Steal 5 鼻歌
死にたくない。
「僕は……僕は死にたく、ない」
震える声で、誰に向かってでもなくそう訴えて。今はもう記憶し尽くした路地を全力で駆ける。逃げたかった。ここから逃げ出して、どこか何も知らない場所へ飛んでいきたかった。
――仰ぐ空に 雲は無く
ついさっき起きた事を、早く忘れたかった。
思い出したくなかった。自分の手から、生がこぼれ落ちていくあの感覚を。
信じたくなかった。大切なものが、二度と戻って来なくなったという事実を。
――青一面に 飛ぶ鳥たちよ
空を仰いだ。この世界はこんなに汚れちまってるってのに、空は雲のない快晴で、遠くに鳥ポケモンが羽ばたいている。
――折れた翼に 風は無く
「僕もッ……僕も連れてってよッ……」
目からぼろぼろと水滴がこぼれ落ちた。だがこの世界では、どれだけの理不尽を背負っても慈悲をくれる奴なんざ誰一人いない。
なのに、なのに。そいつは泣くことをやめない。歯を食い縛り、唇を噛みしめ、それでも願うことをやめない。
「ここからッ……連れ出してよッ……!」
――共に飛ぶこと 叶わぬ鳥よ
「……が死んだ、こんな世界からッ――」
「おーーーーきろーーーーーーッ!!」
「……っ」
目覚まし以上に厄介な目覚ましが、いつものように俺へ鼓膜が破れんばかりの大音量を撒き散らしてきた。公害、騒音、近所迷惑。
だがいつもと違うのは、マルの目覚ましに加えてどこからか音楽が流れてきている点か。
「はぁ……」
どうやら、下の階にいるティオさんが、蓄音機で例の曲を大音量で流しているらしい。やることなすこと、全部親子一緒でなくともいいのに。朝っぱらからやかましい
――どおりで、胸くそ悪い夢を見るわけだ。
「お兄ちゃん……大丈夫? 汗びっしょりだよ」
俺を起こしに来たマルは、いつもなら満足げに尻尾を振って笑うはずなのに、今日は上目遣いにそう尋ねてきた。
「悪い夢でも見たの……?」
そんな心配そうな顔をされてはこちらも調子が狂うだろうが……。俺は出来るだけ穏やかな表情を心がけながら、マルの頭をくしゃくしゃと撫でてやった。
「……大丈夫だ」
そうだ。今は昔と違う。
今の俺には、手に持ちきれないほど大切なものがある。そして今の俺は、何かを失っていくのをただ見るだけの非力なあの頃とは違うのだから――。
「ティオさん、朝っぱらからレコードを大音量で流すのはやめてくれないか」
「あら、いいじゃない。清々しく目覚められるでしょ?」
「清々しいどころか最悪な目覚めだったぞ」
いつもと同じような朝だ。ティオさんとマルと、そして俺がテーブルを囲んでもそもそと口を動かす。
「ねぇねぇプーたろー」
と、一足先に朝ごはんを終えたマルが、俺の足元を引っ張ってきた。なのでその方を見下ろしてみると、「これなんて読むの?」とマルはどでかく書かれた新聞の文字を指差してくる。
「なに……? 『喉の不調か? “歌姫”の姿を病院で目撃!』?」
スクープらしきその記事には、そんなゴシック体の文字と一緒に写真が印刷されている。ボヤけているが、病院の入り口をくぐる瞬間のメロエッタと、そのガードマンとおぼしき姿が激写されていた。
「へー。のどのふちょーって読むんだ」
新聞記者もカメラマンも、こんなパパラッチみたいなことしてないでもう少し生産的な記事を書いたらどうなんだ……。しかも写っているこの病院――。
「――あんさんが入院してる病院じゃないか」
「えぇ!? ねぇねぇ! じゃあ僕もアフトお兄ちゃんのお見舞い行ったら“歌姫”に会えるのっ!?」
マル、また怪盗名鑑カードで激レアを引き当てたときと同じように目がキラキラしているな。
「さぁな」
「でも、喉の不調って大丈夫かしら? ポリープとかじゃないといいんだけれど」
「ママ、“ポリープ”って?」
ああ……またマルがいらぬボキャブラリーを増やしていく……。
いや、そんなことより。
やはり昨日の歌声は、アリアのものである可能性が濃厚になってきた。だとすると喉の不調というのは、もしかして何回も同じ歌を繰り返し歌っていたのが原因か? もしそうだとして、なぜそんなことをする必要があった? それに……。
なぜあんなに、悲しそうに歌っていた――?
――Steal 5 鼻歌――
“歌姫”に関しての個人的な疑問は多々あるが、だからといって依頼人を蝕む病気は俺たちを待ってはくれない。
早速だがメロエッタを誘拐するための下調べを開始することにした。彼女が出演を予定している番組のテレビ局、行きつけのレッスン室(新聞に載っていた病院は野次馬でごった返していたから後回しだ)、それらの間の移動中も含め警備状況や彼女自身の行動パターンについても徹底的に洗い出した。
……が。それらを調べて俺がわかった事は、たった一つの事実だけ。
「なんだこの異常な警戒体制は……」
――今の状況じゃ、俺は全く手を出せない……。
俺はアリアから数十メートル離れたビルの屋上に立ちながら、もはや癖となりつつある舌打ちをひとつした。
あのメロエッタ、“歌姫”と言う名を冠しつつ実はどこかの国の本物のお姫様なのではと勘ぐりたくなるほどの警備だ。屈強なガードマンが彼女の周りを、それこそ碁盤の上で白い碁石を取り囲む黒い碁石のように終始警護している。しかもこいつら伊達なガードマンではない。おそらく相当な手練どもだ。いったいどこからこんなに屈強な奴らを連れてきたんだ。レコードが爆発的に売れているのだから雇う金に関してはさほど苦労しなかったに違いないが……。
いや、だが問題はガードマンの強さ云々ではなく、警備体制の異常さだ。今までに幾多の物を盗み、時には“ポケモンを盗む”という名義で誘拐まがいの事もした事はあるが、こんな警備の厳しい事はよほどの事が無い限りあり得なかった。
「……いや、待てよ」
あのメロエッタには、その“よほどの事”があったからこんなに警備が厳しいのか? ただ、考えてみる限りその“よほどの事”は数える程度にしか候補が無い。
だとすると。もしかして……。
「――ええ。“黒影”様のご推察通り、あのターゲットは他の怪盗からもいくらか狙われた事があるようでございます」
場所は変わり、アフトが入院している病院の屋上。俺の嫌々ながらの呼びかけに応じ現れた仲介は、さも当然のごとく淡々とそう述べた。
もうだめだ。俺は、ため息と一緒にこれからやらねばならぬ使命も全て吐き出してしまいたくなった。
やはり、あの異常な警備をするに至った“よほどの事”は、他の怪盗も歌姫を狙ったせいだったのか。面倒な事をしてくれる。盗みに失敗するようだったら最初から狙うような事をしなければいいのに。じゃないと今回みたいに俺が盗むときに困る。
「……貴様はそれを知っていながらあえて俺にこの依頼を持ってきたとでもいうのか?」
「それが依頼人様のご希望だったものですので」
くそったれ。
「どうやらこちらの病院へ訪れるときも、彼女の身辺警護は完璧なようでございますね。……それで、あなた様はこの鉄壁をどう掻い潜るおつもりですか?」
ここぞとばかりににやりと口元を上げながら言ったヨノワール。歪んだ性格をしているだけあって、その質問を楽しげに俺へ投げかける事は既に予想済みだ。
「……ふん。貴様に教える筋合いも無い」
まあいい。どれだけ厳重な警備をしこうが、そこには必ず隙がある。完璧な警備体制など存在しない。俺はそこを突くだけだ。
いや、待てよ。そう言えば……。
「仲介、今日の朝刊をよこせ」
「は、朝刊、でございますか?」
「あるんならさっさとしろ」
仲介はまさか俺の口からそんな言葉が出るとは予想もしていなかったらしい。彼にしては珍しく自然に驚くような表情になり、だがそれもすぐに小賢しい笑みに塗り替えて、アタッシュケースのロックを外す。そしてそのなかから今日の朝刊を取り出して俺によこした。なんとも、まあ律儀に今日の朝刊すらも持ち歩いているとは。こいつのアタッシュケースの中身はいったいどうなっていることやら。
朝刊を広げる。今日の朝、マルが俺に読めない字を読んでもらおうとこの朝刊をよこしたとき。一瞬だが気になる記事をみつけたのだ。あのときは差して気にも留めなかったのだが……。
「『豪華客船“アクアフェリー”号クルーズ〜海上で“歌姫”を聞くツアー〜』。あった、これだ」
アクアフェリーとか言う似非っぽい名前の船で、あのメロエッタが歌を披露する日があるらしい。海の上では地上よりかは幾分か警備が薄くなるだろうし、なにしろ歌う瞬間はステージで一人にならざるを得ない。そして、近々こいつが生で公演をする機会はこれしか予定が無い。ならば、このときを狙うしか無いだろう!
「まさか、逃げ道の無い海の上で犯行をなさるおつもりですか?」
「俺を誰だと思っていやがる」
「あなた様がここらでは右に出る者などいないまごうことなき一流怪盗だということは、私仲介めが一番理解しております。ですが、今は“怪盗狩り”の存在もあります故、目立った事をするとそれなりのリスクが生じますと申しますか……」
言葉とは裏腹に、本心から心配していない事はそのにやにやとした表情を見れば一目瞭然なのだが……。クソむかつくヨノワールの言い分は尤もな部分もあった。だがリスクなど承知の上だ。ここで無茶をしてでも成功させなければ、依頼は失敗。俺の人生は破滅する。
もしかしたら、不思議荘のみんなの人生も。
俺が怪盗として犯罪に手を染めているのは、逆らえば仲介所が不思議荘へ危害を加える可能性があるからだ。もしその可能性がゼロになったとき。俺はそのときに初めて怪盗をやめる決心をつけるだろう。
だから、その時が来るまで。俺は完璧で一流な怪盗であり続けなければいけない。
俺は、誰だ? そう――。
「――俺は怪盗“黒影”だ。狙った獲物は必ず盗む。貴様ら仲介所もそれを一番に望んでいるだろう。それでもまだ貴様は俺を諌めるか?」
仲介は、今までに見た事の無いようなかしこまった姿勢のまま体を折り、頭を垂れて俺に静かにこう答えた。
「……いえ、滅相も無い」
そして姿勢を戻したときには、いつものようにその顔に小賢しい笑みを浮かべていた。
「依頼の成功をお祈りしておりますよ――“黒影”様」
俺は、そんな仲介へずっと目を合わせずに空を仰いでいた。だが、その言葉の少し後に仲介がいた方を向いてみると、奴の姿は既に音もなく消えていた。
そして屋上に一人だけとなった俺の耳に、昨日と同じように寂しげな歌声が微かに風に乗って聞こえてきていた。
*
いま病院の正面出口の外では、アリアの姿を一目見ようと野次馬どもでごった返しているらしい。だが、屋上にいる俺の元へまでは、そんな外の喧噪は届いてきていなかった。ここから動きたくなかった。この町の喧噪の中へ、戻りたくなかった。戻ってしまえば、またいつものように怪盗と不思議荘とを行き来する生活に戻ってしまうんだ。一人のときくらい。何も考えたくはない。
空を仰ぐ。今日もまた快晴だ。遥か遠くに鳥が飛んでいる。あれは……ウォーグルだろうか。
「“折れた翼に 風はなく、共に飛ぶこと 叶わぬ鳥よ”……か」
柄にも無く、“歌姫”の歌う曲の歌詞を引用してみる。今でも脳裏に旋律が思い浮かぶ。マルには音痴だと言われたが、音感はそこまで悪くないと思うのだが。
「――」
ここには音痴を責める奴など誰もいない。壁に背を預け、地面に座り、組んだ手を頭の後ろに持っていき、足を組む。そして気づけばあの旋律を、俺はまた鼻で歌っていた。とぎれとぎれに、ゆっくりと。小さく、控えめに。
歌で心が休まるなどありはしないだろう、だが、いつもこの屋上で聞こえてくるあの歌声を聴いているとどうしても疑問に思う。
どうしてそこまで悲しげなのか。
どうしてあんなにも繰り返し歌うのか。
だから、俺も歌えば……歌えば、その疑問の答えも、少しはわかってくるのだろうか。少しは俺に、教えてくれるのだろうか――。
「――誰だ」
不意に気配を察知した。鋭く低く、俺は声を放った。この空間に、俺以外の誰かがいる。
と、そのときだ。屋上と下の階への階段をつなぐ扉のドアノブが、がちゃがちゃと乱暴にまわされる。ここは立ち入り禁止なので当たり前ながらドアには鍵がかけられている。(俺がここの扉の鍵を無理矢理開けてここへ仲介と入ったときも、相談中に誰かに聞かれないようにもう一度鍵をかけた。)だが扉の向こうにいる誰かは、そんなことはおかまいなしにドアノブをまわし続ける。どんなことをしてもここを開けてやるという執念のようなものすら垣間見えた。
「……」
少し、興味がわいた。わざわざ何も無い屋上へ行きたがる扉の向こうのポケモンが、どんなやつなのかほんの少し気になったのだ。
そしてその時。もしやこの扉一枚を隔てた先にいるのは、あの“歌姫”なのではないかという淡い期待が無かったと言えば嘘になる。
俺は音も無く立ち上がって、扉の横の壁に背中を張り付けて立った。そして未だにしぶとくがちゃがちゃと回っているドアノブへ手を伸ばし、閉まっていた鍵を――開けてやる。
「ッ!? きゃッ――」
ガチャッ。ズシャーッ。
乱暴にドアを開けようとしていただけあって、俺が鍵を開けてやった瞬間ドアは盛大に開け放たれた。そしてそこから、ドアノブを必死にまわしていた張本人がものの見事に勢い余って地面と挨拶をするはめになる。ドアの横の壁に張り付いていた俺は、そんな乱暴に開かれたドアの被害を完璧に免れた。やはりここにいて正解だったな。
「おい、大丈夫か」
俺は盛大に額へたんこぶを作ったであろうそいつへ声だけかけてやった。妙な奴だったらすぐに扉から出てこの場からおさらばしようと思っていたからだ。
だがそいつ――水色の体に、純白の綿の羽、首は長く、右の足にはオレンジの輪がついている――は、俺の姿を認めた瞬間表情が凍り付く。そしてくるりと背を向けて――。
「! 待てッ」
――屋上の柵を、乗り越えた。