Steal 6 不良少女
俺は確かにさっき、屋上に現れたこいつが妙な奴だったらすぐにおさらばしようと考えてはいた。
考えてはいたのだが。
「ぐッ……!」
――そいつが今にも、大学病院の屋上から落ちそうになっていれば話は全く別だ。
俺が今必死になって掴んでいるのは、チルタリスという種族のポケモンの右翼だ。俺が助けていなければ大怪我を免れなかったであろう当の本人は、今更ながら屋上の高さに気づいて声も出ない様子である。
チルタリスは飛行タイプの鳥ポケモン。本来なら俺が助けなくともその力強い羽を使えば空を飛べるはずなのだが。
「動く、なよッ」
とりあえず話は後だ。俺は右の羽を掴んだ腕を思いっきり引っ張って、チルタリスをゆっくりと柵の中へ引き入れてやる。そして無事に屋上の地面に二人一緒に両足をつけたときには、どちらも肩で息をしていた。“ちょっとした”スリリングな出来事に、久々に心臓がバクバクと主張している。
「あ、ありがとうございま――」
「馬鹿野郎ッ! 何考えてやがるッ」
チルタリスは、いましがた味わった恐怖からやっと脱したのかそう礼を述べてきた――チルタリスとは思えない、酷く潰れて小さく掠れた声だ――のだが、俺はその言葉すら遮らずにはいられなかった。
「危ないだろうがッ、死ぬ気かッ!?」
俺は自ら命を投げ出す奴は世界で一番嫌いだし、そんなやつに構うほどのお人好しではない。だが、目の前で死にそうな奴をただ見ているのは俺の趣味ではない。
もう二度と、目の前では――。
「――すいません……」
ハッ、と。チルタリスの二回目の言葉で俺は我に返った。チルタリスは俺が思わず放っていた怒声に完全に萎縮した様子だった。
「そんな、つもりでは」
掠れて、声にもなっていない声だ。だが不思議と、聞いていると妙に引き付けられるような……理由のない魅力も兼ね備えていた。
「……」
少し、俺も興奮しすぎていた。
屋上に現れたとき俺を見て驚いていたのをみると、彼女はきっと誰もここにポケモンがいるとは思っていなかったに違いない。だが、予想に反して俺がいたから思わず逃げようとしたのだろう。
俺はふとチルタリスの右足に目を落とす。その足首につけられているオレンジの輪っかは、たしか飛行タイプのポケモンの翼になんらかの障害があることの印のはずだ。右足にそれをつけているということは、恐らくこのチルタリスの右の翼は使い物にならないのだろう。
きっと彼女は俺がいることに驚いて、飛行タイプの本能的に空へ逃げようと柵を乗り越えてしまったのだろう。だが彼女は飛べないことをその時だけは忘れていた――。
「……すまない」
「なぜ、あなたが謝るのですか?」
「今のは、事故だったんだろう。なのに急に怒鳴った」
「あなたは恩人です。謝らないでください。……ありがとうございます」
チルタリスは深々と頭を下げた。ドアノブを必死に回すような先程の慌てぶりとは裏腹に大人びた対応だ。その姿に少しだけ心が落ち着いた俺は、ふと別のことが頭をよぎる。
「ところで、なぜあんたは屋上に?」
「……」
……硬直。
先程まで妙に落ち着き払って俺に礼をしていたチルタリスが、ものの見事に固まった。どうやら、ここへ来た本来の目的を思い出したようである。そして彼女はつかつかと歩いて屋上のドアを閉め、器用に左の羽で鍵をかけた。俺はチルタリスのその行動逐一を冷静に観察する。何がしたいんだ、こいつは。
「命の恩人であるあなたを信頼して一つ……お願いがあります」
チルタリスはこれまた神妙な声と表情で、事を見守っていた俺に向かって上目遣いにそう言った。
「私を、ここから出してください」
「……病院から出たいなら、いましがたあんたが鍵をかけたドアをくぐって正面玄関から出るのが一番手っ取り早いんだが?」
なんだか雲行きが怪しい。そう思って早口に答えてやったが相手は俺がすべてを言い終わる前に首を横に振っていた。
「それでは、駄目なのです」
「……はい?」
チルタリスは深呼吸を一つ。
「私は――一日だけ不良になるんです」
「…………は」
――Steal 6 不良少女――
何も考えたくない。
とりあえず、今は何も考えたくない――というより、考えてはいけない――と俺は、向かいの席に座り運ばれてきた料理を神妙な顔をして眺めるチルタリスを見て思った。
「あの……私だけいただいてしまってよろしいのでしょうか……」
「俺はいらん」
どうしてこんなことになったのやら。いやいやいや、とりあえず今は何も考えない方がいい。
……時間は大分経った。少し、状況を整理しよう。
なぜ俺がなぜ、今会ったばかりの患者と共に病院から離れ不思議荘近くの料理店にいるかと問われれば、それは成り行きでとしか答えられない。
いきなりおしとやかそうなチルタリスが“一日不良”宣言をし、病院から抜け出したいというので俺はそれに手を貸した。断ったら面倒くさそうだし病院から逃がしたらこいつとはおさらばしようと思っていたからな……。
ところがどっこいこのチルタリス、町へ出た瞬間タクシーのギャロップに踏み潰されそうになるわ、ナンパのワルビルに絡まれるわ、挙げ句に腹の虫を鳴らすわで目も当てられない。
(顔立ちがいいだけあって)また妙な輩に絡まれて文字通り目も当てられないことになれば、寝覚めが悪いのは病院から逃がしてやったこの俺だ。
しかも腹が減ったのに無一文と聞けば放っておくわけにもいくまい。ひもじい時のつらさは経験上俺もよくわかっているし……なにより、一度手を出してしまった事を始末せずに放っておくのは俺の趣味ではない。
だが。趣味ではないが。その……。ここまでやっておいて今更ながらだが面倒くさいことになった。後悔先に立たずってやつか。
「あの……何から何までお世話になってしまって申し訳ありません」
食うもんはしっかり食って皿の中を空にして、神妙な顔で深々と頭を下げるチルタリス。
そんなこいつが、一日不良宣言……。
「あの、お代などは後日きっちりとお渡しします……」
そして、やれお礼もしっかりするだの、やれ今回助けていただいたご恩には到底及びませんがだの、申し訳なさそうに俺へ感謝の気持ちと謝罪を、塗りたくるかのように口から吐くチルタリス。
そんなこいつが、一日不良宣言……。
「本当に、私の勝手であなたを巻き込んでしまって……」
そして、ひどい喉の風邪のときに出るようなかすれた声で、上目遣いに俺の様子をうかがうチルタリス。
「あ、あの……もしかして怒ってらっしゃいますか……?」
「この表情がデフォルトだ」
そんなこいつ以下略。
「あ、あの……」
「もういい、わかった! 俺は怒ってもいないし、迷惑は……とりあえずキャパシティ内に収まっている! だがとりあえず、全く持って状況がわからん! なんなんだ、アンタの“一日不良になる”という言葉は」
「……レインです」
チルタリス――レインは、萎縮したのか小さな声で名乗った。
「そ、その……一日不良というのは、その……」
「その?」
このチルタリスは今にも泣き出しそうだ。目を固く閉じて恥ずかしさを紛らわせるかのように、俺の促しに小さな声で口を開く。
「一日だけ、病院の外に出てみたくて……」
「……」
「……」
「……それだけ、か?」
「……え、あ、そ、そうなんです……」
「それが、“一日不良”宣言?」
「え、えっとあの……これには深い訳が――」
病院の外に出たい、って……そんなもん外出許可でも得れば少しぐらいは許されるだろう。
いや、待てよ。
もごもごと口ごもってしまったレインをよそに、俺は彼女の足首に付けられたオレンジの輪っかに目をやる。
重度の翼への障がい。彼女は飛行タイプながら空を飛ぶ事が出来ない。だとすると、病院でその翼の治療のために入院生活をしているのだろうか。
飛行タイプのポケモンが飛ぶ事が出来ない……という事実は、俺たち陸上で生活するポケモンの認識以上に、彼らにとって死活問題らしい。“飛べない”という事実が貼付けられてしまったその瞬間から、ポケモンという扱いすらしてくれない者も中にはいるらしい。……下手をすれば、その周囲にいる家族や知り合いも、どうしようもない侮蔑の対象となりうるそうだ。
となると、身内はこういった障害を抱えるポケモンは病院など人目のつかないところに彼女のようなポケモンを押し込みたがる傾向にあるようだ。そのストレスに加え、本来飛べるはずの体を持ってして飛べないストレスを抱えているとなると……。
なるほど。本来なら外出禁止であるのに、無断で病院を抜け出す罪悪感から、出てきた単語が“不良”か。
目の前のチルタリスの全身から放たれる心の清らかさに、俺は目がしぱしぱとしてしまって眉間をつまんだ。
「あのなぁ」
「は、はいっ」
「一日無断で病院を抜け出したくらいで“不良”なんかにゃならねぇよ。グレた奴はもっと激しいぞ」
「え、な、なぜ私が無断で抜け出そうとした事を……!? え、えっと、ぐれた奴ですか。た、例えばどんな……」
「学校さぼって夜中まで家に帰らなかったり」
「えっ」
「コンビニで物を盗んだり、弱い奴から金を巻き上げたり」
「そ、そんな」
「店のガラスを割ったり」
「わ、わたしそんな恐ろしい事はやったことがありません! というかできませんッ! そんな人様に迷惑がかかること……!」
「じゃああんたは不良でもなんでもないだろう」
「そ、そうですねッ、すいません」
なぜそこで謝るんだ……。
「わかった。で? どうするんだ。これから」
「え……?」
「息抜きしたいんじゃないのか?」
「そ、それはその通りですが……どうするかとかはあまり決めていなくて……外の事がわからないので……」
「……」
オーケー、オーケー。わかった。薄々予想はしていたが、目の前にいるレインと言う名のチルタリスがその翼のようにまごう事なき純白な少女だというのは理解した。となると、やはり面倒なのは今後の事だ。
こいつは外の事を知らなすぎる。その純白さ故に、治安の不安定な――それこそ墨のように真っ黒な――外の世界は何より危険だ。
健全な、そう。健全な息抜きというものをこのチルタリスがしっかりできるか、俺は甚だ――甚だ、不安だ。ならば、俺が病院から逃がしただけに、俺が責任をとって無事に彼女を病院へ届けねばなるまい。
とりあえず俺は立ち上がり、懐からなけなしの小銭をテーブルに放り投げた。
「行くぞ」
怪盗の仕事もあるがとりあえず目の前の厄介ごとだ。幸い、アクアフェリーでの船上公演までにはいくらか時間がある。レインはそそくさと俺が出て行くのを見てあわてて立ち上がる。
「ど、どこへ行くのですか……?」
「息抜きだ」
*
とりあえず、一番始めにチルタリスのレインに教えなければならないのは、“知らないおじさんにはついていくな”という教えだ。なぜか。今彼女は、俺の後ろを何の疑いも無くついてきているが、俺もれっきとした“知らないお兄さん”であるからだ。(同い年ぐらいに見えるが、多分年下だよな?)今回は俺だったから良かったものの、たまたま病院で鉢合わせた相手についていく事が、外の世界での標準対応だと思われては叶わんからな。
そんなこんなで、息抜きとして最適な場所を探しに俺たちは街をうろつく事になった。
ゲーセンで立ち止まり、ユーフォーキャッチャーを適当にやらせた。そして、少し目を離した隙に、“何回チャレンジしてもうまく行かないから商品が取れるまで金を貢ぐ”という罠にはまったレインをあわてて止める。
適当に映画を選ばせ、ポップコーンを片手に座席についた。そして、アクションに耐性が無かったためか、大きな効果音が鳴るたびにびっくり仰天して俺の腕にしがみついてくるレインをそのつどひっぺがす。
映画を見終わった後は適当に公園のベンチに腰を下ろし、屋台のたい焼きを食った。そして、たい焼きの中身は大抵熱いということを知らなかったせいで舌を盛大にやけどして思わずたい焼きを地面に落としやがったレインに、もう一つたい焼きを買ってやる。そして俺は、ある一つの事実に気がついた。
……レインに付き合ってやっている俺の方が、なぜか彼女より疲れている。
それに気がついたのは、太陽も大分西に傾いて、今日一日でずいぶんとやせ細った財布の中身を改めて確認している時であった。すまない、マル。今月の小遣いはやれないかもしれない……。