File.1 怪盗の受難
Steal 5 パーフェクトプラン
 警察本部、最上階。
 “プロジェクトF”のために用意されたそのフロアは、エレベーターを上がった瞬間に巨大な扉が立ちふさがっている。一般的な金庫扉の形をしたそれの下部に取り付けられているパネル、これがまぎれもなく金庫を守るための鉄壁のシステムそのものだった。
 その金庫前に、フレア刑事と数人の警官たちが物々しく辺りを警戒している。
 フレアは低く唸った。
「いいか、諸君。ここには本官の顔なじみである警官しか配備していない。すなわち、君たちに信頼を置いての配置という事だ。その事を心して、今回の窃盗試合阻止計画を聞いててほしい」
 上官の威厳ある物言いに、警官たちは一気に直立不動となった。
「まず、ここの金庫を開けるためのカードキー、これは本官が持っている」
 フレアは首から提げたパスケースの中のカードキーを前足で見せた。三十秒に一度暗証番号が組み換わるというあのセキュリティを解除する、唯一の鍵。警官たちがほんの少しどよめいた。
「もちろん、本当の暗証番号も本官のみが知っている。だが、ここに来てそんな事はどうでもいい」
 フレアは、今までの説明をばっさりと切り捨てた。
「“黒影”・“風錐”、カードキーを持たない怪盗たちに残された手段は一つだけだ。奴らは様々な手を使い、我らを混乱させここを開けさせようと画策するだろう。つまり、奴らを防ぐために有効な我々の手段はただ一つ――決して、この金庫を開けない事だ」
 このフロアに誰が現れても。たとえどんな重鎮が金庫を開けろと命令しようとも。どんな襲撃が来ても。たとえ流星群が落ちて来ても。
「絶対に、この金庫を開けるな。そして本官に開けさせるな。仮に誰かに操られてここを開けようとしたら、たとえ本官でも容赦なく攻撃していい。たったいまから上官への攻撃も許可する――以上!」
『はッ!』
 鋭く返事をする部下たちを確認すると、フレアは壁にある時計を見た。時刻は十一時四十五分。犯行時刻まで、あと十五分だ。






――Steal 5 パーフェクトプラン――






『――しゅにぃいいいんッ!』
 作戦を通達して数分も建たないうちに、フレアの無線に割れんばかりの声が入って来た。どうやら“主任”と叫んだみたいだが言葉の輪郭を聞き取るのも難しい。
「なんだ」
『警官のうち、一人のジャケットの胸ポケットから「書類はすでに盗ませてもらった」と書かれたカードがぁあああ!』
「おちつけ、金庫は開いていない。それは罠だ。念のためカードの入っていたジャケットの持ち主を拘束しろ」
『はいぃいいいい』
 さっそく、といった風にフレアはため息をついて無線通信を終わらせた。
 ――やれやれ。この程度で動揺するとは教育が足りないな。
 じりりりりりりりりり!
「今度はなんだ」
 フレアを始めとする最上階フロアの警官たちは、いきなりけたたましく鳴り響いたベルに全員が硬直した。どうやらこのサイレン、火事が起こったときに鳴る非常時のもののようだ。
「総員、分かっていると思うが真に受けてここから避難してくれるなよ!」
『主任!』
「なんだ!」
 次から次へと怪盗の仕掛けた画策がひっきりなしに訪れて、フレアは早くも怒鳴り気味になっている。
『三階から謎の火の手が!』
「持ち場を離れるな。必要最低限の人数で鎮火しろ」
『はッ』
 なるほど、この非常ベルの原因はこれか。きっと怪盗のどちらかが事前に仕掛けて置いたのだろう。警察本部の警備も見直さねばならない。
 パッ!
 そう考えた矢先、先ほどの報告にあった火の手のせいかスプリンクラーが作動した。天井に取り付けられた数十の丸い噴射機からシャワーが降ってくる。警官たちはみなずぶぬれになるほか無かった。
「……」
 安月給のわりに受ける屈辱は大きすぎる。フレアは内に溜まった憤慨と、炎タイプ故の水への不快感を、爪を絨毯に食い込ませる事でなんとか耐え抜いた。どうも、エイミ刑事たちの所属する怪盗課はストレスフルな現場らしい。
 スプリンクラーから降ってくる水もこれまた結構な量で、辺りはいつの間にか水たまり程度には水浸しになっている。足踏みで絨毯がグズグズと音を立てた。
「……」
「…………」
「………………」
 警官たちは皆沈黙しながら事が収まるのを待った。犯行時刻まであと十二分ほど。怪盗はどちらもまだ現れない。
『――こちら三階警備担当! 火の手の鎮火、完了いたしましたッ』
「ご苦労」
 無線が入った後は、再び場が沈黙となる。
「……」
「…………」
「…………主任」
 警官のうちの一人が、この場の雰囲気にたまりかねたのかフレアを呼んだ。
「なんだ」
「このスプリンクラー――いつ止まるのでしょう?」
 そう、いまだにスプリンクラーは回り続けている。




「しゅ、主任ッ! いかがいたしましょうッ!?」
 頂上フロアの警官たちは動揺していた。皆がみなフレアの指示を仰ぐために彼を見るが、当の本人は――壁に置かれた内線を置くための小さなデスクの上に避難している。四つ足のヘルガーがぎりぎり乗る事の出来る面積しか無いため、端から見るとかなり滑稽な様子だろう。
 なぜ、そのようなことになっているのか。
「これも怪盗の罠だッ、まだ持ち場を離れる訳には……」
 そう、フロア内は、すでにフレアの背丈では息も出来ないほどに水かさが上がっていたのである。天井のスプリンクラーは狂ったように水を吐き続けていて止まる事を知らない。いや、それどころかスプリンクラーという任務の度を超えて水鉄砲のように大量の水を吐き出していた。
「くッ……! まさか水攻めでくるとはッ」
 フレアは今まで、どんな犯罪者と対峙してもタイプ相性など熟練の技でねじ伏せて来た。だが、このときばかりは己が炎タイプである事を恨らむほかにない。
 フロアの窓はというと、そこは警察本部というだけあってはめころしの上に防弾仕様だ。まさか、溜まった水を逃がす構造になっている訳が無い。
「そ、そうだ。カードキーさえ持っていれば、我々が避難しても金庫は開けられまい。エレベーターを使え! いったんここから下の階に避難する!」
 警官に指示すると、早速部下の一人が水をかき分けてエレベーターへと移動した。しかし――。
「だめです、エレベーターが反応しません!」
「なんだとッ」
「おなじく非常階段への扉もロックされています。どうやら、溜まった水のせいでこのフロアが外部からの攻撃を受けたとセキュリティが判断したようですッ」
「ぐッ……くそぅッ」
 怪盗どもめ! フレアは叫びだしたい衝動にかられた。それでもなんとか叫ばずにすんだのは、そこにきっと部下たちがいたからであろう。
 だが、叫ばずにすんだとしても状況は変わらない。フレアは天井を仰ぎ見た。自分たちには逃げ道が無い。このペースで水かさが上がって行ったら、午前零時ごろにはきっと――。
「しゅ、主任……! 金庫を開けて水を逃がしましょう! このままでは全員……」
「だめだ! それでは怪盗どもの思うつぼだ!」
 ――怪盗ども! 殺さずの暗黙はどうしたのだ! 本当に我らを溺死させるつもりか!?
「でも、このままでは……!」
「金庫には排水ダクトがあるのでしょう!?」
 そう言っている間にも水かさはデスクに乗ったフレアの足の半分にまで達している。気のせいなどではない。さっきよりも水が吐き出される量が多くなっている!
「ぐぅう……」
「主任!」
「だが、しかし……!」
「たとえ金庫を開けても、エレベーターからしか怪盗はここへ侵入できません!」
「金庫内で怪盗を迎え撃ちましょう! この人数の戦闘力なら、怪盗を捕まえられます!」
「きっと!」
「ああ、俺たちなら!」
「ぐぅうッ……」
 分かっている。部下たちはみな自分の事を心配してくれているのだ。彼らはみなゴロンダやサザンドラなど、屈強で背丈も高いポケモンばかりだ。彼らにはまだ時間的猶予がある――まっ先に溺れるとしたら、それは主任であるフレア刑事に他ならないのだ。
 そのせいで彼が歯噛みしている間にも、水かさはフレアの腰を超えた。
「くそう! わかった! 金庫を開けるぞ!」
 フレアは前足でパスケースを首からとり、近場にいるシザリガーに投げ渡した。
「代わりに開けてくれ! 俺は潜れん!」
 金庫を開けるためのカードキーの差し込み口は、ずいぶん前に水没している。フレアから暗証番号を聞いたシザリガーは、すぐに水中へ潜り、カードキーを差し込んだ。細い方の足で暗証番号を打ち込む。
 ピー。ガチャリ。
 この緊迫した状況にはどうにもふさわしくないロック解除音がした。それと共に、海賊船の舵のような巨大な金庫のハンドルが、ひとりでに動き出し重い扉が開かれる。
「うおっ!」
 当然金庫の中へ大量の水が流れ込めば、その水流に沿って警官たちも流される。彼らは全員洗濯機にかき回されるかのごとく金庫へとなだれ込んだ。
 金庫内は意外にも狭かった。そこへなだれ込んだ水はすぐさま金庫の高さの半分まで迫り――。
 ゴゴゴゴゴ……。
 すぐに排水ダクトが仕事を始める。
「……あああああッ!!」
 フレアは、水に流されながらどうにか犬かきで呼吸を保っていたが、見てしまった。
 金庫の真ん中に、万全な赤外線セキュリティのもとで守られていた“プロジェクトF”は――。

 ――排水ダクトの隙間の先へ、するりと通り抜けて行った――。









 さて。そろそろだろうか。
 時刻を確認してみると、午後十一時五十三分。犯行予告の十二時まで残り七分。俺は、警察本部のビルから少し離れた水質処理所の地下に待機していた。
 現場に直接行った訳ではないので警備に当たったのがレパルダスの刑事かヘルガーの刑事かは分からないが、前者ならまんまと策にはまってくれるだろうから万々歳だし、後者なら炎タイプだから僥倖だ。
 そんな事を考えながら待っていると、さっそくゴゴゴゴという水がパイプをつたう音が近づいてくる。水流に混じってかすかに鈍い音がするのは、水に流された書類がパイプにぶつかる音だろう。
 書類は、万が一のために防水加工がされていると調べがついている。まぁ、金庫に排水ダクトがついているなら、書類に防水加工がされていても何らおかしくはないか。
「さて、ここのバルブをいじって……」
 パイプの出口は小型のポケモンが入り込めるくらいの大きさの口を開けている。バルブを開けてやると早速水が流れる音がして――。
「――ぶッ」
 俺は顔面に水鉄砲を食らうハメになった。
「……」
 そりゃ、水の流れの出口でまってりゃぁずぶ濡れになるわな。当たり前か。
 だが、顔(というか全身)についた水をはらって床を見渡せば、アクリル板に入った今日の獲物の登場だ。
「……あっけないな」
 セキュリティは万全にしようとすればするほどその穴が目立つ。俺は水浸しの床に放り投げられた書類を拾った。その時。

「――ぶわっははは! なんだ“黒影”、ずぶ濡れじゃねぇか! 傑作だ!」

 数日ぶりに聞いた声とともに俺の前に現れたのは――ガブリアス。さっそくお出ましやがったか、怪盗“風錐”!
 ヤツは濡れた俺を笑う声とともに、こちらへ軽快な足取りで近づいてくる。まさか、排水ダクトの水路をたどって来れるとは思ってもみなかった。
「待たせたな、怪盗“風錐”だッ!」
「……一世を風靡した怪盗だと豪語するものだから、どんな凄い業を見せてくれるのかと思ったら。獲物の横取りが怪盗として美しいってか? “風錐”」
「馬鹿を言え、火の手を起こしてスプリンクラーを作動させたのはこの俺だぞ? “黒影”」
「あんたがそうするってのはお見通しだ。だから、水の量が増えるようにスプリンクラーに細工をしたのは俺だ」
「エレベーターを止めて閉じ込めたのはこの俺だ」
「水路の終点を先に読めたのは俺のようだったな」
「“あんたがそうするってのはお見通しだ”。俺はかっこわるく濡れたくないからな、あんたにキャッチを託したのよ」
 ああもう! ああ言えばこう言う!
「とにかく、勝負の行方は午前零時の時点でこれを持っていた方が勝ちだ。諦めるんだな」
 俺は薄いアクリル板を“風錐”にも見えるように掲げてみせた。だが相手は軽く肩を回すだけの余裕な態度だ。
「リミットまであと五分あるぞ」
「残り五分で奪えるってか?」
「やってみるか? おいちゃんハイテクではあんたに劣ったが――」
 “風錐”は、自然体からスタートダッシュを切る姿勢となる。俺は身構えた。
「――腕っ節で負ける気はしねぇぜ」
 ドンッ! と、オノマトペではなく本当に空気の大砲のような音が俺の耳をついた。そして、気づいたときには“風錐”が俺の眼前に迫っている。
「がッ……!」
 技を打つまでもなく、俺は一発どぎついブローを食らった。視界が吹っ飛ぶ。体も本当に吹っ飛んでいる。痛みで、手に持っていた書類を思わず取り落としてしまっていた。
 い、いまの爆発的な瞬間移動は……ッ!
「そんじゃ、これはいただいてくぜ。あばよッ!」
「ま、まちやがれッ」
 ガブリアスといえば、マッハポケモン。ドラゴンタイプの中でも空中短距離を爆走させたら右に出る者はいない種族だ。そこは最大限に警戒していたというのに。まさかあの近距離で、しかも地面を蹴り上げただけであの素早さとは……!
 まるでテレポーテーションだ! 反則だろうッ!
 “風錐”は水質処理場の出口をくぐり、夜の中に姿をくらませようとしている。ひとたび夜の空に逃がしてしまっては、俺の足では奴を絶対に追う事ができない。そうはさせるか!
 頭がまだ先ほどの衝撃でくらくらとしているが、俺はなんとか走り出す。出口を蹴破るように飛び出すと、今まさに空へ逃げようとするガブリアスの姿が目に入った。いつぞやの飛行警官を追った時とのデジャヴを感じたが、そんなことはどうでもいい。
「待てッ」
 “風錐”が飛び上がった瞬間、俺は奴の足にしがみついた。
「あッ、おい!」
 “風錐”はこのときにあって初めて、心の底から緊迫した声を上げた。
 空へと飛び上がる。だが、先ほどブローを食らった時とは別の意味で視界が回る。
「おい、離せ! 片足だけ掴まれちゃ、ば、バランスが取れねぇんだよ!」
「はなしてたまるかッ……! 今落ちたら俺は墜落死する!」
 “風錐”は、よほど勢いを付けて飛行しようとしていたのか、すでに高度は低いビル一つ分ほどにまでなっている。
「俺は飛行タイプじゃないんだぞ! このままだと二人して墜落……!」
「ま、まえまえ! 前!」
 そう言っている間にも目の前にはビルが! 忘れていたがここは摩天楼。辺りには障害物しか無い上、強いビル風で俺がしがみついた状況では“風錐”も舵がうまく取れないらしい!
「うぉおおおおおおおりゃぁああああああ!」
 ここまで来たら“風錐”も力技らしい。必死に体をのけぞらせて進路をずらす。このままではガラス窓に激突して二人して大けがは免れないところであったが、間一髪すれすれのところで回避する。
「おい、もう諦めろ! そうすれば適当なところで降ろしてやるから!」
「い、いやだ! 絶対はなさねぇぞ……! お、俺は……必ず、依頼を完遂しなきゃならないんだッ」
 家族と、“風錐”……貴様の言葉と、俺のプライドと、ロウの言葉と……!
 今回だけは、絶対に譲れねぇッ!
「くそう、なんという執念だ“黒影”! まったく!」
 “風錐”は何を思ったのか、はたまたなにかを諦めたのか、ヨロヨロとした舵の取り方のまま、少しずつ高度を下げていった。ゴロゴロと雲の中で雷が鳴っているのを見ると、雨も降り出しそうでどのみち気流が乱れているのかもしれない。
 ビル風に混じって、雨の匂いと潮の香りがした。
 俺たちが向かう先は、どうやら海岸のようだ。

ものかき ( 2016/10/15(土) 20:31 )