Steal 16 涙
『“歌姫”はニセモノだった!? 怪盗“黒影”、一晩のイリュージョン!
今朝、前代未聞の事件が街を激震させた。町中にあるレコード店と言うレコード店から、“歌姫”の全てのレコードが消えていたのだ。現在警察が調査中であるが、その被害の範囲は半径二十キロほどにも及び、侵入されたとされる店舗数は百をくだらないという。ファンタスティック、なんというイリュージョン!
しかし、我らを激震させたのはその鮮やかな犯行に着いてではない。なんと、レコードを根こそぎ盗んだ“黒影”は、代わりに全てのレコード店にこう書き残したカードを置いていったのだ。
“本物の歌姫を見極めよ”
……と! 数日前、怪盗“黒影”はアクアフェリーにて“歌姫”ことアリア氏の誘拐を示唆する予告をしていたが断念、ファンを失望させる結果となっていたが……! もしやこの犯行は失敗ではなかったと言うのか! 我々記者がネットワークを総動員し、この謎の書き置きの真意を徹底追及したところ、どうやら○○病院にて、本物の“歌姫”がいるという有力な情報をゲットした! 次号ではこの病院への潜入記録をお送りする! 続報を待てッ!』
「……続報を待て、だとよ」
「ええええええ!? ここで終わりーー!?」
俺はなぜか、この長文、かつ駄文の書かれたゴシップ記事を長々と朗読させられるハメになっていた。なぜか。簡単だ。マルが読めとせがんで来たからである。
もういいだろう。俺は一刻も早くこの記事から目を離したくて、ゴシップを出来るだけ遠くに投げた。マルはそんな俺の行動に驚いたように目を見開き、わわわわ、と慌てて記事をとりに戻る。その隙に俺はその場から離れて、不思議荘の古びた縁側へと場所を変えた。
俺が一人、縁側で日光浴にいそしんでいると、居間から顔をのぞかせた不思議荘面々三人組が、まじまじと顔を見合わせてヒソヒソと喋る。全部が全部、俺には丸聞こえなんだが……。
「ナイル君、ここ最近ちょっと様子が変だね……」
「ねえママ、ぷーたろーはどうしちゃったの?」
「これは……見覚えがあるわ。学生時代、言い寄って来たドラゴンタイプの男の子をあしらったら、彼らはいつもあんな感じになるわよ」
「え、じゃあママさんこれって……!」
「お兄ちゃん“ふられた”の!?」
「――ちがーーーーーう! 黙れ! 全部聞こえているんだよッ!」
――Steal 16 涙――
アフトのあんさんが病院退院した後暫くして、俺はあの病院を遠目から眺めた事があったが、あの歌声が聞こえてくる事はなかった。安堵と、それ以外のよくわからない感情が渦巻いた。
カテツとモズに調べてもらったら、彼女はこの病院を退院したのだという。その後の経過を見るに、恐らく彼女は俺に関する記憶もしっかり消えているようだと、とも言っていた。
そうか、どうやら彼女は、傷ついても前へ進むことを選んだようだ。
それに比べて、俺はなんなんだろうな……。
「……主、これでよかったのですか?」
「どういうことだ」
カテツが控えめながら尋ねてくる。だから、ぬしって言うのはやめろと言っているのに。すると、カテツの代わりに今度はモズが声を上げる。
「あの娘は、別れを切実に悲しんでおられたと思いまする」
「その気持ちも、今は全部消えているだろう」
「あの娘が忘れていても、主の記憶には――」
「――もういい」
俺は、カテツとモズの交互に繰り広げられる会話に終止符を打った。
「……もう、いいんだ」
俺は、強くはない。
今は怪盗“黒影”として生きていくしか無い。だとしたら、これ以上大切なものを抱え込むなんて出来ないんだ。
もし、俺が。いつか怪盗をやめて堂々と暮らす事が出来るようになった、その時には……。
……その時が、いつやってくるかはまだわからないが。その時まで。
俺は、暗闇に溶け込みながら一人生きていくしかない。
*
ジャズバー“ノイジー”に顔を出してみると、昼間というのもあって店内にはロウしかいなかった。相変わらずバーテンのローブシンがカクテルシェイカーを器用に振り回している。そんなバーテンのいるカウンター席に腰掛けいているロウは、こんな時間から強めの酒をあおっていた。俺が来る前から既に出来上がっている。
「よォ、ナイルか」
俺は静かにロウの横へ腰かけた。
「呑むか?」
「病み上がりだ」
「傷には強い酒が一番効く!」
「嘘だろ……」
最初からロウは俺の言葉など聞く気がないらしい。ローブシンへ大声でなんだか強そうな名前の酒と、追加のグラスと氷を頼んだ。俺はそんな彼の様子を横目で見ながら、少しばかり彼に怯えている自分がいる事に気づく。
「ロウ、怒っているか」
「何をだ?」
「……レインの記憶を、消した事」
そう、ロウはレインの事を大変気に入っていた。俺を救命ボートまで運んでくれた事もあって、彼女に感謝していた。レインの記憶を消すと決めたとき、ロウはあまり良い顔をしなかった。リスクを背負った上で、それでも楽しめ。……彼がそう言ってくれたが、結局俺は出来なかった。
だが、予想に反してロウは、鼻を鳴らしながら俺へ肩を組んだ。
「いや、今回ばかりは良かったかもな」
「えっ?」
「“怪盗という存在に、違和感を覚えないのか”。あのゲッコウガの言ったらしい言葉が妙に引っかかりやがる」
バーテンがスライドして来た酒とグラスを受け取り、ロウはなれた手つきで酒を割り始める。……いや、水割りする気もなくロックで行くつもりらしい。
「この裏社会に、なにかでっけぇモンが渦巻いていやがる……お前も、俺すらも知らないでっけぇやつだ。あの“怪盗狩り”は、それにもう気づいているのかもしれねェ」
「どういうことだ?」
「さァな。だがレインが今回、“怪盗狩り”に接触してその一端を覗いちまった事は確かだ。だから、俺はレインの記憶処理も仕方ねぇと思ってる」
「……」
「ナイル、てめぇも気をつけな。仲介所も恐らく、何か隠してやがるぞ」
仲介所が俺たち怪盗に隠し事……。あの組織に隠し事などありすぎるくらいなのだから今更驚く事でもないが、ロウが釘を刺すくらいなのだから警戒は引き続きした方がいいようだ。
「だが、レインの記憶を消したのが結果的に良かった事と、てめえの判断が正しかったかはまた別の話だ」
ロウは、怒るまでもなく静かな声で、諭すように俺が恐れていた核心をついた。だから俺は、ロウの持たされたグラスをただされるがままに持つしか出来なかった。
俺たちはグラスを当てて乾杯をする。だが、ロウがその中身をすぐに飲み干したのに対し、俺はなにも喉を通りそうになくてグラスをカウンターに置くだけだった。ロウは満足げな表情で酒の味を堪能し、空になったグラスを置く。
「お前、怖じ気づいちまったんだなァ」
「……」
「今の自分を、昔の自分と重ね合わせちまったんだろ」
思わず、グラスを持つ手に力がこもる。一気にロウの言う“昔の自分”が思い出された。まだ、不思議荘に連れて来られる前。あの地獄にいた頃の自分。
世界の最下層。最も治安の悪いとされる俺の故郷。そこで必死に生きていたあのときの自分だ。
「なぁ、お前。そろそろ自分を許してやれよォ」
そんな俺の過去を聞いている数少ないうちの一人であるロウは、責めるまでもなく淡々と言う。
「俺は、実際にその瞬間を見た訳じゃねぇけど。自分が生き抜くので必死だったんだろ? ――母ちゃんのことは、しょうがねぇだろ」
「仕方なくなんか、ない」
俺はやっと酒を一気に飲んだ。多分、後で傷に響くだろうが、そんな事を考えている余裕など無かった。
「俺は、“怪盗狩り”に斬られたとき、夢を見た。母が死んだあの日の事だ」
なんとかして食べ物を盗んで来ないことには、二人して野垂れ死ぬしかない寒い冬の日だ。俺はあの日に、盗みに失敗して、見せしめとばかりに袋だたきにされた。夢に出て来たのは黒い陰だったが……実際のところ、誰に殴られたかは鮮明に覚えていない。
――嫌だ。死にたくない……!
俺は、あの時誰かに殺されるかもしれない恐怖を覚えた。だが、それ以上に。あの時捕まっちまったせいで――母を飢え死にさせた。
――母さんが死んだ、こんな世界からッ――。
俺が、盗みを失敗したばっかりに。
「ちげぇよ」
ロウは、俺の思考を強制遮断させんとばかりに鋭く言う。
「お前、何が出来た? ガキだったお前に、あのとき何が出来たんだよ? 体力も限界超えて、身も心もボロボロになったガキが、盗みに成功する方が不思議だ――誰のせいでもねぇだろうがよ」
「……」
「今は違うだろ。あの頃とは環境も強さも違うだろ。何が来ても守れんだろ。母ちゃんみてぇには誰もならねぇだろ。なのに、どうしてレインを前にして怖じ気づいちまったんだよ?」
俺は、怖くなった。俺の失敗で母を死なせた時のように。いつか俺が盗みに失敗した時――怪盗だってことを知ったレインが、仲介所か警察か、それとも“裏社会に渦巻くでっけぇモン”に何かされちまうんじゃないかと。
怖くなったんだ。
「お前にとって、レインってなんだったんだ?」
「俺にとって……」
いったい、なんだったんだ。あの歌声は、俺にとって……。
あの眼差しは。あの振る舞いは。あの考え方は。あの姿は。
「あ……?」
どういうわけか、俺の目から涙が出て来た。
――たった、少しの時間だったのに。ほんの少し、近くにいただけだったのに。
「なんでだ……?」
――いや、俺は何回も病院であの歌声を聴いていたのだ。あの歌に、静かに耳を傾けていた自分がいたのだ。
「なんで涙が、とまらない……?」
「……どうしてかなんて、どうだっていいじゃねぇか」
ロウは、組んだ肩へさらに力を込めて、自分でもよくわからない状態の俺の手の中にあるグラスに、自分のグラスを突き当てる。
「傷には強い酒が一番効く」
カチン、とガラスの鳴る音が俺の耳の中に響いた。
「泣け、弟よ――」