Steal 9 “風錐”
警視総監室に入ると、以前来た時よりも浮遊物が増えているように感じられた。フレアはそんな感情をポーカーフェイスの下に隠しつつ、警視総監・アマノのデスクの前まで歩を進める。
「本官に何か、御用でしょうか」
本人は背を向けているので彼からは椅子の背もたれしか見えなかった。
「“怪盗狩り”捜査主任、ヘルガーのフレア刑事」
仰々しく名を呼ばれ、アマノは初めてこちらへと振り返る。
「“プロジェクトF”を、どこにやったのですか?」
やはり、そう来たか。フレアは気を引き締めた。
「弁解のしようもありません、“プロジェクトF”は、にっくき怪盗どもに盗まれてしまいました。ただいま、全力を挙げて彼らの行方を捜査中……」
「お黙りなさい」
フレアの言葉を遮り、アマノが独特の声音を裏返えらせてぴしゃりと言い放った。浮遊していたコーヒーカップやら、万年筆やらが一斉に制止する。
「怪盗に盗ませたのはダミーだということはわかっているのです。いえ、それ自体は怪盗から書類を守るための手段と考えれば百歩譲ってよしとしましょう。しかし! まだ本物は私の手に戻って来ていない」
アマノは腕を組んでそこに顎を乗せる。
「もう一度問います、フレア刑事よ。本物の“プロジェクトF”はどこにあるのです?」
「さて、なんのことやらわかりませんな」
フレアは微塵も表情を変えず、うっすらと目を閉じながらそう言った。
「この期に及んでシラを切り通しますか。カードキーはあなたに預けたのですから、ダミーへのすり替えはあなたにしか出来なかったはず」
「金庫の監視カメラの映像をご覧になられては? そこに本官は映っていないはず。ダミーにすり替えたとなれば、本官にカードキーを預ける前、警察の上層部が行ったのでしょう」
「ふむ、その余裕。さては監視カメラの映像も操作しましたね?」
フレアは片目だけ少し開いた。アマノの台詞に動揺した訳ではない。なぜだか、そう言うアマノの声音が非常に嫌らしく感じられたからだ。目を開けてアマノの顔を見てみると、彼はなぜかにんまりとした笑みを漏らしている。
「はてさて、これを見てもあなたは余裕の表情でいられますか?」
アマノは“サイコキネシス”で浮かせていた浮遊物のうち、折りたたみ式の映像装置をフレアの目の前にたぐり寄せた。映像はひとりでに再生を開始する。
「……」
そこに映っていたのは、誰もいない“プロジェクトF”の金庫であった。だが、どういうわけかそこに、とあるポケモンの姿が映り込んでいる。
自分自身の姿だった。
「ふふふふ……まさか、これはあなたにも予想外だったでしょう」
警視総監がそう不敵に笑う中、映像の中のフレアは“プロジェクトF”の置いてある方へと歩み寄り、手持ちのダミーとすり替え、そして迅速に出て行く。ことの一部始終がしっかりと映り込んでいたのである。
「あなたには金庫の監視カメラの台数と位置まで全て知らせてありました。あなたはそのすべての記録を書き換えたのでしょう、自分が侵入した痕跡を残さないために。しかし、そうはいっても警察上層部の金庫室。万が一のためにあなたに伝えていない隠しカメラを一つ残しておいたのですよ」
「……」
「さて、言い逃れは出来ません。フレア刑事、あなたはすり替えた本物の書類を、どちらに隠し持っているのですか?」
フレアは沈黙を通した。だがアマノはそれでも不気味な笑みを絶やす事は無い。
「“煉獄”のフレアは警察内でも特に優秀だと伺っています。そんなあなたはいったい何を思って、こんな背徳行為に及んだのでしょう? ……ときに」
アマノは高級そうな椅子から立ち上がる。カラマネロ特有の長い腕を後ろに組んで、その場を数歩徘徊し始めた。
「あなたが最近よく連れている部下――たしか、レパルダスのエイミ刑事でしたか。彼女の姿が見えませんね。いま、どこにいるのでしょうか」
「本官は、部下の細かなスケジュールまでは把握していません。“黒影”を追うのに疲れて、しばし休暇をとっているのかもしれません」
「真面目そうな彼女がこの非常事態に休暇を! なるほど、面白いですね」
アマノはいつの間にか、フレアの目の前にまで巨体を進ませていた。そして、ずいとフレアへ顔を近づける。
「あなたの警察への背徳行為、本来なら除名ものですが……まさかいまさら、そんなに生温いことをするとは思っていませんよね?」
アマノの黄色い眼がフレアを捉える。
「今ここで書類の在処を吐かなかった事、そして、この私を怒らせた事――殉職の方がましだというほど、後悔させてやりましょう」
フレアは、赤く鋭い眼光でアマノを睨み返した。
「――やれるもんなら、やってみろ」
――Steal 9 “風錐”――
「俺も最初は、ただ物を盗む事に快感を覚えていたコソ泥に過ぎなかった」
俺たちは海岸に戻り、水面が波打つ音をバックミュージックにしながら“風錐”の話を聞く事になった。
「あの頃は“奇跡の街”も他よりちょっと治安のいいエリアに過ぎなかったから、路地裏に行けば目に見えない犯罪はごまんとあったはずだぜ。万引きに、恐喝、強盗……。俺は、そんなものを見るのが不快で仕方なくてな。だから、ちょっとしたいたずらのつもりでゴロツキ相手に物を盗んだのが俺の怪盗人生のはじまりなのかもしれねぇ」
“風錐”が言うところの“不快なこと”をするばかりのゴロツキたちを相手に、騙し、出し抜き、物を盗む。普段誰かを苦しめいている奴が悔しがる様は見ていて爽快だったらしい。なんと悪趣味なことか。
「その時に丁度目をつけられたのが、発足したばかりの仲介所でな。奴らは俺の前にこつ然と現れやがったんだよ。そんで言うんだ。『もっと面白く大きな盗みを、エンターテイメントをやってみないか』と」
「悪魔のささやきだな」
そう言ったのがあのヨノワールだったのなら、さらに不気味なこと請け合いだろう。
「俺もその時そう思っていればまだ良かったのかもな」
「話に乗ったのか」
「乗らない訳がねぇ。それが若さってもんだ」
言い方が投げやりだった。もしやこれは、開き直りというやつではないか。
「こーれが面白くってなぁ! 予告状を出して、震え上がったところに獲物をかすめ取る。これがまた、私腹を肥やした資産家とかだとさらに痛快だ」
だが、そのうち“風錐”の盗みにも、そして周囲の反応にも変化が訪れてくる。
今の今まで、“風錐”は特に犯罪者の間で恐怖の名として知られていた。怪盗とは盗む相手だけでなくその周囲にまで被害や影響を及ぼす生き物だから、周りからも常に疎まれる対象だったことは容易に想像がつく。
だが、そんな盗みを繰り返して行くうちに、彼にはメディアがくっついて来た。依頼人に盗んだ獲物を渡すと、なぜだか感謝された。少数であるがファンがつき始めた。“風錐”をマネする愉快犯が現れた。そしていつの間にか、同業者が増えていた。
そして怪盗は、エンターテイメントとなっていた。
「俺は、いつの間にか義賊と呼ばれていた。これはびっくりだったなぁ。そしてまぁ、俺が怪盗としての使命を自覚するようになる決定的なことが起こった」
「決定的な事?」
「……妻だ」
「…………は」
つ、妻ぁ!?
俺は若干後ずさるハメになり、いや、ちょっとまってくれよ、と言うしか無かった。
「き、貴様、所帯持ちだったのか!」
「なんだその反応は! 殴られてぇのか!」
怪盗が、結婚!? 都市伝説だと思っていた……!
「そんなにおかしいことも無いだろうに。正体を隠してさえいれば、結婚することも、家族を持つこともできる」
「あんたは、正体を隠して結婚したのか」
「ああ。……こっちが心配になってくるほど真っすぐで優しい奴だったな」
その妻とは、夜道で悪漢に襲われかけているところを気まぐれに助けたのがきっかけで出会ったらしい。結局、正体は隠したまま結婚にまで至ってしまったのだから、“風錐”のボロを出さぬ技術と精神力には驚きだ。
「そいつに、言われたのさ」
『怪盗は犯罪者だから好きにはなれないが、“風錐”がテレビに映っているとなぜだか明日は頑張れるという気になる』
「なぜだと俺は妻に問うた」
『“風錐”が何かを盗んでいる時は、必ず誰かの幸せを願っているとき。そして、彼を見る全ての者に希望を抱かせてくれる瞬間でもある』
「いやぁ、驚いたな。ただの犯罪者にそこまでの感情を抱いているとは、我が妻とはいえ驚きだった。今後は生半可な覚悟じゃ犯行は出来ねぇと思ったね。治安が少しずつ良くなって来ているのも、気のせいじゃないとこのとき初めて思えた」
その時から“風錐”が犯行に及ぶときには、予告から締めまでの全てを見る者を楽しませる事に特化させた。予告した盗み以外は滅多にやらなくなった。盗み以外の犯罪には極力手を染めなくなった。そして、同じく希望を分けている怪盗には同志として最大限の敬意を持つようになった。
「あいつの言葉が、今の俺を――“風錐”を支えている全てだ。お前がくだらないと言った志そのものよ」
本来犯罪者であるはずの、怪盗へと抱く羨望か……。
「くだらないと言った事に関しては、悪いと思っている」
だがやっぱり、俺には怪盗行為もただの汚い犯罪と何ら変わりないとしか思えない。
他人の物を盗むのだ。そしてその行為は、俺の人生の大半を苦痛で占めていたのだから。
「はは、まあいい。あんたがくだらないと言うのもうなずける。実際、くだらねぇよ。俺なんかを愛していなければ、あいつは死ぬ事も無かったのにな」
「え?」
“風錐”はニヒルに笑っていた。
「あいつは――俺の妻は、仲介所に殺されたのさ」
俺はあのとき、仲介所の怪盗で唯一ボスとの“謁見”を許されていた存在でもあったし、所帯を持ち世間の注目を集めていて調子に乗っていたというのもある。と、“風錐”は淡々と語り始めた。
「その日も、ギラティナに呼ばれた日でな。その時、俺をギラティナのところへ通すためにたまたまいた職員の会話を、俺は聞いちまったのよ」
「会話? どんな会話だ」
「“プロジェクトF”という代物について、さ」
ここで、その書類と話がつながる訳か。
仲介の語る“プロジェクトF”の秘密は、今までの“風錐”の考えを覆すものであったらしい。だがやはり、“風錐”は肝心の書類の内容までは触れずに、「俺は怒り狂って、その話をする奴らに詰め寄っちまってな。ギラティナと会うことも忘れて、そいつらへすぐに俺の専属仲介を呼び寄せるように言ったのさ」と続けた。
「そしたらよぉ、専属仲介のヤロウ、『今すぐ一人で遠くに逃げろ』って言いやがる。俺は“プロジェクトF”についての詳しい説明もせずにそんなことを言う仲介が許せなくってな。もういい、こいつらとは縁を切って怪盗を続けてやるって思って、この街に一抹の未練も残さないように身支度も全部整えて、数時間後には妻の待つ家に戻ったのよ」
家には、生きた者の気配は無かったという。ひんやりと伝う汗とともに部屋に入ってみると、そこには血の海しか広がっていなかった。
「遺体はなぁ、見つけられなかったんだ。……だが、見つけなくても良かったと思っている。もしそこに遺体があるとすれば、多分ミイラの姿をしていただろう。そのくらいの量が散らばっていたのさ、この数時間の間に」
これが、仲介所のやり方か。俺は、身にしみてそれを知っていると思っていた。だが、まかさこれほどまでとは……。
“風錐”の仲介所への恨みは計り知れないだろう。だがそれでも“志”を持ってして怪盗を続けているのは、妻の言葉があったがゆえなのだろうか。
彼の述べる信条は、本当に“風錐”を支える全てだったわけだ。
「俺は、仲介所から逃げた。復讐をしようって思いながら、な。まぁよくある映画のように人並みな事を胸に誓ってあの街を去ったのよ。……その時に、ちと、依頼を受けるだけ受けて蒸発して、仲介所を困らせてやったがな」
依頼を受けるだけ受けて蒸発? どこかで聞いた言葉だ。
「まさかとは思うが」
「うん?」
「あんたには……子供は、いないんだよな」
「うぇえええ、なんだそりゃ!」
“風錐”は、海岸のヘイガニに噛まれた時のように縦に飛び上がった。柄にも無く自分を抱くように両腕をクロスさせ、ばたばたとその場で小さく足踏みをする。
「子供だと? 気持ちわりい。俺はガキが嫌いなんだ! みろ、その単語を聞いただけでさぶいぼが出て来ている!」
べつに見せびらかさなくてもいい。
「それに、たとえ作りたくても作れねぇだろうよ。妻には、身ごもる予定もなしに死なれちまったんだからな」
「……そうか」
一瞬、俺の中で最悪な状況を想像したのだが、それは杞憂だったようだ。ほっとしたような、なんだか複雑な気持ちだ。こいつが“世紀の大怪盗”だとしたら、俺は奴の言う“さぶいぼ”どころではすまなかっただろう。
最悪、“風錐”を殺したい衝動に駆られていたかもしれない。
「――まぁここまで話したのは、別に同情してほしいからってわけじゃない」
“風錐”は、子供という単語からやっと回復したのか、当たり前のように平然とした顔で俺の横に戻って来た。そして、ドスリと腰を下ろす。
「俺がシケた身の上話をしたのは、ここまで聞いても“プロジェクトF”が何か聞きたいか、ってことだ」
“風錐”は、仲介所の職員から“プロジェクトF”の中身についての話を聞いてしまったがために、数時間後には妻を殺される結果となってしまった。そして今、奴自身の身もギラティナに狙われている。
それはつまり、俺が“プロジェクトF”について聞いた日には、不思議荘の家族たちも同じ事になりかねないということになる。ダミーを掴まされた今なら、まだ引き返せるという事か。
「俺は、またあの街に戻って本物の“プロジェクトF”を盗みに行くつもりだ。……“黒影”、今のお前なら、まだあの街での日々を捨てて自由に暮らす道が残されている」
「……なに?」
この俺に、不思議荘の家族を捨てろとでも言いたいのか?
「今あんたがあの街に戻れば、書類の内容を知っていようといまいと、口封じに抹殺される事は目に見えている。もちろん、あんたの大切な者もな」
「どっちにしろ危険なのであれば、“プロジェクトF”の内容を知っていた方が何倍も強い武器になるだろう!」
「“プロジェクトF”の内容を知ったところで、あんたの武器にはなり得ない。残念だが、諦めるんだな」
「貴様も仲介から一人で逃げろと言われたとき、妻を迎えに行ったんだろう? だったら分かるだろう! いま貴様が俺に放った言葉が、どれほど俺を煮えたぎらせているのかを!」
「ああ、わかっているさ、だが、何も知らずにいる事が幸せな事もある」
俺の熱を感じ取ったのか、“風錐”は幾分か慎重な声音で俺に諭す。だが奴のどんな言葉も、俺を燃え上がらせる揮発材にしかならなかった。
「ふざけるな! 俺の幸せは、俺自身が決めることだ!」
俺は生まれてから、幸せなんか噛み締める事は無いんだと思っていた。だが違う。きっぱりと言う事が出来る、俺の人生の中での一番の幸せは、不思議荘のみんなといることだ。
家族と過ごす時間なんだよ!
「……後悔、しないってんだな」
「何度も言わせんじゃねぇ」
「――そうか、じゃあ教えてやるよ」
“風錐”は何かを諦めたように、意を決したように、鋭く目を光らせた。
「“プロジェクトF”のFは、ファントム。――つまりあれは、“怪盗計画”についての全てが書かれた書類だ」