Steal 7 スカーレット
「あー、ずいぶんと遅くなっちまったな」
すっかり忘れていたが、今日予定していた不思議荘への帰宅時間は過ぎている。ティオさんはさほど心配していないだろうが、本来いるはずの夕食に俺がいないとき、家族団らんを楽しみにしているマルは結構うるさい。
しかし、どうする。レインを病院に送り届けてから戻ったら夕食の時間は相当越してしまう。だからといって、そのまま戻れば、レインを不思議荘に連れて行く事になる。不思議荘のメンバーの性格上、あらぬ誤解を受ける事は火を見るより明らかなのでそれは出来れば避けたい。
「あの、今日は本当にありがとうございます」
俺の背中へレインの声がかけられた。飛行タイプの苦手とする徒歩での移動だが、しっかりと彼女は俺の後ろをついてくる。
「あ、あぁ……」
今日会った事を振り返ってみる。よく考えれば、ゲーセンも映画もたい焼きも、息抜きになったかどうかはよくわからない。だが、彼女はこう続けて言う。
「少し、いつもより楽しい時間が過ごせた気がします」
「ああ、それはなによりだ」
商店街を通る。ここを抜けて少し歩けばレインが元いた病院につくはずだ。俺はちらりと横目に彼女を見た。チルタリスなのにピョンピョンと両足を使いながら歩く様は、嫌でも通行人の目につくだろう。事実、道行く人の中にはすれ違った彼女へもう一度視線を送る者もいる。なぜ、彼女は飛べないのだろうか。事故? それとも生まれつきか?
「レイン、だったか」
「は、はい」
「込み入った事を聞くんだが、どうしてあんた――」
『――午後、五時になりました!』
「……」
「……」
ガッ、ガガッ、ジーッ。俺の言葉の先は、商店街の電柱に括り付けられているスピーカー声にかき消された。子どもたちへ帰宅を促す町内会恒例の時報である。彼らは世間の治安がみるみる悪化しているのを懸念して、日が沈む前に子どもたちを帰宅させようと毎日流しているらしい。それはありがたいことなのだが……。
俺たちは二人して、スピーカーから漏れる雑音に沈黙した。
おい、俺が込み入った事をいざ質問しようって時に。
そしてスピーカーからは、再び雑音とともに、何かの曲のイントロが流れ始める。
『辺りが暗くなり始めます。帰宅の音楽が流れているうちに、子どもたちは家へ帰りましょう!』
何が聞こえるかと思えば……。あろうことか、ここでも流れる曲はあの“歌姫”の歌だ。
俺はため息をついた。なんだかばかばかしくなって、ざわつきつつある商店街を再び歩き出す。レインもそれに倣って歩き出した。
「いつも、いつも……街ではこの曲が流れていますね……」
街の喧噪にかき消されそうなレインの掠れた声に、俺は反応が一瞬遅れた。
「……ん? ああ、歌姫の事か」
「みんな、この歌声の何が好きなのでしょう」
「……あんたは、嫌いなのか?」
「嫌いです」
清々しいほどの即答ぶりに、俺は少し驚いた。いままで、どんな単純な会話でも小さく掠れた声で、おどおどしながら受け答えをしていた彼女が、だ。
俺も怪盗として仕事をしていると、“黒影”の評価についてはある程度耳にする事が多い。少し有名になってくると、やはり“黒影”を支持する声が多い中でも批判の声は消えない。
いわゆるアンチというやつだ。知名度を上げる事への副産物的な物で、こればかりはどうしようもない。
彼女も恐らく、そいういうものなのだろう。
「いいんじゃないか、嫌いで。俺はべつに嫌いじゃないけどな」
「ナイルさんは、これのどこが好きなんですか?」
俺の後ろを歩いていたレインの気配が消えた。ふと振り返ってみると、彼女は立ち止まっていて――咄嗟に言葉を、発せなかった。
「――こんなにも、苦しくて、悲しいだけの歌声の……」
そう声を振り絞る、レインの表情は、まるで……。
病院で、狂ったほど繰り返して歌っていた、あの悲しい歌声と、寸分違わず一致したように見えたからだ。
「……まさか、あんた……」
――いや、まさか。
俺は、喉から出かけた言葉を押し戻す。歌姫はあのアリアとかいうメロエッタだし、なによりレインの掠れた声はまず歌として使い物にならない。それくらいは音痴でもわかる。そんな訳が無い。ありえない。
俺は平静を保とうと再び彼女に背を向けた。我ながらわざとらしい咳払いを一つする。なんだ? なんなんだ? どうして俺は焦っているんだ?
「楽しい時も歌うだろうが、苦しくい時にも歌は口から出てくる。ネガティブな感情でも、それが伝わっていれば歌っている意味もあると言うものだろう」
俺は一体、何を言っている? 訳が分からない。
「すくなくとも、俺は……」
俺は……。
「――あの歌声に込められた悲しみの意味を、知りたいと思った」
病院で、歌っていたあの声。屋上に響いた、俺の耳に残響するあの歌声。どうして、あそこまで悲痛に歌う? なぜそれでも歌う事をやめない?
「それとも、レイン。あんたは、苦しくて悲しいだけの歌に意味なんて無いと思うか?」
柄じゃない。こんなことを言うなんて、全然俺の柄じゃない。歌なんて微塵の興味も無いはずじゃなかったのか? だが、レインは俺の、自分でも嫌になるほどきざったらしい質問に、なぜかこわばっていた表情をほどいた。
「いいえ……。いいえ」
彼女は、泣いていた。
「どうして、あなたにこんな話をしてしまったのでしょうね……すいません、今の話は、忘れてください」
――Steal 7 スカーレット――
レインを病院に送り届けた。俺は誰かに見つかる前にそそくさとそこを後にしたが、恐らくレインは今頃担当の医者にこっぴどくしかられているに違いない。
あの時、彼女は泣いた。
なぜかはわからない。俺が、何か泣かせるような事を言ったとも思えない。だが、胸にモヤモヤが残る。考えるな、どうせもうあのチルタリスとはおさらばだろう。そう俺の理性が言う。だが俺の本能は、今まで感じた事の無い焦りと、緊張とでよくわからなくなる。
あの、涙を思い出すたびに――。
「お兄ちゃんおそーーーーーーーいッ!」
――思考が強制終了させられた。
「……なんだ、マルか」
「マルか、じゃないよ!! プーたろーのくせに! ふらふら外で歩いて夕食の時間に大遅刻するなんて! ママの手料理さめちゃうじゃん! いまはアフトお兄ちゃんもいないんだから二人でご飯食べるの寂しいんだからねーーーッ! この“あんぽんたん”ッ!」
「あ、アンポンタン……」
機関銃のような口撃のあと、マルはここぞとばかりに覚えたてのボキャブラリーを俺に浴びせた。やはり、夕食に遅れるとマルがうるさい。
「こーら。マル。ナイルも予定が急に変わっちゃう事くらいあるでしょ? そんなにまくしたてないの」
ティオさんは今日も慈愛に満ちた言葉を俺にかけてくれる……。
「でもナイル君? あなたも大人なんだから、予定が変わったら連絡寄越すくらいはできるでしょ?」
……前言撤回。晩ご飯に遅れたらティオさんが一番怖い。
*
違法闘技(バトル)というものがある。今日ではポケモン同士のバトルというものは、スポーツと同じくごく一部の選手の大会があるのみで、一般のポケモンはもっぱら視聴者側に回るし、学校では体育の一環で習う程度のものだ。
まあでも、当たり前だがそれはごく一部の治安がよろしい地域に住む者たちだけの認識だ。無法地帯、そして裏の世界に住む者たちは、人目のつかない闘技場でバトルを繰り広げる様を、酒を片手に見ながらどちらが勝つか賭けるわけだ。バトルと一言に言ってもルール無用、飛び入り参加可のドタバタしたうるさい喧嘩の場所でしかない。
賭金が絡んでくるから、バトルに参加して勝てばそりゃ法外な金が一度で手が入る。が、半端な気持ちで挑めばボコられてぼろ雑巾のように捨てられるのがオチだろう。俺は正直見るのも参加するのもできれば避けたい“スポーツ”だ。
で。
ここは。
いつからその闘技場に?
暑苦しい怒声に、ほとばしるような打撃音。おおよそリングとは言いにくいリング(地面は固い土くれだし、柵は木で囲っただけ)を俯瞰する形で取り囲んだ観客席。酒と汗のにおいでむせ返った闘技場は、さながら闘牛の見せ場のようだ(ケンタロスやバッフロンには失礼だが)。
ジャズバーを経営する知り合いに会いに来たのにどうしてここの地下はこんな風になっているんだ。聞いていないぞ。
「おい! “アカ”に会いに来た! どこにいる!」
俺はとりあえず近くで「そこだ、やれ、殴れ」と怒声と唾をまき散らすカメテテに声をかけた。というか叫んだ。叫ばないと相手に届かないほど場はうるさい。
カメテテは酒で沸騰しているらしい二つの頭を降りながらどうにか俺を見て叫ぶ。
「ああん? スカーレットの奴ならバトルにお熱だ! ああなったあいつは誰も手をつけられねぇよ! あいつとまともな会話したきゃバトルに参加して黙らせるこったな!」
「なんだと……」
何をやっているんだあいつは。
と、ただでさえ沸き上がっている闘技場内がさらに熱狂に包まれたので、俺もリングを見下ろしてみる。どうやら目がすわっているカメテテの言うことも本当のことのようだった。俺の探していた目的のポケモンは、確かにリングの塀によじ登って、たった今倒したらしい挑戦者を見下ろしながら歓喜の雄叫びをあげていた。
「このスカーレット様に敵なんざいやしねええええええええ!」
「アカぁあああ!」
「スカー! 最強だぜ!」
「スカーレット最高ひゅぅうう!」
周りの熱狂ぶりと言ったら、俺のため息なんざ周囲の歓声にかき消される始末だ。こうなったらそんなものはいくら吐いても無駄なのでさっさとアカのいるリングまで降りていくことにした。
そいつは黒く深い毛に、赤黒く光る爪、鬣を束ねたようなその姿はゾロアークという種族のポケモンだ。ただ、ふつうのゾロアークとアカを一目で見分けることができるのは、彼の右目がつぶれて使いものにならないという点か。
「アカ! ……スカーレット!」
俺は観客席からリングの塀に乗り出して、ボクシングの選手よろしく、誰かから投げ渡された瓶の水を乱暴にキャッチして口をすすいでいるゾロアークに声をかけた。というか叫んだ。
いや、よく見たらあの瓶――。
「ああん?」
「――ウイスキーかよ!」
「なんだてめぇは今は神聖なるバトルの最中だ俺はその王者だ邪魔すんな俺の勇姿を黙って見てな」
勘弁してくれ目がすわってるぞ。
「俺だ、ナイルだ。お前いつから店の地下にこんな……聞けよ、呑むな、酔ってるんだろ」
スカーレットが銭湯上がりに牛乳を飲むような体勢でウイスキーをぐいぐいといくものだから俺は奴からボトルを取り上げる。
「返しやがれ!」
「なにやっているんだいったい……」
「力ずくで取り返せってかぁ!? 上等だリングに降りてきなぁ!」
「違う! やめろ、よせって……」
『おおっとぉ! ここで絶対王者アカことスカーレットに新たな挑戦者だー! 細腕だが大丈夫だろうかー!?』
スカーレットに半ば強引にリングに引きずり下ろされたのもつかの間、これまた酔った実況のいらぬお膳立てのおかげであたりは再び大盛り上がり。引くに引けない状況となってしまった。あたりはたちまち、やれ「俺はアカに金をかける」だの「挑戦者頼む全財産つぎ込んだ」などとうるさくぬかし始める。
「おい、スカー! 俺はこんなことしに来たわけじゃ――」
「絶対王者の俺の名を気安く呼ぶんじゃねぇよ!」
「俺はな――」
「てめぇなんかしらん! 拳で語れ拳でぇ!」
「話をき――」
「っせぇなとっととかかってきやがれぇ!」
「……」
ろれつが回っていない上に、一時的な記憶喪失で俺のことがわからないときた。自分が酒に弱いことを知らないでウイスキーなんかに呑まれるからこうなるんだ……。
『試合、開始ー!』
うぉおおおお、と沸き上がる歓声とゴング。
「いくぜぇ」
スカーレットが千鳥足ながら十分すぎる素早さで俺に弾丸のごとく駆けてくる。なんだろうか、うちから沸き上がるよくわからない感情に、思わずウイスキーの瓶を持つ手に力がこもる。
「この――」
「ひゃあああああっはぁあああああァッ!」
「――酔っぱらい、がッッ!!」
この光景は是非ともスローで見て欲しい、と俺は後になって誰かに訴えてやりたくなった。
一直線に迫るゾロアークの脳天に、瓶を振りかざしタイミング良くおろして割っただけだ。残っていた瓶の中身と、割れたガラスの破片と、目に見えない衝撃が盛大にスカーレットに降りかかった訳なのだが。
たぶん一瞬のことで、誰も見えなかったと思う。
*
「会いたかったぞ弟よ!」
「やめろウイスキー臭い」
地下の闘技場の真上には、本来今俺が訪ねるはずだったジャズバーがある。俺は先程ビンを振りかざして目(もとい酔い)を覚まさせてやったゾロアークと一緒に、バーのカウンターに座る。俺たちのほかにはバーテンダーらしいローブシン以外誰もいなかった。なにがどうしたからって、こいつはいつの間に自分の店の地下にこんなものを作っていたのか。
「我が弟から俺を訪ねてくるなんざ珍しいこともあったもんだな。なぁ、ナイル」
「俺はいつからあんたの弟になった、ロウ」
「しけたこと言いやがる。俺はいつだってあんたの心の兄貴じゃねぇか!」
これはもしかしたらもう一度ビンでこいつの脳天を叩いとかないといけないかもしれない。
ゾロアーク、もとい、ロウ=スカーレット。
裏社会ではこいつはかなり強い権力を持っている。その権力とやらが俺にはなんなのかよくわからないが、とにかくこいつは顔が広い。その上に付加機能的なものが色々とあって、知り合いの誰からも一目置かれ、また、恐れられている。苗字のせいか、アカという愛称で呼ばれたり、つぶれた右目と名字の頭をとってスカーと呼ばれることもある。だが、まぁファーストネームを知っているのは俺含め一部のポケモンだけだ。
不思議荘の近く一帯が、無法地帯の世の中でも比較的安全な町となっているのは、武器商人・ハヨウ、仲介所と並んで、ロウの存在があるからなのは間違いないだろう。
だが正直、こんなにべろんべろんに酔ったこいつを見たあとだと、とても皆から恐れられる存在には見えない。
ひょんなことからこいつとは昔から懇意にしてるが、いまだになぜ俺なんかが裏組織も恐れるロウ=スカーレットから弟と呼ばれるほど仲良くなってしまったのかよくわからない。
「で、なんなんだ、あの地下のどんちゃん騒ぎは」
「ああ、俺闘技場始めたのよ。知らないのも無理はねぇなぁ。お前ここ最近とんとここに来なかったからな。兄貴は寂しかったぞ」
「そんなことを聞いてるんじゃない、こんな娯楽に興じる必要があるのかと聞いてるんだ。これじゃバー“ノイジー”の地下が、無法者の吹き溜まりになるぞ」
「鋭いな、それが目的な訳なのさ」
「あ?」
「あそこはこれから、無法者の吹き溜まりにになると同時に、裏情報の宝庫になるって寸法さ」
ロウは赤い爪を俺に差しながらそう言って、バーテンになんだか強そうな名前の酒の名を叫んだ。
「ここ一帯に闘技場はここしかねぇし。無法者たちも憂さ晴らしする場所ができたんだから万事オッケーってことさ、わかるかナイル」
「まぁ、理屈としては理解した、一応」
馬鹿そうに振る舞っていてなかなかこう頭がさえるのがロウの恐ろしいところの一つだ。
バーテンがボトルに入った酒と二つのグラスをこちらにスライドしてきた。ロウは当たり前のようにそれをどちらのグラスにもなみなみ注いで、一つを俺に寄越す。
「呑め! 奢ってやる」
「俺が酒嫌いなのを知っているよな」
「はァ? 俺より酔わねぇくせになに抜かしがる」
「あんたの酔いが早すぎるんだよ」
「どーせ酒には慣れっこなんだろ?」
叫んだ勢いでカチン、とロウがグラスの先同士をぶつけた。なんだか、いつの間にかペースを彼に持っていかれているような気がする。
「いやぁ、久々の再会だ。あるときからぱったり来なくなっちまいやがったからな。で、どうなんだ怪盗業の方は」
「それは、一番答えたくない質問かもな」
「嫌なことでもあったのか」
「怪盗自体が嫌なんだ」
「嫌なことはなぁ、酔った勢いで忘れちまいな」
「俺はそう簡単に酔わない」
「損な体質だねェ」
ロウは他人事のように(実際他人事だ)そうぼやいてグラスの中身を流し込む。俺も倣ってグラスを傾けるが、体が火照るとか、目が回るとか、酔いそうな体のサインは何一つ訪れそうになかった。
だから、俺は酒が嫌いなんだ。
「で、本題だ」
「ああ。アクアフェリー、知ってるだろ?」
「モチのロンのすけよォ」
「今度の仕事の潜入先だ。見取り図をくれ」
「ああン? それだけか?」
「それだけって……」
「俺に会いに来たってことは、それなりに何かあったんだろ。顔に書いてあんぞ」
「なにかというほどではないが……」
「当ててやる」
「は?」
全く予想外の言葉に、思わず俺はロウを見た。だが、酔っているかと思われた彼は意外にもまともな表情をしていた。不敵な笑みをまともと言ってもいいのなら、の話だが。
「お前の悩みはずばり、女絡みだ」