Steal 3 中途半端
俺がまだ不思議荘になじめていない頃だった。そいつらが現れたのは。
「――初にお目にかかります、ナイル様。私、仲介所のヨノワールと申す者でございます」
俺は、誰もが優しすぎて居心地の悪い不思議荘を避け、誰もいない公園で暇をつぶしていた。まだキモリの頃だ。木陰の涼しいブランコに座っていた俺の目の前で、そいつは初対面にもかかわらず俺の名前を慣れ慣れしく口にしていた。
「……あんた、なに?」
「おや、その目つき。……ふふっ、蒸発されたお父上にそっくりだ」
父上、だと? 俺を捨て、母を捨てた父親の事を知っているのか? 俺は、奴の事など微塵も知らず、そしてその存在を忘れていたいとすら思っていたのに。
「私は、あなた様のお父上の専属仲介人をしておりました。あなた様のお父上は――怪盗なのですよ」
「……」
ばっかじゃねぇの。
俺は、半ば本気でそう思った。喉まででかかったその言葉を口にしなかっただけ偉いと思った。おそらく、不審者に目をつけられただけだろう。ここが俺のいた場所より数段治安が良いとはいえ、完全に平和な理想郷などやはりこの世には存在しなかったのだ。
「キモリ違いじゃないの」
俺はブランコから降りて、気味の悪い丁寧腰のヨノワールから遠ざかろうとした。だが、そんな俺の背中に、背筋を指で撫でるような不気味な声であいつはこう言ったのだ。
「あなたのご家族の一人……ニンフィアでしたか。最近ご懐妊されましたね? おめでとうございます」
ゾクッ。
背筋が凍るような気がして、俺は反射的にそいつを振り返った。先ほどと物腰や姿勢が全く変わらないのに。
そのヨノワールの全身から、得体の知れない恐怖を感じ取った。
「私のいる秘密組織・“仲介所”は、あなた様を怪盗として迎え入れる準備ができておりますよ。来るも来ないもあなた様の勝手ですが……ふふっ、将来あなた様の弟になるタマゴには、今後目を離さない事です――」
「――マルッ!」
飛び起きた。布団を蹴り上げてしまっていた。
辺りはまだ薄暗く、時計は午前の四時を指そうとしていた。
夢、か?
柄にも無く、息があがってしまっていた。脂汗もかいている。やけに鮮明に残った記憶だった。まさか、このタイミングで夢に出てくるなんて。
あれは、仲介と初めて会った時の記憶。あれは、まだほんの序章だ。悪夢への入り口に過ぎなかった。あれから、俺は家族にどれだけの危害を加えられそうになったか――。
いや、考えるのはやめよう。首を振って、俺は廊下に出る。
不思議荘の廊下の床は、歩くごとにミシミシと木がしなる音を立てた。だが、寝静まっている家族を起こすほどの音ではない。
いつも、マルとティオさんは二人で一緒に寝ている。アフトのあんさんの部屋を通り抜け、俺はその二人の寝ている寝室のふすまを、ほんの少しだけ開けた。
ニンフィアのティオさん、そして、イーブイのマル。二人は、穏やかな寝息を立てていた。悪夢にうなされる俺なんかと違って、幸せそうな淡い笑顔さえ垣間見える寝顔だった。
大丈夫だ、家族は無事だ。俺は音を立てぬようにふすまを閉めて、そこに背中を預ける。
深呼吸。
「俺が、守る」
――必ず、守ってやる。
仲介所などに、俺の家族を奪われて、たまるか。
――Steal 3 中途半端――
いつものように朝食を済ませる。マルやアフトやティオさんとたわいない会話をする。この生活がいつまで続くかは分からないが、とりあえず今日と言う朝はつつがなくやってきた。
ただいつもと違うのは、マルの学校が今日は休みだという点か。
「ぷーたろー、公園いこうよー」
ほらやはり来た。自室で背中を丸めながら窃盗試合の下準備に出かけようと支度をしている俺の背後で、マルは朗々とした声で俺にそう迫って来た。怪盗“風錐”との対峙は二日後に迫っている。ロウとカテツ・モズにある程度の情報収集はしてもらっているが、俺も動かない訳には行かなかった。
「悪いな、マル。今日はちょっと予定が」
「え……」
どういうわけか、いつも俺がマルの誘いを断るとぷんすかと声を上げるにもかかわらず、今日はなぜだか覇気がなかった。すこしだけそれが気になった俺は、改めてマルの方を向いてみる。
マルのクリクリとした目は潤んでいた。尻尾と耳は力なく垂れ、俺は瞬時にそれが演技などではなく心の底からのマルの様子だと悟った。
「え、え?」
マルのこんな様子は今までお目にかかった事が無い。
「い、一体どうしたんだよ、マル」
「おにいちゃん……僕たちの事、きらいなの……?」
「はぁ?」
“僕たち”、というのは恐らく不思議荘の住民たちの事だろう。俺が家族の事が嫌いだと? 何を言っているんだ。
「だって、いつもお兄ちゃん忙しくしてて、僕と一緒に遊んでくれなくなっちゃったり、ママの夜ご飯食べる日も減ったり、このまえはアフトお兄ちゃんとけんかしてたじゃない……」
おい、けんかっていつの話だ。ハヨウ率いる“兜組”とのいざこざでアフトとぎくしゃくしたのは、もうずいぶん前の話なのだが。
どうやらマルは、俺が怪盗業でどうしても忙しくなってしまうのを、「俺が自分たちを嫌いがゆえに忙しくしている」のだと思っているようだ。
「あのなぁ、マル」
違うんだよ。
俺は何か、彼の誤解が解けるような気の利いた言葉を探した。だが、するりと出て来てくれるかと思われた言葉は、喉から一言も出てこない。
俺は、いくら忙しいとはいえマルや家族たちとの時間をないがしろにしてきたのは事実だ。特にここ最近は恐ろしく忙しく、全員が不思議荘を出た後に起き上がり、彼らが寝静まった未明に帰る事も多かった。
こうなっては、マルに「嫌われた」と思われてもしょうがない。
「なぁ、マル」
仕方が無い。己のせいで起こった誤解は己の手で解かねばなるまい。俺は、ここ最近じゃ滅多に見ていなかったしおらしい表情のマルの頭を撫でてやった。
「一緒に公園に行くか」
――結果的に、その判断は間違いだった。
休日ゆえか、午前中の公園にも幼いポケモンの姿がちらほらと見えていた。しかし、彼らにまぎれようとも嫌でも目立つでかい図体が遠目に見えた。
ガブリアスだ。
まぎれもない“風錐”本人が、なぜかこの公園のベンチの一角を占拠している。今朝テレビ画面に映っていたガブリアスがいかに目元を隠していたとはいえ、あれだけ顔をさらしておいてまさか俺が他人の空似と間違える訳が無い。
すぐに回れ右を試みる。しかし、当たり前ながら数ヶ月ぶりに俺とともに公園へ来たマルがただで帰る訳が無い。
「まだ来たばかりだよ、ぷーたろー」
マルが俺の腕の葉っぱを掴んでそう言った。
「だよな」
願わくば、相手が俺の事を気づかずにいてくれる事を願うばかりだ。だが、古代の石盤を盗んだあの夜、あいつもまた生身の俺を見ている。あのときはマスクをしていたとはいえこれだけ近い距離で相手が気づかずにいてくれるか……。
「おっ? おおおっ!?」
願いなど通じる訳も無く、ガブリアスは目敏く公園の入り口にいる俺たちの姿を見つけた。そして、ずけずけとこちらへ近づいてくるではないか。勘弁してくれ。
「ねぇぷーたろー、あの青いおじちゃんと知り合い?」
「……マル、しばらく一人で遊んでてくれ……」
「おう、奇遇だねぇ」
“風錐”が俺のすぐ目の前で言う。
「ジュプトル違いだ」
「まぁそう邪険にしなさんな、“黒影”さんよ」
「頼むからその名前で呼ぶなッ」
鳥肌が立って思わず俺は小さくそう叫んでいた。だがそれは実質俺が“黒影”本人だと認めたようなものだ。なんという失態。
「うん、なんだ? あんた普段は正体隠してんのか?」
「貴様は隠しもしないのかッ」
声が裏返った。すると何を思ったのか、“風錐”は神妙な顔になって、腕を組み少しの間黙る。
「……ふむ、まぁ立ち話もなんだ。ちょっとそこに座ろうぜ――“ぷーたろー”」
ニヤニヤされながらその名を呼ばれるのもいささかか癪に障る事であったが、まぁ仕事の名前をこの場で呼ばれるよりは遥かにマシだろう。結局俺たちは、普段仲介と会話をする時のようにベンチの端と端を共有するハメになった。
マルはきゃっきゃとはしゃぎながら俺たちの数メートル先にある滑り台の頂上を制覇している。姿は見えるが声は聞こえない距離だ。一方、手を伸ばせば届くほど真横にいるのは、本来なら交わらないはずの怪盗ときたもんだ。
「いったい、何のつもりなんだ」
本来なら敵同士である俺に絡もうなどとは。その上メディアであんなに煽った“黒影”相手に、だ。
「何のつもりもなにも。怪盗ってのは昔から、同じ獲物を奪い合う時は本気で奪い合い、華のケンカが終われば飲み交わす! そんな仲じゃねぇか」
やれやれ、という風に“風錐”はベンチの背もたれに寄りかかっている肩をすくめて両手を軽く挙げた。
「“今”は、そんなんじゃねぇみてぇだがな」
怪盗たちの動きは、今や仲介所がほぼ全て管理していると言える。怪盗である時だけではない。“表”の姿としての彼らの動きも、全てが奴らの手の中だ――俺のように。
「ここらの怪盗どもは、みんな仲介所のいいなりになりやがって。怪盗としての志はいってぇどこに行っちまいやがった?」
「こころざし、だと?」
俺は自然と、目を“風錐”の方へギョロリと向いている。いや、剥いていると言った方が正しかったか。マルを引き離しておいて心底よかった。
視線を注がれた当の本人であるガブリアスはどこ吹く風といった表情だった。
「おう、志よ。“ぷーたろー”、おまえさんにもあるだろう、怪盗の志が」
俺はあんぐりと口を開けて奴の言い分を聞いているしかない。
「より華麗な盗みの美学が、見る者を楽しませる使命が、人々に希望を与える誇りが」
「……」
「おいちゃんは、腑抜けたちの中でもあんたにはそれが残ってると見てる」
俺に、その志があるだと? だから……
「だから、俺を窃盗試合の相手に選んだとでもいうのか?」
ベンチの横のガブリアスは、さも当然と言いたげに大きく頷く。
「俺は俺の認めたやつしか戦わねえ」
「ふざけるなよ」
俺は全く考えもせずに、するりとその言葉を吐き出していた。いつもは単語を発する時、言うか言うまいかをしっかり考えてから発言するようにしているというのに。今の俺にはどうも言葉を脳内で吟味する余裕すらない。
「俺たちはエンターテイナーでもなんでもない、ただの薄汚い犯罪者だ」
そんな犯罪者である怪盗に、志も美学もあるものか!
「“志”だと? そんなくだらないもののために俺を窃盗試合に巻き込みやがって!」
おちつけ、俺。いつもらしくもない。声を荒げるのは趣味ではなかったはずだ。
俺の事情を知らないで、大切な家族を巻き込んで。自分たちはただ盗みを楽しむためだけに動く。今までの怪盗も、みんなそうだったじゃないか。
……だが、何かに火がついてしまったのは相手も同じようだった。
「『くだらない』だと?」
“風錐”は鋭い眼光で爪の先を俺の方に向ける。
「なら、あんたは何のために怪盗をやっている?」
「そんなこと――」
――家族のためだ。
そう、言いたかった。だが、それは結果的に叶わなかった。
“風錐”の纏う雰囲気――オーラとでも言えばいいのか――が今までに無いほど張りつめていた。ここで下手な答えを示したら、いまここで切り伏せられそうな威圧感すら感じさせる。だが気のせいだろうか、そんな背筋に刃物を当てられたようなゾクリとする感触も一瞬で過ぎ去った。
「……俺は、俺の大切なものを守るためにやっているまでだ」
「ふん、おおかたくそったれ仲介所に弱みでも握られてるクチだろう?」
“風錐”はベンチにふんぞり返り、吐き捨てる。
「――中途半端だな、あんた」
「なんだと」
「言った通りさ。志もない、足も洗えない。これを中途半端と言わずなんと言う?」
腹のそこから煮えたぎるような不快感を覚えた。
「あんた、本当に大切なもののために怪盗をやってるのか? えぇ? 仲介所が弱みを握っているからやりたくもない怪盗を辞められないって? 違うな――“脅されている方が続ける理由を探さなくて済む”から怪盗続けてんのさ。芯もなにもありゃしねぇ、ただのぬるま湯だ。こりゃ、俺の他人を見る目も衰えたかね」
「言わせておけば! 自分を棚に上げるな! 貴様も一度は仲介所から逃げ出しただろうが。そんなやつに中途半端と抜かされる筋合いはない!」
――俺の苦労を、ガキの頃の恐怖を。なにも……こいつは何も知らないくせに! いや、逃げた奴なんかに分かってたまるかってんだ!
「いったい誰に聞いたかしらねぇが……ああそうさ。俺も一度逃げた身だ。だから忠告してやるのさ」
ふと、“風錐”は鋭い表情からふと真顔に戻る。
俺の、気のせいだろうか。そこには、ほんの少しの憂いも含まれていたような気がする。だが、こんなやつの複雑な表情など読み解く義理も無い。
「――あんた、このままだとくたばるぞ」
“風錐”はベンチから立ち上がった。俺に興味なんぞ跡形も無くなったように、振り向きもせず、ぞんざいに手を挙げるのみだった。
「そのまま怪盗を続けてりゃ、依頼の失敗とかで仲介所からなんらかの制裁を加えられるよりも先に、あんた自身の身が滅ぶ。……もちろん、俺は腑抜け相手にも手加減はしないぜ」
「……」
そのまま“風錐”は、公園の出入り口に歩いて行くという、ごくごく一般的な退場方法で俺の視界から去っていった。
「……くそ……」
悪態をついてみる。
「くそやろうッ」
ベンチを蹴り上げる。
ただただ、すねの痛みという不毛な産物だけが残った。
「……」
ああ、俺は中途半端さ。自分でも分かってただろう?
だって、やりたくもないことを半ば脅されてやっているのだから。こいつに俺の事が分かってたまるか?
放っておけよ、こんな奴。
なのに、どうしてこんなにも俺は――、
「……くそやろうッ……」
――マグマのごとく煮えたぎっているんだ?
*
『予告状
私、怪盗“黒影”は、“プロジェクトF”をかけた怪盗“風錐”の“窃盗試合”を全面的に受けて立つ所存である。もしこのマッチに私が勝てば、黎明期を先導した偉大な怪盗の“風錐”が、メディアへ宣戦布告をしたはずの“黒影”を前に完全敗北したとして末代まで笑いぐさにされるであろう。なお、マッチを行うにあたって警察、マスコミ各位には多大なる迷惑をかける事になるが、そこは職務ということで諦めていただきたい。
では、お勤めご苦労。
怪盗“黒影”』