エピローグ
――ひとつだけ忘れんなよ、ナイル。
ロウは、あの日。あのバーで言った。
――たとえ、あいつがテメェのことを奇麗さっぱり忘れていたとしても、あいつとのことは無かった事にならねぇぜ。
レインの記憶は、仲介所お抱えのユクシーが消したはずだ。完璧に。
――わかってねぇな。ヒトの記憶ってェのは、簡単には消せねぇんだよ。
――脳内で消えても、心が覚えてるもんだぜ。
*
「――しかし、不思議なものです」
休日の午後の昼下がり。こんな時間だと言うのに子供も誰もいない公園のベンチへ、いつものように俺は腰掛けていた。一通り仕事としての話も終えて一段落したところで、俺の前に丁寧に立っているヨノワールがふとそんな事をほざきやがる。俺は“怪盗狩り”から受けた傷の後遺症でまだ体が本調子じゃなかったから、普段ならばっさり切り捨てられるはずの仲介の言葉に一拍反応が遅れた。
「げほげほっ……あ?」
「相変わらず見事な手腕でございます、“黒影”様。この街にあるレコード店から歌姫のレコードを根こそぎさらっていきました」
仲介の言葉に、俺は一週間前ほどの犯行のことをぼんやりと思い出した。もう遠い昔の事のようだ。歌姫も――レインの事も。いまでは、あの日々ももしかしたら幻だったのではと思う時がある。
ちなみにマスコミは、ここ一週間で“歌姫”の歌を担当していたのがメロエッタのアリアではなくチルタリスのレインだということを探り当てていた。その影響で、アリアはぱったりとメディアに露出しなくなった。彼女がどこに行ったのか、そしてどこに身を潜めているのかはしつこいパパラッチどもも掴めていない。もしかすると、もうこの街どころか国内にもいない可能性がある。
弁明するでもなく、謝罪するでもない。やはりあのメロエッタは、レインを最初から利用するつもりだったのかもしれない。
「いったい、一晩で、しかも誰にも気づかれずにあんなに大量のレコードをどうやって盗み出したのです?」
「……」
仲介の質問は尤もだ。それ以前にまず『レコード店からレコードを盗み出す』こと自体、「やることが地味で怪盗“黒影”らしくない」という声がところどころで上がっている。
俺の脳裏にロウ=スカーレットのにやけ顔と、忍者二人の真面目顔が浮かび上がった。
――なにィ? 街のレコード店からレコードを回収したいィ? なんだその面白そうなことはァ! 俺も混ぜやがれ!
――このカテツ、モズ、その作戦に協力させていただけませぬか。
たしかそのような台詞を言った後、ロウは持てる人脈全てを使ってポケモンたちをかき集め、それぞれをレコード店に忍び込ませた。カテツともズも、他の忍者仲間に声をかけたみたいだった。彼らからすれば、街のレコード店のセキュリティも“蕎麦の下のザル”なのだろう。
そう、とどのつまり。今回の犯行は人海戦術をつかったにすぎなかったのだ。
「……企業秘密だ」
だが、そんなことをわざわざ仲介に教える事もあるまい。俺は適当にお茶を濁して奴にはそう言っておいた。仲介は俺の言葉ににやりと目元を細くした。
「ほう。“黒影”様、一つ訂正を。あなたは個人でありますから“企業秘密”と表現なさるのはいささか無理が――」
「――そのぐらい知っている!」
くだらん揚げ足とりやがって!
「まぁ、それはさておき。新たな仕事の依頼が複数舞い込んでいますよ。どれから処理なさいますか?」
仲介がアタッシュケースを置いてロックを外す。だが、俺は奴が依頼内容の書かれた紙切れを取り出す前にベンチから立ち上がっていた。
「しばらく、仕事はしない」
「……なんと!」
そんな気分じゃない。数日前にあんな事があって。柄にも無くロウの前で涙まで流して。まだ心の整理が出来ていない。
それに、まだほんの少しだが熱もあるようだ。ゲッコウガのヤロウ……。面倒くさい置き土産してくれやがって……。
少し、休みたい。
「有給休暇の申請を要求する」
「……“黒影”様、怪盗は自営業なので仲介所では基本有給休暇の申請が不――」
「――わかってるっつうのッ!! 察しろッ!」
「……」
「……」
いつの間にかぜぇぜぇと肩で息をしている。しばらく沈黙した俺たちだが、やがて仲介がぽんっ、と手を打った。
「なるほど、たしかに今のあなた様は大変キレやすくていらっしゃいます。休養が必要と存じますので、私の方から仲介所に“有給休暇”を申請しておきましょう」
“有給休暇”というところで語気を強くした仲介は、開いていたアタッシュケースをパチンと閉じて立ち上がった。
「では、頃合いになりましたらまた伺う事にいたしましょう。本日も仲介所のご利用、誠にありがとうございます――」
いつものようにいけ好かないヨノワールは俺の前で丁寧すぎる礼をした。
「――“黒影”様」
――エピローグ――
今日はマルも学校の友達とやらと遊びにいっているし、どうやらティオさんもそれについて行っているようだ。(彼女曰く、“最近の学校付き合いはママ友ぐるみ”なのだそうだ。)それに、退院したてのあんさんが仕事から帰ってくるのはもう少し先だ。俺は誰もいない不思議荘へ帰るためにとぼとぼと歩き出す。いつもより足取りが重い。それはそうか。あんな肉体的にも精神的にも大仕事の後だったで、少しも疲れないというのもおかしい。
「……げほげほっ」
――どうして、心優しいあなたが……!
……あぁ。退院して早々だがあんさんには今日の晩ご飯当番を代わってもらおう。大きな怪我は職業柄つきものだが、ここまで長引いたのも久しぶりの事だ。
――待って、行かないで……ッ!
「うるさい、静かにしろ……」
後少し。後少しで不思議荘につく。
今日は、寝るぞ。マルが夕飯が出来たと呼んでくるまでにがっつり寝てやるぞ……。
あの角を曲がって……。
――ぐにゃり。
「あ」
気づいたときには既に遅かった。景色が歪んで見えたと思ったら、いつの間にかその景色が逆さまになっている。
「ああ……くそっ」
頭の中で、歌が響いてやがる……。
*
――何かを、忘れている気がする。
病院から退院してからというもの、ふと思い出す時にいつもこんな気持ちになる。恐ろしいマスコミやパパラッチ追いかけ回されていた頃に比べてここ数日間は落ち着いて来たためか、そう感じる事がだんだんと増えていった。
「何を忘れているの? 忘れていたことも、最近まで忘れていたのかしら……?」
今日もまた、少しばかり遠出して買い物をして、その帰りに何気なくふと“何かを忘れている”、ということを思い出した。そのたびに彼女は首をひねる。忘れているという事は、さほど重要な事ではないのだろうか? それとも、重要だった事すら忘れているのだろうか?
久々の自由に、今日は少しばかり浮かれすぎて遠くまで来すぎてしまった。まだ自宅まで少しだけ距離がある。羽ばたけない彼女は、地上を少しずつ跳ねながら進んでいく。
あの角を曲がって……。
ドン!
「ひっ……!?」
彼女はびくりと肩を震わせた。角を曲がった先に歩いていたポケモンが、いきなり地面にひっくり返ったのだ。
そのポケモンは、腕に笹のような葉をつけて、頭からも細長い草を垂らしているトカゲのようなポケモン――ジュプトルだった。いきなりバランスを崩して転んだ彼は「ああ……くそっ」と悪態をついた。だが、少し様子がおかしい。すぐに起き上がると思った彼が、ふらふらと膝はつくものの起き上がれないのだ。民家の壁に片手を当てて、吐息まじりに小さく悪態をつき続ける。
彼女は、いてもたってもいられなくなった。こんな自分では足手まといかもしれない。でも、目の前に立ち上がるのすら困難なポケモンがいるとなると、見過ごすわけにはいかなかった。
「だ、大丈夫ですか!」
ピョンピョンと飛び跳ねてジュプトルへ近づく。彼は、目を開けるのも困難そうにしていた。まじまじと顔をのぞいてみると、明らかに顔が赤い。
「手を……!」
「……結構! 大丈夫だ……」
彼女が差し伸べた手をジュプトルは強引に腕を振って拒否した。だが、その振った腕も検討違いな虚空へ向かっていて、無駄に空気をかき回しただけに終わる。
「大丈夫ではありません……!」
彼の意識がもうろうとしているだろうということはすぐにでもわかった。壁を支えにしていないと立つ事すら辛そうなのだから。
彼女の柔らかい手が、恐ろしいほど自然に見ず知らずのジュプトルの額にそっと添えられる。
――すごい熱……。
「休めるところまでご一緒します。家は近いのですか?」
「いいと言っているだろうが……! 誰だか知らないが、一人にしてくれ……げほっ」
「あ、危ない……!」
言った側からジュプトルが膝から崩れ落ちそうになった。彼女は機能する方の羽を使って彼をどうにか支える。この分だと、自分のことも正しく認識できないのでは、と思った。こんな高熱では歩く事もままならないだろう。そんな状態でここに放っておいたら目も当てられない事になりそうだ。
「やめてくれ、家は近いんだ……」
「近いのならそこまでご一緒すると言っているのです。放ってはおけません」
「もう、俺なんかほっといてくれよ……!」
彼女はジュプトルの言葉を無視し、彼を支えるようにして歩き出した。もうろうとしていて「俺なんか」とか、「かまうな」とか、「一人にしろ」とかをうわごとのように吐く彼から家の方角と名前を聞き出す。
「どうして、俺なんかを助けるんだ……そんな資格……ないんだって……げほっ」
そんな資格はないんだって。
その言葉に、なぜかどきりとして彼女はジュプトルの顔をのぞく。
「なぜ、そんな事を言うのですか……?」
「俺は……、俺は……怖くなって、一方的に、ヒトとの出会いを、無かった事にしちまったんだ……」
彼の声は、震えていた。
「少ししか会っていない……。でも、毎日声を聞いた……。今でも、あいつが俺の中でどんな存在だったのかは、わからないけど……でも、たぶん」
荒い息を吐いて、辛そうに頭を垂れていたジュプトルの目の縁から、一筋だけ光るものが落ちた。
「大切なヒトだったんだ……」
「そう思える方との出会いを、無かったことにしてしまった、と?」
無かったこと、とは一体どういう事なのだろう。熱で正常に思考ができず、脈絡の無いことを言っているだけなのか。だが、不思議と彼女はジュプトルの言葉に耳を傾けていた。
「俺が、弱いばっかりに……だから、俺には、誰かに助けてもらう資格なんて――」
「――そんなことは、ありません」
彼女は、きっぱりと告げた。その言葉に驚いたジュプトルは、もう半分以上瞼の閉じられた瞳をこちらに向ける。
「……私も、少し前まで自分をそういう存在だと思っていました」
鳥ポケモンなのに、飛べない体で生まれて来てしまったがために。他人に迷惑をかけている自分が許せなくて、助けてもらう資格なんて、無いと思っていた。
自分はもう、どこにも飛べやしないと思っていた。
だが、そんな自分を唐突に救い出してくれたヒトがいた。
――潰すな……。
こんな自分でも。
――確かに届いている。
救われる資格なんて無い自分でも。
「こんな私でも、救われたんです――」
――誰に?
「……」
唐突に足が止まった。
「……だれ、に……?」
一瞬だけ、脳内が点滅したような感覚に陥った。頭の中で誰かの声が聞こえた気がした。
「誰に、救われたのでしょう……?」
だが、どれだけ思考を巡らせても、その声が誰の者なのか、思い出す事が出来なかった。
「……不思議、ですね……」
彼女は再びジュプトルを支えながら歩き出す。
「――私も、なぜだか涙が止まらないんです……」
彼女は、泣きながら歩いた。涙を流すジュプトルを片方の羽だけでどうにか支えて、泣きながら歩いた。
嬉しくて、でも悲しくて。
「だから、あなたもきっと……」
心が満ち足りていて、でもなぜか空っぽで。
「誰かに、助けてもらっていいんです……!」
「……本当に……?」
彼が、少しの泣き笑いとともに、彼女へそう問いかけた。彼女は、泣き笑いとともにそれにうなずいた。
「いいんです」
ジュプトルは、肺に溜め込んでいたらしい息を吐いた。すぐ近くに顔があって、その高熱で暖められた吐息が彼女の首にも吹きかかる。そして、小さな声で――。
「――ありがとう」
そう、告げたのだった。
*
気づけば俺は、熱をこじらせた体を支えてくれる通りすがりの誰かと歩きながら、鼻歌を歌っていた。
「――」
見ず知らずの誰かも奇麗なソプラノで、いつかどこかで聴いたような澄んだ声で。一緒に歌を歌ってくれた。
――いつの日か、出会う時を。いつの日か、飛べる時を。
俺もいつかは……。
――想い、祈り続けよう。
俺も、いつかは……。
――あなたに届く、その時にまで。