Steal 8 忍
例えば、かくかくしかじかの理由で、見知らぬ少女と出会ってしまったとする。身内でも、知り合いでも何でも無いただの少女だ。
例えば、ふと別れ際になっていきなり泣かれてしまったとする。
例えば、彼女の放った言葉を思い出すとき、病院で聞こえるあの美しい歌声も自然に思い出してしまうとする。
俺は一体、何をやっているのだろう。この怪盗“黒影”とあろうものが、犯行日時を前にしてどうとでもない過ぎた出来事の一つを忘れられないのだ。
俺の横に座るロウは、なるたけ淡々と昨日あった事を話す俺の言葉に耳を傾けていた。彼の傾けるグラスには琥珀色の液体が入っている。氷がガラスに触れる音がやけに耳についた。
「……それで、俺はチルタリスを病院に送り届けただけだ。それ以外には何も無い」
そして俺がそう説明し終わると、何が可笑しいのかロウはにやにやと嫌らしい笑みを浮かべて俺を見る。
「おめでとう、弟よ!」
「なんなんだ、気持ち悪いな」
ドン、と両肩に重苦しい彼の腕が乗っかる。そして酒臭い顔をまじまじと俺に近づけたかと思うと、手に持ったグラスで、カウンターの上にある俺のグラスを乱暴に打ち鳴らした。
「マスターぁ! 今日は記念日だぜ!」
「お前やっぱり酔ってんだろ」
「ナイルよォ、男が変わる時ってェのは二回ある。それがいつだかわかるかァ?」
ロウ=スカーレット。こいつは時々訳のわからん謎掛けのようなものを俺へ出してくる時がある。
「見当もつかない」
「おめぇ、もっと真剣に考えろよなぁ」
そういうときは大抵、俺の頭の中には存在しないろくでもない答えが飛び出てくるから、真剣に付き合っては負けだ。
「それはなぁ、ナイル。“女に惚れた時”と、“女に惚れられた時”だ」
「……はぁ?」
「お前は! 今日! 青春への第一歩をようやく、ようやく踏み出したのだっ!」
「……」
鏡を見なくてもわかる。今の俺は相当頬の筋肉が引きつっている。しばらく言葉という言葉が出て来なかったのがその証拠だろう。俺は黙って席を立ち、有り金を全部テーブルに放った。
「悪い、邪魔したな俺は帰る」
「まてまてまてまて!」
ロウが若干ろれつの回っていない口調で、慌てて俺の肩を持ちやがった。こいつは酔っているくせにすばしっこさと力の強さは異常だ。チッ、後少しで逃げられると思ったのに……。
ロウに元いたカウンターへ強引に座らされ、「奢りだっつってんだろ」と、置いたはずの有り金を手に握らされた。
「まぁ聞け。物心ついた時から怪盗三昧だったお前は気づいていないだろうが、それは恋だ。恋いう奴だ、ちげぇねェ」
「失礼だな! 物心ついた時から怪盗三昧な俺でもそのくらい気づくぞ」
俺は今誰も好きではないし、それどころではない。失敗したら終わりの怪盗家業をやっていながら“恋”などという不確かな物にうつつを抜かしている暇があるものか!
「だいたい、俺が誰に惚れたって言うんだよ! 酔った勢いで適当な事言いやがって!」
もう帰りたい。そんな気持ちも込めて俺はやっつけ気味にロウへ悪態をついた。だが、そんなことを言われたゾロアークは相変わらずにやけ顔で、グイッとグラスを呷る。
「そりゃおめぇ、“歌姫”にだろォ」
「はぁッ!?」
頭に血が巡るのを感じる。歌姫に? 俺が? こいつ俺をからかっているのか?
「違うぞ、俺は断じて……!」
「いや、こりゃ面白くなってきやがったァ! おいナイルゥ!」
「うるさいな、耳元で叫ぶな!」
「俺もアクアフェリーに乗るぞォ!」
「だからお前顔を近づけるな! 酒くさ……は?」
いま、なんて言った?
「だからァ! 俺も“歌姫”ツアーに乗るっつってんだよ! 手伝ってやるよ! 今回のお前のヤマ!」
なぜいきなりそうなる!?
「見取り図だけなんて言わずにいくらでも手伝ってやる! 俺の力を使えば船上ツアーのチケットの一つや二つ訳ねぇぜ。協力して“歌姫”をかっさらっていくぞォ!」
「声がでかいッ!!」
バカヤロウッ、こんなバーのど真ん中で歌姫かっさらうなんて大声で言うんじゃねぇよ!
「だいたい、俺が“歌姫”に惚れたとでも言うのか!? あのメロエッタに!? そんなわけないだろ!」
「ヘッ、ニブいな弟! 俺がいつメロエッタに惚れたっつたんだ! お前の頭から歌声が離れない理由はなんだァ!? えぇ!?」
だめだ、話が通じない!
「お前、心の奥底ではもう気づいてやがるんだよ! このくそおもしれぇ状況にな! 俺も混ぜてくれなきゃ困るぜ!」
「気づくって何に!?」
ロウが怪盗の仕事を手伝ってくれるのは大変ありがたい。今までにも何回かそういうことはあったし(そのいずれも今回のように強引に“俺も混ぜろ”と言われたからだが)、実際この瞬間はロクでもないが、素面の時は相当頼りになる。……が、今回は嫌な予感しかしない!
ロウはさんざん叫びまくった挙げ句、酒の力で目が回りでもしたのか席にストンと再び腰を下ろした。
「まぁなんだ、ちょっと落ち着こうぜ」
お前がな。
「よし、我が弟が一歩大人になった記念に良いもんやるよ」
「まだ言うか!」
なんなんだ“大人になった”って……。俺はガキか! ……そう叫んでやりたかったが、少し前にアフトのあんさんから似たような事を言われたのをふと思い出して、胃が痛くなった。
そんな俺の思考など知る由もないロウは、ちょっとまってろ、と言って何かを探すかのように自分の持ち物をあさり始めた。あーでもない、こーでもない、ここでもない、そこでもない……としばらくうめいた後に、やっとこさ探し物を見つけたようで、何かを持ったその手を俺の前に突きつけ。しすて、どうやら紐状のものらしい手の中のものをつまんで垂らした。
丈夫な布製の紐から垂れた何から、リンと音が鳴る。これは――。
「――鈴?」
――Steal 8 忍――
「おう、これをお前にやるよ」
俺は少し変わった形の、寺の坊さんが持っているような古風な鈴を握らされた。こんな鈴が、一体なんの役に立つと言うのか? いくら彼が酔っているとはいえ、ロウに限って何の意味も無いものを押し付けてくるとも思えないのだが……。
そんな俺の心情を知ってか知らずか、彼はにやりと破顔一笑して赤い爪で鈴を指差す。
「ゆっくり、三回鳴らしてみな」
「え?」
「いいから」
こうなったら、もう彼の言う事に従うほか無い。俺は鈴の持ち手である布をつまんで、ゆっくりと三回鈴を鳴らす。
リン、リン、リン……。
小さな鈴は、やけに大きく、そして余韻の長い音を響かせた。幸い俺の他にこの場に客はいないものの、この静かなバーでは結構な騒音だ。いや、今までの俺たちの大声も鈴以上に騒音なのだが。
と、その時。
「――カテツ、参上つかまつる」
「――モズ、参上つかまつる」
ブゥン、という低い唸りとともに、俺の真横で静かな声が響いた。……というか!
「うぉおっ!?」
柄にも無く俺は肩から飛び上がりそうになった。先ほどまで店内は、バーテンのローブシン以外に誰の気配もなかった。なのに目の前に、翅の音を低く響かせた赤い目の黒いポケモンと、頭に輪っかを載せた黄土色のポケモン――テッカニンとヌケニンが目の前に現れたのだ。
俺が気配を察知するより先に、だ。
「おう、相変わらず来るのが早いな」
二人が不気味な登場をしたのにも関わらず、ロウはひらひらと片手を振るのを挨拶代わりに、彼らに軽くそう告げた。
「主のお呼びとあらば」
「このカテツとモズ、いつでも馳せ参じましょう」
何だ、この状況は。俺は時代劇でも見ているのか?
「紹介するぜ、カテツとモズだ。お二人さん、こっちが俺の弟のナイル」
どうやら、テッカニンがカテツ、ヌケニンがモズというらしい。
「おお、主の弟君とは」
「挨拶が遅れて申し訳ありませぬ」
俺が気配を掴めなかった上、やけに抑揚の無い静かな口調で丁寧にお辞儀をしてくるものだから、俺はちょっとしたホラー映画を見た時のような寒気を感じながら、ロウへ尋ねる。
「なにがどうなっている?」
「その鈴、鳴らしたろ。だから来たんだ」
「そんな事は知ってるんだよ」
「こいつらは俺の古い知り合いの知り合いのそのまた知り合いの紹介でな。ひょんなことから俺の事を慕ってくれている」
色々説明を端折りやがっているな、こいつ……。
「こいつら腕が立つぜー。お前も怪盗家業続けていくんなら、こいつらみたいな忍びの者を使わせても良い頃だろう」
「お、おいまさかこの鈴を俺にやるってことは……!」
ロウは俺の悲痛な叫びは華麗に無視し、くるりと忍者みたいな二人に振り返って俺を指でさす。
「あ、そうそう。鈴はもうこいつに渡したから。俺といるよりこいつの手伝いした方が断然おもしれぇぜ」
「おお、主の弟君が」
「次の主になられるのですか」
おいおいおい、ちょっと待て。どうしてこうすんなりこの状況を受け入れていやがる。
「無理だって。二人を仕事仲間として受け入れるのは」
ヌシって、冗談じゃない! 自分の事で精一杯なのにどうやってこれから三人で怪盗をやっていくんだ! しかも、報酬は三割り勘状ってことか? しかも“主”ってことは俺が二人を食わせていくとかそういう流れになるのか? 不思議荘に居候されても困るぞ!
「まぁそう複雑に考えるな、弟よ。仲間として考えるより、助っ人として考えるこったな。こいつらは陰で動いて誰かの役に立つ事を何よりも生き甲斐にしている一族だ。困ったときに呼べば良い。呼ばない時は好き勝手にやってるし、不思議荘とやらには絶対に迷惑はかからないさ」
「どうか、このカテツとモズ」
「よろしくお願い申し上げまする」
「絶対怪盗の仕事が大分楽になると思うぜー」
いや、そういう問題じゃない。
いきなり頭と胃がずきずきと痛くなってきたが、それはきっとさきほど飲んだ酒のせいではない。断じて。
*
「ほう。で、予告状はこのような文面でよろしいですか?」
病院の屋上。今日も今日とでいけすかないヨノワールが俺へ依頼完遂の催促をしてきていた。予定通り“アクアフェリー船で行く歌姫海上クルーズ”のタイミングを狙って“歌姫”の歌声――つまるところメロエッタを盗みに参上する旨の予告状をヨノワールに頼んでおいたはずだった。
「……“黒影”様?」
「……ん、ああ。文面か、もう、好きにしろ」
一昨日、昨日……。ここ数日、連続していろいろな事がありすぎた。
イレギュラーな依頼、屋上に響く悲しい歌声、一日不良チルタリス、地下に突然出来た賭博バトルフィールド、いきなりの“恋”宣言、問答無用で俺を主と慕い始めた謎の忍者二人……。
「珍しいですね、“黒影”様が心ここにあらずとは」
さも不思議、と言う風な声音でそう話す仲介だが、なんのことはない。いつものようにその目元はにやりと嫌らしく釣り上がっている。
「本日は私の言葉に終始上の空……。“歌姫”を追って情報収集をしているうちに、その歌声に魅了されてしまいましたか?」
「黙れ、貴様もそのネタを引っ張るか!」
なんだ、巷ではそんなネタが流行っているのか!?
「俺が上の空になったらいけないのか!? 予告状は作った、犯行時の手順もシュミレーション済み! 後は当日を待つだけ!」
こう言ってはなんだが、普段は厄介なロウと忍者二人も、怪盗の犯行を手伝ってくれるとなると相当頼りになる。逃げ場の無い船上でどう円滑に犯行を成し遂げるかは、彼らの存在のおかげで割とすんなりと作戦が立てたられた。
「いえいえ、私はそんなつもりで申し上げたのではございません。ただ、あなた様が何をお考えになっていたら、上の空になるのだろうと思ったまででございます」
全くこの野郎は、人の揚げ足を取って楽しみやがって……。
「プライバシーの問題だ! 答える義務は無い、とっとと失せろ!」
「おお怖い怖い……。では、お言葉通り私は失礼いたします」
ヨノワールは終始目に笑顔を貼付けたままアタッシュケースのロックをパチンと閉めた。そして去り際、幾分か真剣な口調になり低く言う。
「そうそう。“怪盗狩り”の情報は未だ掴めてはおりません。あの存在への警戒はゆめゆめ怠らぬよう、仲介一同よりよろしくお願い申し上げます」
その言葉に、俺は閉じていた目を開いて仲介がいたであろう場所を見た。しかし、奴は既に音もなく俺から姿を消した後だった。
そうか、そう言えば怪盗狩りの存在もあったな……。だめだ、もう、今回ばかりはうまくやれる気がしないな……。
「――」
今日も俺のいる病院の屋上では、どこかの病室から流れてくる、あの“歌姫”の歌が微かに聞こえてくる。どうやら、新聞の記事通り、喉の不調でこの病院に通い詰めているらしいメロエッタのアリアが、それでも懲りずにこの歌を歌っているのだろう。
悲しげな歌詞を、悲しげな声で。
――こんなにも、苦しくて、悲しいだけの歌声の――。
チッ、またあのチルタリスの言葉が頭に浮かびやがる。あの、小さく掠れた声。あの訳のわからない泣き顔。
なぜだ? どうして、あの一日を俺は忘れられない――?