Steal 6 大ボス
「はぁ……はぁ、はぁ……! し、死ぬかと思った……」
波の音がする。灯台の光が見える。俺は息を吸えている。地面にへたり込める。
地に足がつくというのが、こんなにありがたい事だと思っても見なかった。
「なんだぁ? 軟弱なやつだな。これしきで息をあげるとは」
対する“風錐”はあんなにスリリングなフライトをした後でも平然とした様子で、息も全く乱れていなかった。
「もともと、空を飛べる……あんたとは……ちがうんだよ、俺は……」
渾身の訴えもほとんど声になっていなかった。俺が息を整えている間、何を思ったのか“風錐”はその場を離れようとしなかった。その書類を持って逃げようと思えば逃げられたはずだ。怪盗としての礼節か? それとも、それ以外の何かか? どのみち零時を回った今では奴に勝ちを譲るほか無いのだが……。
そうか、俺は結果的に――負けた事になるのか?
俺は、息も整ったのに、立ち上がる事が出来なかった。ぽつぽつと雨が降り始めた。先ほどまで不気味に穏やかだった波が少し時化て来たような気がする。
「おい、大丈夫か?」
横目で視線を寄越して来た“風錐”に、俺の表情はどう映っていただろう? 青い顔だっただろうか。死相がくっきりと浮かんでいたのだろうか。俺は、俺自身の表情がわからなかった。
ただ、全身の血の気が引いて、灯台に表示されている電光掲示板の時刻が、確かに零時を過ぎているのを確認するほかになかった。
「や……や、ばい」
――窃盗試合に、負けた――。
それがすなわち何を意味するか、今更になって俺はこの状況を理解した。
やばい。
やばい……。
どうする? 今すぐ逃げるか?
不思議荘まで、何分かかる?
仲介所より早く帰れるか? ティオさんは、夜中に鳴るインターホンに出るだろうか?
だがうまく逃げたとして、その後は? マルの学校はどうする?
どうする、どこでかくまう? あんさんの職場に代わる仕事はどうする?
――まず、仲介所相手に、逃げられるのか?
「――“黒影”ッッ!!」
「!」
全身に痺れが伝わるような、鋭く芯の尖った声に、俺の思考は強制遮断された。
叫んだのは、他でもない。――“風錐”本人だった。奴は、先日俺を中途半端だ、腑抜けだ、と吐き捨てたとは思えぬ親身な表情で、俺の肩をがっしり掴んでいた。目線を合わせて、いつの間にか本降りになっていた雨に濡れるのも気にしないで、俺の顔を覗き込んでいる。
「怪盗が、みっともなく動揺するんじゃねぇ。どんな時でもふてぶてしく余裕ぶった顔していろ」
「だ、だが……」
「何があったかはおいちゃんには知らねぇが、焦っても焦らなくても状況はかわらない、だろう?」
『――その通りだ』
ビクッ。
いきなり聞こえてきた俺でも“風錐”でもない第三者の声に、俺たちは二人で身構えた。な、なんだ、今度は何が起こったと言うんだ?
海は波が暴れる一方で、水面は大きく揺れている。だが、そこから確かに、何かの気配を感じた。
「隠れて盗み聞きとは感心しねぇなやっこさん。何もんだ? 姿見せたらどうなんだ」
『そうだ、私は裏切り者のためにわざわざ姿を現してやるのだ――“風錐”よ』
知らないはずの声に名前を呼ばれたせいか、怪訝そうに片方の眉を上げる“風錐”。それと同時に、俺たちの足下に広がる海の水面がきらりと揺らめいた気がした。
灯台の光が反射したのか、いや、違う。明らかに時化た時の波の動きとは違う、重力に逆らって渦を作り始めた水面から、一気に水しぶきが吹き上がる……。
いったい、何が起きたと言うんだ!?
「あぁ……かぁーっ! そうか、忘れてたぜ」
巻き上がった大量の水しぶきを俺たちは受けながら、なぜか“風錐”は爪で頭を掻いて困ったように声を張り上げる。何がなんだか俺には全く理解が追いついていないが、巻き上がった水しぶきの中心から、その“水面の中から”、光を帯びた巨大な何かが這い出て来たのだ。
「文字通り世界の裏側から、俺たちの住む社会の裏を牛耳る者……ひさしぶりだなぁ」
“風錐”はあくまで悠長だった。この状況で久しぶりだと抜かした相手は、体に纏う光が収まったと同時にその特徴を捉える事が出来た。六つに伸びた足、鳥ポケモンの翼とは似ても似つかぬ漆黒に塗りつぶされた翼、そして、赤く不気味に光る、眼――。
「わざわざ御身自ら現れるとは。“仲介所”の大ボス――ギラティナさんよ」
ギラティナ――そう呼ばれたポケモンは、言葉として聞き取る事の出来ない凶暴で鋭い咆哮を俺たちに向けてあげたのだった。
――Steal 6 大ボス――
仲介所の、大ボスだと……!?
俺は、目の前に現れたギラティナと呼ばれた仲介所の大ボスを前にして動けないでいた。全身からビリビリと伝わる威圧、悪寒、そして未知数の相手に対する恐怖。
そしてなにより、その種族の威圧感というより、昔から恐怖の対象であった“仲介所”が、いま勝負に敗北したこのタイミングで現れることに、俺は動けないでいた。
「よぉ、ギラティナ! なんだい、いつも人前には絶対に姿を表さないお前がこんなところへご足労とは」
雨が降りしきる中、海面の上に浮遊しているギラティナに向けて“風錐”は揚々と片手を上げた。まるで呑み友達とあった時のようなあっけらかんとした態度だ。奴は、この威圧感をなんとも思っていないのか?
「もしかして、おいちゃんへのラブコールかい? へへっ、照れるねぇ」
『黙れ、この裏切り者が』
ビュオッ!
どう考えても降りしきる雨風ではない暴風が俺たち二人に向けて吹き荒れて、(いや、多分“風錐”に向けてだろう、俺はとばっちりだ)俺は尻餅をついた。“あやしいかぜ”かッ……。クソッ、俺の本能が、今すぐここから逃げろと告げているのに、動けねぇ。
『仲介所が抱える怪盗のなかでも、貴様には唯一この私が目をかけてやったというのに。まさか、逃げ出した挙げ句のうのうとまたここに戻ってくるとはいい度胸だ』
「あーあー、あいかわらずだねぇ、おいちゃんがいなくて、そんなに寂しかったのかぁ? ――いや、違うだろ」
“風錐”の声のトーンが軽く一オクターブは下がった。巨大な威圧感を相手にここまで平然としていられる事自体に俺は驚いているというのに、どうだろう、俺からは背中しか見えないガブリアスは、ギラティナに対して明らかな負の感情を抱いているようだった。敵意か、憎悪か。いや、その感情の正体を俺が計り知る事はできない。
“風錐”は手に持った“プロジェクトF”をギラティナにも見えるように掲げてみせた。
「俺がこれを盗むと宣言して、内心焦ったんだろう? あんたは俺の腕を知っている。盗みを阻止する事が出来ないと踏んで、俺が盗み出した後にこの書類を取り返そうとしたんじゃないのかぁ? 御身自ら、な」
仲介所が、警察の機密書類をほしがっている? なぜだ? いや、それよりも“取り返す”って――。
『貴様は知りすぎている。――抹消せねば』
「というわけだ、おまえさん、全力で逃げた方がいいぜ」
くるりと俺の方へ振り返った“風錐”は、ここへ来て初めて俺に声をかけた。
「に、にげるって、どこに……」
「聞いただろ、お前も“知りすぎている”。仲介所の手が届かない場所に逃げるこったな。どこでもいい、とりあえず遠くへだ」
「そんなことできるわけ――」
そう叫ぶ暇もなく、俺から見て“風錐”の背後にいたはずのギラティナの姿が一瞬で掻き消えていた。どこへ消えた? 驚きで思わず目を見開く、一秒にも満たない間に……。
『――“シャドーダイブ”』
「“黒影”ッ」
「どわッ」
“風錐”が俺に倒れ込んでくる。それと同時に俺と奴が立っていた場所へギラティナが突進して来ていた。
「くっ」
「くぅッ!?」
すこしかすっただけでも技の威力に押されている。ビリビリとした風圧がなだれ込んでくる、思わずひりひりと痛んだ右腕を抑えてみると、風圧をもろに受けたせいかうっすらと血がにじんでいた。なんという威力だッ……こんなの、叶う訳が無い……!
「だから、やりにくいったらりゃしねえ」
“風錐”はそう言いながら俺の上で倒れ込んでいた姿勢からやっと立ち上がる。そして、どういうわけか俺の頭の葉を掴んで……脱兎のごとくその場から離れた!
いでででで!
「いてぇ! 離しやがれ、この野郎!」
「今止まったらギラティナに追いつかれるだろうが。まったく、おめぇさんが執念深く俺について来なけりゃ、うまく逃げおおせたのによ」
俺のせいだとでもいいたいのか!
「というか、ギラティナが出てくるなんて聞いてねぇし! あんたをかばいながら逃げられるほど、奴の相手は簡単じゃないぜ」
「仲介所から逃げられると、本気で思ってるのか!?」
「できる、できねぇじゃないだろう。逃げなきゃ殺されるんだ、逃げるしか無いだろうよ」
「だったら、一人で逃げればいいだろうが!」
お前は、俺に逃げろと言った。だけど、どこに逃げると言うんだ? 依頼に失敗して、目の前には叶うはずも無い戦闘力を持った奴がいて、しかもそれが仲介所のボスで。
俺は、もう……ここで終わりなのか?
――失敗したら、どうなるかお分かりですね?
「俺は、お前に負けた……。仲介所からの依頼だった。リカバリーがきく依頼じゃなかったんだ! 負けたら、もう後が無い……」
せめて、家族だけでも守れたら……そう思っていたのに、仲介所のボスが、あんな戦闘力を持っていたなんて。
あの、プレッシャー。
あれから、逃げられない。俺は、もう……。
「離してくれ……」
雨の中、“風錐”は俺を掴んで港を走る。時折暴れ狂ったような波が俺たちの足下にまで打ち付けていた。
「今俺が離したら、お前、諦めるだろ」
「失敗したんだ」
「完璧な怪盗なんかいねぇ」
「仲介所は一度のミスも許さない」
「だから逃げてんだろ、お前、いまギラティナと鉢合わせたら、死ぬぞ」
「……」
「――ふざけるなッ!」
ドガッ! “風錐”はやっと足を止めた。だがそれと同時に、俺はまた奴に殴られて無様に港のコンクリートにベシャリと打ち付けられた。
「若造が簡単に諦めやがって! 昔の俺みてぇでいらいらするぜ、まったく! 一回窃盗試合で負けただけで、全部諦めちまうように仲介所に骨抜きにされちまったんだな!」
奴は、ずぶ濡れになりながらそう吐き捨てた。
「俺は、この書類をやつらに持って行かれる訳にはいかねぇんだ! お前もまだやる気が残ってるってんなら協力してあいつらから逃げてやろうと思ったんだが……。そんなんで、怪盗やめちまうってんなら、そこで腑抜けていやがれ!」
『――“シャドーダイブ”』
「!」
一瞬の事だった。
俺へと叫ぶ、ものすごい形相をした“風錐”。そして、それをへたり込んだ姿勢で聞くしかない、俺。
一瞬、無音になった。
何かが通り抜けて行くような気がした。
その後、全身に降り掛かる、この痛みはーーッ。
「がぁッ……!」
気づけば、“風錐”もろとも海の中に落ちていた。
攻撃をもろに受けた。そう気づいたときには大しけの海に投げ出された後だった。
水の流れに逆らえない、いや、それ以前に。
攻撃の痛みで、意識をたもっていられねぇ……!
ちく、しょう……!