Steal 12 不思議荘で落ち合おう
「俺は嬢ちゃんのその言葉を信じる――それに免じて、ひとつ重大な事を頼まれちゃくれないか?」
怪盗“黒影”と怪盗“風錐”の窃盗試合の、前日のことだった。
「頼み? ……本官に、でしょうか」
「ああ」
日が沈んだ警察本部の屋上、エイミ刑事はビル風にあおられながら、フレアの言葉の意味を考える。
「本官にできることであれば、なんなりとおっしゃっていただければと思います――」
エイミが全てを言い終わらないうちに、フレアが前足で何かを彼女の目の前にずいと押し付けて来た。
防水加工用にファイリングされた、何かの書類のようだった。
「こ、これは……」
「わかるだろう。“プロジェクトF”そのものだ」
「な、なぜこんなものを今ここに持ち出しているのですか!」
彼女は、目の前にいるのが上官だということもあたまからすっぽ抜け、ついそう叫んでしまっていた。だが、しまったと思った彼女を、フレアはフッ、と笑うだけであった。
「この書類を持って、身を隠していてくれ。誰が来てもこれを渡すな。それがたとえ警察であったとしても、だ」
「ど、どういうことですか……」
エイミには何がなんだか分からなかった。もしかして、もうすでに怪盗たちへの対策をここで練っているのだろうか。だとしたら、警察にもこれを渡すな、とはどういうことだろう。
「すまん……訳が分からないだろうが、黙って聞いてくれ。“風錐”が“プロジェクトF”についての予告をしたとき、警察上層部の動きが明らかにおかしくなった」
俺たちの知らないところで、何か良からぬことが起きている。フレアはそう続けた。
「俺の杞憂ならそれでよかったんだ。だが、俺の予感は的中した――もしかしたら、“黒影”と“風錐”は、逮捕どころじゃなくなる可能性がある」
「あの、フレア刑事……もう少し、本官にも分かるように説明していただけませんか」
「この書類、誰かに渡ったら警察にとって不都合な事実が書いてあるのさ」
「ま、まさか、中身を覗いたのですか……」
「内緒にしていてくれよ」
いくら書類を守るためだとはいえ、警察官のすべき範疇をフレアはゆうに越していた。いや、誰よりも「この書類を詮索すべきではない」と忠告していたポケモンだったというのに。
「フレア刑事……」
「すまん、嬢ちゃん。あんたを巻き込んだ上に、幻滅させる事になってしまったな。だが、それも覚悟の上だ。警察は、俺が知らぬ間に汚れきっちまっていたのさ。俺には、いち警官としてそれを世間に告発する使命がある。――不正は、正さなければならない」
フレアは、右の前足をエイミの肩に乗せた。
「だから、来るべき告発の準備が整うまで、これを守り通してくれ。それが出来るのは嬢ちゃんしかいない。あんたにしか頼めんのだ」
警察上層部の動きが少し不安になっただけで、鋭い刑事の勘を働かせたフレア。そして、本来ならば怖じ気づいて見ぬ振りをするはずの不正の事実を確認し、告発しようとしている、いち警察官。
まさに、正義の使徒と言うべきだった。
「……本官は、あなたに幻滅もしていません。巻き込まれたとも思いません」
「嬢ちゃん」
「あなたはやはり、本官の最も尊敬する上官でありますッ」
エイミ刑事は、美しすぎる敬礼をフレアに見せた。
「不正は、正さなければなりません――私たちの手で」
――Steal 12 不思議荘で落ち合おう――
「ぐぁあああッ」
迸る痛みに、思わず叫び声が上がった。だが、辺りにその叫び声を聞きつけて駆けつけてくる者など、いるはずも無かった。
四角形の狭い牢獄に、繋がれているのは自分だけだ。
首輪をされ、四本の足は、前足と後ろ足で重りのついた鎖につながれている。床がひんやりとつめたく、それでいて湿っていて炎タイプにとっては不快で仕方が無かった。だが、痛みも不快も、いまはその感覚が判然としない。
いったい、ここに繋がれて何時間経った?
今は何時で、ここはどこだ?
食事が絶たれてどれくらいが過ぎた?
この痛みは、いつまで続くのだろう?
「――あなたの強情さは、もはや賞賛に値しますね」
どこからともなく聞こえて来たのは、本来なら最上位の上司であるはずの警視総監――カラマネロのアマノであった。その横には、先ほどから自分に苦痛を与え続けているシビルドンが控えている。
「いやー。まじ、俺が吐かせた中では最長記録になるだろうね。多分。うん、殺さないようにはするけど。多分」
いつからなのかもう判別がつかないが、ぼろぼろで思考も追いつかないほどにはこのシビルドンからの電撃を受けている。
「苦痛に声を上げ始めたのも、ここ数時間の間だよ。多分。ま、冥利に尽きるってもんだけど」
「まったく。小娘一人の居場所を聞き出すだけだというのに、なんと強情な事でしょう」
「……く、くくくくっ……」
いきなり笑い声を上げた満身創痍のヘルガー――フレアに、アマノとシビルドンは二人して怪訝そうな顔をする。
「せいぜい……俺を、吐かせてみるんだな……ぐッ……」
「勘違いしないでほしいですね」
アマノは低く冷たい声で返した。そして横たわっているフレアの頭のツノをぐいっと掴み、自身の顔の方へ引き寄せる。
「あなたがエイミ刑事の居場所を吐かないということは、彼女が書類を持っている事は明らかなのですよ。それでもあなたを生かしている理由は、彼女への交渉材料にするためです。じきに彼女もここへ連れてきましょう。……ふッ、自分ではこの苦痛に耐えられても、彼女の苦しむ様を見るのは、どうでしょうかねぇ」
「……この、下衆がッ……!」
フレアは、今持てる全ての眼光でアマノを睨みつけた。
「嬢ちゃんに、手ェ、出しやがったら……」
「手を出すのは、一体誰なんでしょうね」
「なに……ッ」
アマノの眼球がぎょろりと白目の間を行き来していた。
「私が、なぜ警視総監になれたか、知りたいですか?」
「おおい、おれの仕事なくなっちゃうんですけど」
アマノの台詞に、シビルドンはすこしのいらだちを込めた声でそう返したが、「あなた、今日はもう帰ってもけっこうですよ」と、シビルドンに興味など微塵も無い様子でアマノは切り捨てた。
「私はねぇ、フレア刑事。人の心を操るのが本業なんですよ」
「な――んッ」
アマノの眼球が怪しく光った。その瞬間。どういうわけか、自分の体が何かに支配される感覚に陥る。もがこうとする、だが、抵抗すればするほど心臓が締め付けられるような、締め上げられるような激痛が走った。
「ぐぁッ……はあッ……!」
臓物の、血の一滴まで全てが奴に握られたような感覚がする。器官が自分で操れなければ、息をすることすら叶わない。
「さあ、せいぜいあなたの強情さをここで発揮してください」
心臓の鼓動が速くなる。ビクリと勝手に体が硬直する。
「これに耐えられれば、あなたは晴れて私の傀儡ですよ」
「がッ……あああッ――!!」
迸る痛みに、思わず叫び声が上がった。だが、辺りにその叫び声を聞きつけて駆けつけてくる者など、いるはずも無かった。
*
「なるほどなァ。それであんたが追われていたって訳か」
バー“Noisy”には、ロウ、バーテンのローブシン、カテツとモズ。そして、今しがた彼らが連れて来たエイミ刑事がそろっていた。だが彼女はカウンターに座るロウの事を最大限に警戒してか、“本日貸し切り”の看板の掲げられた入り口前で「グルルル……フーッ!」と威嚇を繰り返している。
平然と酒を呷るロウの頬に一朝一夕では治りそうにもない大きなミミズ腫れができているのだから、少しは懲りたのだろう。少しくらい警戒を解いても良いのでは、とカテツとモズは思った。
酒を息の続く限り飲み干したロウは、ふぃいと息をついて、呟く。
「不正は、正さなければならない、か」
おそらく、“黒影”と“風錐”は「警察の不正」とやらが書かれている書類に手を出したがために行方不明となったのだろう。こんなところでまさか、ナイルへの手がかりがつかめるとは思っていなかった。だとすると、書類を持っているエイミと行動を共にしていれば、なにかと向こうから情報が手に入るのかもしれない。
「この書類、フレア刑事が告発の場を整えるまでは、絶対誰にも渡しません! たとえ、ええそう! あなたであっても!」
「はいはい。別にすぐに奪いやしねぇよ。そんな危険なしろもん」
いやもちろん、あんた自身を奪う事はあきらめてねェよ……とは言わないでおいた。
「それよかやべぇのは“煉獄”だぜ。あんた、よく奴の言葉を真に受けて悠長に告発を待っていられるよな」
「フレア刑事は、やると言ったら必ずやるわよ!」
「どおかなァ! あのヤロウ、ようは巨大なアーボックの腹んなかにいる訳だろ。告発どころか、まず無事ではないだろうなァ」
自分が今の警察の立場であったら、どうするのかをロウは考えてみた。まずは、エイミと書類の在処を吐かせるために、尋問する。だが、フレアの事だし絶対に喋らないだろうから、拷問する。そこで吐けば上々、黙ればエイミが書類を持っている事は確実。そして書類を持つエイミへの恐喝材料として、心身ともにボロボロにする。虫の息となった上官を見せつけでもすれば、交渉でエイミは簡単に折れるだろう。
――だめだこりゃ。まず警官として再起不能だな。
「……うん?」
バーの外に気配を感じた。一つではない。五、十、二十……結構な数だ。しかも、あからさまな殺気を放っているために正体がバレバレである。
「おっと。さっそくおでましたァ手際がいい」
恐らく、エイミ刑事の行方を追ってここまで来たのだろう。書類が警察に渡れば、全員がゲームオーバーだ。
「オーナー」
と、その時。普段なら滅多に喋らないバーテンのローブシンが、金で縁取られた黒く古めかしい電話の受話器を持って、ロウを呼んだ。
「“黒影”様からお電話でございます」
「おおおおおッ! あいつ、生きていやがったかァ!」
「なにッ! “黒影”ですって!?」
ドォン! エイミ刑事が自身の宿敵の単語に飛び上がったのと同時だっただろうか。バーのドアが蹴破られ、そこから追っ手が流れ込んで来た。
「おぉっと! ゆっくり話してェところだが、今はそうもいかねェ! どこかで落ち合おうぜと伝えてくれ!」
ロウは素早くローブシンのいるカウンターの内側へひらりと身を翻し、壁の一部を乱暴に蹴破った。そしてお前らァ、と叫んでカテツたちを呼び寄せる。
「ここから逃げるぞ!」
「なんですって! 提出した間取りにない隠し扉は、建築法違反――」
「オーナー、『不思議荘で落ち合おう』とのことです」
「よっしゃァ! わかったァ! 後は頼んだぜェ!」
ロウはそう言い残して隠し扉をくぐり抜けた。バーに残ったのはバーテンのローブシンと、彼を取り囲む追っ手たちである。
バーテンは、その種族からは想像もできないほど繊細な手つきで受話器をチンと元に戻した。そしてカウンターの中からコンクリート柱の一部を二本取り出して、ドンッと叩き付ける。
「……ふむ」
*
ヒャッハアアアア、というロウのやかましい叫び声で通話が途切れた。色々な事があったのに奴が相変わらず元気そうで少しだけ安心した。
あとは不思議荘の家族が心配だ。すぐに向かわなければ!
「不思議荘で家族の安否を確認して、ロウと落ち合ったら仲介を探しに行く。それでいいな?」
「ま、遠回りにはなるが書類のありかの手がかりのためだ。しかたねぇ」
“風錐”の合意が得られたところで、俺は手に持ったプリペイド携帯を放り、空中にある間に“リーフブレード”で叩き割った。あとは、闇にまぎれて誰にも見つからないように不思議荘へ向かうだけだ。
隠密行動は、俺も忍たちからだいぶ技術を盗み見ているし、どういうわけか“風錐”の技術も一流だ。おそらく、邪魔される事無く不思議荘へたどり着く事は出来るだろう。
みんな、無事でいてくれよ!
約一週間ぶりの、不思議荘だった。いつものように、入り口の照明が俺を迎え入れるために付いている。
だが、いつもと違う。
「……気配がしねぇな」
俺が恐れて吐き出せなかった言葉を、“風錐”が淡々と述べた。血の気が引いている。自分の手元を見下ろしてみると、手が小刻みに震えていた。
誰もいない? ロウがどこかへ避難させたのか? だったら、さきほどの電話でそう伝えていたはずだ。なぜ、誰の気配もしない?
息をのんで、俺は不思議荘の引き戸をガラガラと開けた。やはり電気は付きっぱなしになっている。
「な、なんだ……ッ」
思わず鼻を塞いだ。むせ返る臭い。これは、血か? そんな――。
「あ、おい、“黒影”ッ!」
まさか。まさか、まさかまさか。
違うだろ? 嘘だろ? 無事だろ?
バァン、とみんながいるはずのリビングへのドアを、乱暴に開けた。
俺の目の前に、横たわる巨体。
こいつは――。
「――仲介……?」
出血し、倒れ込んでいたのは、不思議荘の誰でもなく、ヨノワールであった。
*
思考が追いつかない。
なぜだ? なぜこいつがここにいるんだ? みんなはどこへ行ったんだ? みんなをどこへやったんだ?
俺の後に続いて、“風錐”が居間に飛び込んで来た。そして俺と同じ光景を目の当たりにする。
「なにがどうなってるんだ……」
探そうと思っていた、探し出して一発殴ってやろうと思ったヨノワールがここにいる。だが、ティオさんと、アフトのあんさんと、マルは消えていた。
「おい……ッ!」
俺は、どういうわけか俺の家のなかで倒れているヨノワールに詰め寄る。
「おいッ!」
「ぐッ……」
まだ息はあった。俺は奴の胸ぐらをつかみあげた。痛みにうめいているが、そんなことは関係ない。
「てめぇッ! なんで……ッ、なんでてめぇがここにいやがるッ! 俺の家族になにしやがったァッ!」
「やめろッ!」
「離しやがれぇッ!」
“風錐”が俺を羽交い締めにしてヨノワールから引きはがす。必死に抵抗したのに、なんという力だ。
「殺してやるッ! てめぇッ! 殺してやるからなッ!!」
「馬鹿野郎ッ、どんなに憎い相手だろうが怪我人だぞッ! やっていい事と悪いことぐらいわかるだろうがッ!」
奴は、“風錐”は。暴れてもがく俺を放り投げやがった。椅子ともども壁に打ち付けられる。いてぇ。
「くっそぉおおおッ……!」
「奴は重要な手がかりだ、勝手に殺されちゃ困るんだよ! それに、家族がどうなったかはこいつしかわからないかも知れないだろうが。沸点が低すぎるだろ、ちょっとは考え――」
「――お兄ちゃんっ!?」
バッ!
俺は声のした方を振り返った。忘れもしない、間違えもしない。この声はまぎれも無く――。
振り返ると、階段の前に小さな……、小さなイーブイが立っていた。目に涙を溜めて、今にも泣き出しそうで。俺が、俺が守ってやらなきゃいけない……。
「マルッ……!」
「うわぁあああああああん! おにちゃぁああああああああん!!」
ふさふさとした茶色い毛玉が、蹴鞠のごとく思いっきり飛び込んで来た。抱きしめた。思いっきり抱きしめてやった。
「どこいってたのぉおおおお!? ぼくっ、ぼくぅううう……うわぁあああああああ!」
「すまない……すまない、マル……ッ! ごめんッ……!」
マルは生きていた。
確かに今、俺の中で泣いていた。
温もりは確かなものだった。
幻なんかじゃなかった。
このときほど、俺が神に感謝した事は無い。
その後すぐに、不思議荘の中にいろんなポケモンたちがなだれ込んで来た。ロウと、カテツとモズと、なぜかエイミ刑事と。
だけど、マルはその間もずっと泣いていて。そんなマルを、俺はずっと抱いていて。
周りの声なんて、聞こえなかった。