Steal 15 決別
ナイルの頼み通り、レインは“歌姫”の歌を歌った。レインが歌い終わる頃、彼は再び眠り込んでいた。そして、それを見るレインの目から、止めどなく涙があふれていた。
「あなたには、救われてばかりいます……」
病院でヌマクローを助けた後、中庭で彼と話した時。彼のなにげなしに放った言葉。
――あの病院の歌声は、俺の耳に確かに届いている――。
彼にとっては、覚えておくほどでもないただの言葉に過ぎなかったのかもしれない。だがレインにとって、それがどれだけの救いの言葉だったか。
まだ三回しか会っていない。そんなぶっきらぼうで不器用なジュプトルに彼女は救われた。
「……ありがとう……」
涙が止まらなくて、レインは嗚咽のなかで何度もナイルにそう言った。
――Steal 15 決別――
「“歌姫”を連れてきてくださって、本当にありがとうございます」
依頼人のブイゼル――セルドから深々と頭を下げられた。だが、もう顔を見るのも。もちろんその後頭部を見るのも、声を聞くのすらもうんざりしている俺は、思わず舌打ちで奴の礼への応答とした。
あのゲッコウガから深手を負って数日。なんとか傷も動ける程度には回復して、俺は早々にレインをセルドの元へ届ける事にした。もちろん、怪盗“黒影”として。
「貴様、俺を騙しやがったな」
「どういうことですか?」
「“歌姫”がメロエッタじゃないと知っていただろう?」
「騙したとは心外ですね。あなたほどの怪盗であれば本物を連れてきてくださると信じておりましたし、実際そうしてくれたので言わなくても大丈夫だったではありませんか」
そう言ってセルドは小さく笑う。この野郎、後わずかな命なら俺が今ここで叩き斬ってやろうか……。
「しかし、よかったのですか? そのままレインさんを帰してしまって」
「何がだ」
「少しでもいいからあなたに会って話したかったそうですよ」
「もう今回みたいな事はごめんだ。さっさとおさらばしたい」
それに、正体がばれてあんな顔をされてしまっては、合わせる顔がないだろう……。
「では、約束の報酬です」
そう言ってセルドは、ベッドの下に再び潜り込んで、あのきらびやかな装飾の箱を取り出した。
長かった……。今回の依頼は本当に長かったが、これでどうにか当初の目的である不思議荘の階段の修理費と、マルへの小遣いと、今月の家賃と、ついでにカテツとモズへの心ばかりのお礼が手に入ったわけだ。
セルドはにっこりしながら箱を乗せた手のひらを俺に差し出し……。
「はいっ」
俺が手を伸ばす前にその箱の蓋を――開けた?
「…………は?」
なぜ、箱が開く? 確かこの箱を開ける鍵は仲介が持っていて中身はこの家の全財産が入った通帳とカードのはずじゃ……?
中身は空だぞ……?
「いやですねー、“黒影”さん。僕がこんな奇麗な箱の中に通帳とか言う無粋な物を入れると思いますか?」
「…………」
「実は、依頼完遂前に報酬をかすめ取られるのを防止するためにちょっとした罠を仕掛けていたんです。まぁ、あなたにはそんな事する必要は無かった訳ですが」
「…………………」
「仲介さんにわたした鍵、あれが僕の家の財産を開ける金庫の鍵なんです。詳しい事は仲介さんに聞けばわかると思いますが……」
「………………………」
「“黒影”さん?」
俺はセルドへ“リーフブレード”を叩き付けて、手に持っているきらびやかなそれを真っ二つにした。
なんなんだ、このえも言われぬ屈辱はッ!
「さっさとくたばっちまえッ!」
「おや、ではあの洒落た装飾の箱も真っ二つにしてしまったのですか?」
場所は変わり、三たび病院の屋上である。アフトの腰も順調に良くなってきていて、明日家あさってには無事に退院できるそうだ。
それはさておき今は仲介のヨノワールである。相変わらずいけすかない笑みで俺の事を見据えるくそったれは、それを聞いたとたんに一つ目を細めた。
「これはこれは、“黒影”様ももったいないことをなさりますね! あの箱自体の価値を、まさか知らなかったとはおっしゃらないでしょう?」
「黙れ。知っていてやったに決まっているだろうが」
しかたがない、考えるより先に手が出てしまったのだ。だが、ああしてしまって後悔がなかったかと聞かれれば答えに窮する。あれを売り払えば不思議荘のフルリフォームをしてもおつりが来るくらいだったからだ。もちろん、そんなことを仲介に言うつもりは無いが。
「ほう、さすがは“黒影”様! 目の前の品物の価値にとらわれないその心意気――本物の怪盗に必要な心意気をあなた様は持っていらっしゃいます」
「…………」
絶対わざとだ。こいつ絶対わざと言ってやがる……。
「しかし、“黒影”様。依頼は無事に果たされましたが、一つだけ懸念事項がございます」
仲介はそう言ってアタッシュケースを開いたかと思うと、今日の新聞を取り出した。新聞が小さく見えるがなんのことはない。奴の手がでかいだけだ。
俺は無言で差し出された今日の新聞を手に取る。そういえば、ロウの隠れ家から直接ここに来たから新聞もニュースも把握していなかった。
「……『“黒影”、まさかの予告失敗か? “歌姫”・メロエッタが無事にフェリーから帰還』……」
ああ、そういうことか……。
依頼人セルドの要望を果たし、本物の“歌姫”であるレインを連れてきたのは良かった。だが世間的には、メロエッタが“歌姫”であることに変わりはない。
つまり、俺は盗みに失敗した事になっている。
「今やあなた様の株は急降下! ついに世代交代の時か、と囁かれている始末です。依頼完遂は嬉しく思いますが、やはり“黒影”様の評判にはヒビが……今後の仕事にも影響するかと思われます」
まったく、やっかいなことになったな……。
“歌姫”の歌声を盗む、とか曖昧な表現をつかっちまったから、収拾も難しそうだ。いや、もうここまで来たらいっそ、レインが本物の“歌姫”だということをたれ込んじまうか……。
いやいや、そうなるとレインへ注目が一気に集まってしまう。メロエッタが周囲を騙していた事を告発した事で、その名声が地に落ちるのは痛くも痒くもないが。マスコミに囲まれ、パパラッチに追いかけ回され……そうなると人目にさらされる事になれていないレインは精神崩壊してしまうかもな……。
だが、ずっとこの事を黙っていたら“黒影”の名声は回復しない。それに、彼女は一生メロエッタの陰に捕われることになる……。
「どういたしますか、“黒影”様」
「……」
「……“黒影”様?」
「……ふん」
「おや、何か妙案が?」
浮かぶ訳が無いだろう。
「貴様に教えるまでもない、そんなことより! “怪盗狩り”の方はしっかり調べてやがるんだろうな?」
俺が生死をさまよってまで得てきた情報だ。ここはしっかりと仲介の情報網で調べてもらわねば困る。すると、先ほどまでにやりと細めていた仲介の一つ目が標準値に戻った。
「そこは抜かり無く。もはやあのゲッコウガが駆逐されるのは時間の問題でしょう」
「だといいがな」
俺は屋上の手すりに腕を乗せて外を眺めた。
あのあとロウから聞いた話によると、奴は“怪盗という存在に違和感を覚えないのか”と言っていたらしい。違和感とは何の事だ? 確かに、犯罪行為ながらエンターテインメントとして黙認されている“怪盗”という存在は違和感だらけだ。だが、奴が改めてそれを口にする必要があったのか? それとも、あの言葉には別の意味が含まれているのか……?
「“黒影”様」
仲介が低い声で名を呼ぶ。俺の背後の気温が少し下がった気がした。
「まさか、“怪盗狩り”のことでまだおっしゃっていない情報はございませんか?」
「……いいや」
あの言葉。あの言葉だけは仲介の耳に入れてはいけない。俺の本能がそう告げていた。
「次に会うことがあれば、必ず叩き斬ると胸に誓っただけだ」
嘘は言っていない。俺が受けた傷はそっくりそのまま返してやるまでうずき続けるだろうし、あいつはレインを危険にさらした罪もある。
「そうですか。……それならばよろしいです。私はこれにて失礼します」
「待て」
アタッシュケースのロックを閉める音がしたので、俺は仲介が消える前に奴を呼び止めた。ヨノワールは怪訝そうな表情になる。
「いかがなさいました? あなたが私を呼び止めるなど――」
「――非常事態だ」
「……」
仲介は、俺のその一言で全てを察したようだった。
*
夜。
病院の個室でベッドに横たわっていたレインは、いつもよりも寝付けずに窓越しの星空を眺めていた。ナイルに連れられてセルドと会ってから、彼とはぱったりと会わなくなってしまった。まだ、しっかりお礼もしていないのに。
それに何より。
――歌ってくれ――。
そう訴えかけるナイル自身の声が、何かに救いを求めているように聞こえてならなかったのだ。彼は、苦しんでいるのではないか? それに何を隠そう自分自身が、ナイルが“黒影”だと知って一度は彼に失望してしまったのだ。
――私は彼の言葉に幾分か救われたと言うのに、なにもしてあげられなかった。
胸が締め付けられるようで、眠れなかった。無理矢理に目を閉じてみる。だめだ、やっぱり眠気がこない。レインはため息をついて、再び目を開いて、窓の方へ視線を向けた――。
「……あっ……」
――その先に、ナイルの姿があった。
「えっ、そ、そんな……!」
レインは飛び上がって窓へと駆け寄る、そして大分苦労と時間をかけて窓の鍵を外すと、彼が外から窓を押し上げてサッシに足をかける。
「この階までのぼるはいささかきつい」
「ど、どうして窓から……!?」
「面会時間はとうに超えたからな」
予想だにしなかった登場への驚きと、再び会えた事による喜びで複雑な心境になり、レインは咄嗟に言葉を紡げなかった。そんな彼女の思考がかろうじて追いついたのは、彼の脇腹に当ててあるガーゼに目が留ってからだ。
「怪我の方は、もう大丈夫なのですか?」
「問題ない」
「……もう、会えないかと思っていました」
「……」
自然と目の縁に涙がたまる。悲しい時もよくこうなるが、うれしいときにも思わず泣きそうになってしまう。泣き虫だな、私。自分の中で自分を嗤った。
だがナイルは、出会えた喜びよりも複雑な心境をもっているようだった。
「レイン」
「はい」
「別れを言いに来た」
*
別れを言いに来たと言ってやると彼女の顔がこわばった。脇腹がズキンと痛む。怪我の方も実は問題が大ありなのだが、やはりレインへ正直にそう言わなくて正解だった。
「……どういうことですか?」
「俺は、怪盗“黒影”だ」
正体がばれてしまっては、これ以上接触するなど不可能だろう。仲介所がそれを許す訳が無い。
一瞬俺の脳内にロウの言葉が蘇る。てめぇも怪盗なら、どんな状況でも楽しめよ――。彼はそう言ったが、俺には到底無理な話だと思った。
今、世間は“黒影”が“歌姫”を盗む事に失敗したと思っている。この状況は、なんとかひっくり返さねばならない。今日は、“黒影”としてレインに会いに来たのだ。
「レイン」
彼女が深呼吸をした。
「……はい」
「世間に“歌姫”の正体を公表する勇気はあるか?」
「……え?」
やはり、“歌姫”の正体がメロエッタでないとわかった今、俺の名声をある程度回復させるにはそれを世間に公表するしか道がないと思った。だが、それは同時にレインへ迷惑をかける事にもなる。
彼女らは、多くの人間をある意味騙して来た。マルや、ティオさんや、アフト……。俺の身近なポケモンたちを始め、この地域のほとんど、見ず知らずのポケモンたちまでも騙している。それを公表した場合、メロエッタはメディアに露出していた分ただでは済まないだろう。もちろんレインにも責任があるから、彼女が叩かれる事もあるだろうし、きっと傷つく事もあるだろう。
「だけど、俺は。やっぱりあんたの歌を殺しておきたくはない。もちろん、“黒影”の名声も殺しておきたくはない。そして、傷つくとわかっていても、それでも前に進んでほしい」
「傷ついても……」
「もし、あんたにその気があるのなら」
マスクを持つ手に力が入る。
「俺に依頼してくれ。望めば、今までの……偽物の“歌姫”を全てかっさらっていく。そして、レインが本物の“歌姫”だと世間に知らせる」
「な、ナイルさん……!」
「それが、俺が最後にあんたへ出来る事だ」
「どうして、最後なんですかッ」
レインは叫んだ。こんなに、大きな声が出せるとは思っても見なかった。
「私は、傷ついてもいい! だって、私だってみんなを騙して来たんだもの……ッ! それは当然の報いよ! だから、あなたに頼みたい! でも、でも……!」
やめてくれよ。そんな顔を、しないでくれ。別れるのが辛くなる。
「最後だなんて、言わないで……! まだあなたに、何のお礼もしていない……!」
「……」
そうだ、一方的な別れは俺のエゴだ。ロウのように本当に強い奴なら、正体がばれた相手とつるんでいても、うまく危険から脱する事が出来るだろう。ぼろが出て警察に捕まりそうになっても、正体を知った誰かが危険にさらされようと。それでも全てを守り抜くだろう。
だが俺には、それが出来ない。
守る物が増えるたびに、俺の心が悲鳴を上げていく。
もう無理だ、と。
昔のように、非力な自分のせいで誰かを失うのは耐えられない。
――いやだ、死にたくない……!
俺が殴られるのは、まだ我慢できる。俺がどこの誰に殴られてどこでのたれ死んでも文句は言えない。俺の命だからだ。だが。
――失敗したら、お分かりですね?
俺のせいで誰が傷つくか、わからない。
「……俺は、もう行く」
サッシの上にかけていた踵を返し、俺は窓から飛び降りようとした。レインの意思は聞いた。俺は今から、“歌姫”の正体を――。
「――待って、行かないで……ッ!」
ふわりとした感触が、俺の手に伝わった。レインが、窓を掴んでいない方の俺の手を掴んだ。
「あなたのおかげで、私は……! 救われた……ッ! 離れたくない、お願い……!」
「……俺のことは忘れてくれ、レイン」
世界は、ここだけじゃない。あんたを支えてくれるのは、俺なんかじゃない。
「世の中は、お前が思っているほど厳しくはない。たとえ飛べなくても、それ蔑むポケモンよりも理解してくれるポケモンの方が多い。もちろん不便もあるだろうが、それでも、病院から出てみてくれ」
鳥かごから、飛び出してくれ――。
「ナイルさんッ、待って……!」
俺は、レインの手をほどいて窓から飛び降りた。
「ナイルさん……ッ!」
微かに、飛び降りた窓の中から、彼女の声が聞こえてきた。
「挨拶は、お済みですか?」
飛び降りた病院の中庭に、仲介のヨノワールが現れる。夜中の登場だけあって赤い一つ目がいつもより不気味に光っていた。
そんな奴へ、俺は視線をくれずに答える。
「挨拶? ――どうせ全て消える」
そう吐き捨てたのと同時だっただろうか、ヨノワールの横に小さな光が発生する。その光が仲介の手の大きさほどになると、その光の中からとある浮遊物が現れた――いや、それは浮遊物ではなく、浮遊するポケモンだった。
ふわりと二つほど浮かぶ白い尾、黄色の髪に固く閉じられた目。そして額に埋め込まれた赤いコア。
知識ポケモン、ユクシーだ。彼は、怪盗の正体が明かされてしまった非常事態時にのみ現れ、その記憶を――消し去っていく。仲介所お抱えのポケモンで謎の多い存在だ。
「では予定通り、“黒影”と接触した者への記憶処理を行います」
ユクシーは抑揚の無い声で言った。そして再び光を放ち、俺たちの前から姿を消す。多分今頃、レインの前に現れて記憶を封印している事だろう。
「……今回は、正体が暴かれたのが一人だったので特別措置です。そのこと、ゆめゆめお忘れなきよう――」
仲介がにやりとした表情で言った。
「――あなた様自身のためにも……」