わかってねぇな」
 バンッ、とジョッキを乱暴にカウンターへ叩き付けた。そして、席から立ち上がって出口に向かう。
「ついてきな。俺の身の上話をしてやる。それを聞いたうえで、それでもこの書類がなにか知りたいってんなら、教えてやるよ」
 そして奴は、さっさと店の外へ歩いていってしまう。
「お、おい、勘定!」
「ツケだ!」

ものかき ( 2016/10/18(火) 21:04 )