Steal 14 レイン
路地を死ぬ気で走った。
ここで見つかっては大人たちに袋だたきにされる。手に持った食料を持って帰らねば今度こそ自分も家族も今日を生きながらえないかもしれない。それと同時に、追いつかれれば――こんどばかりは殺されるかもしれない。
「はぁッ……くそっ……!」
体力は、もう限界を超えているはずだ。なにより草タイプに冬の夜は大敵だし、今までも盗みに失敗しては殴られ、蹴られ、痛くなった体中が悲鳴を上げているのだ。
――嫌だ……。
頭に記憶しきった複雑な路地を、縫うように走る。後ろから、壁越しから、自分を追いかける足音が恐怖を駆り立てた。
――嫌だ。死にたくない……!
足音から遠ざかるように逃げた。大きな曲がり角がある。あれを曲がれば大人の通れない小さな壁の穴があるのだ。あそこを曲がれば……!
ドンッ!
「ッ!」
目の前に、ひときわ大きなポケモンが立ちはだかった。追ってきたのだ、追ってきたのだ! 退路を断たれた!
「こんどは逃がさねぇぜ! この盗人のクソがきがッ!」
そのポケモンは確かにどん、と足を踏み鳴らして自分の前に立ちはだかった。なのにどういう訳か、目の前に立ちはだかるポケモンは黒い陰だった。闇の深淵のような陰が拳を作り上げる。
視界が吹き飛んだ。頭に激痛が走った。
陰の拳に殴られて嘘のように軽い体が壁に叩き付けられた。見なくてもわかる。意識がもうろうとしてもわかる。壁に打った頭から血が出ている。
――死にたくない……ッ! 死にたくないよぉ……ッ!
だけど黒い陰は、自分よりも小さなガキが虫の息なのにも関わらず、こっちを覗き込んで嫌らしく笑っていやがる。
「おいテメェ、大人から物を盗んだらどうなるか、思い知らせてやるよッ!」
「い、や……ッ」
――嫌だ……嫌だ嫌だッ!
「ああああッ!」
「ナイルッ! 俺だ!」
あの陰から逃れようと、肩を押さえつける何かを必死で振り払おうとした。だが、俺を押さえつける何かは、必死に俺の名を呼びやがる。体がズキズキと痛んだ。特に左の脇腹の辺りにはひときわ激痛が走って、また意識が飛びそうになる。
「俺だッ! ロウだ!」
「……ロ、ウ……?」
その時になって、初めて視界がすこしずつ鮮明になっていった。だが、鮮明になったと言っても、目がぐるぐると回って吐きそうになる。
どうやら、俺の肩を押さえて必死に呼びかけていたのは、ゾロアークのロウ=スカーレットだ。彼の後ろに広がるのは見知らぬ天井だが、ここは、どこだ……? ロウがいる、ということは。
――夢……か……? ここは少なくとも、あの地獄ではないと言う事か……。
「大丈夫か、ほら、飲め……」
「……」
喉がからからに渇いて声が出なかった。俺はされるがままに水を飲む。自分が何を考えているのか、わからなかった。だめだ、頭が湯立ったように熱い。俺、どうしたんだっけ……なにがあったんだっけ……?
フェリーで、船の上で……。誰かに襲われて……それで……。
「なにが……どうなってんだ……」
「おま、いまはそれよか寝ろ! 異常な熱がでてんだよッ!」
「ぎゃぁ!」
ロウの固い爪のチョップが俺の脳天に下された。お、おい……“異常な熱”と言うならば……もっと、やさしくしろ……。
――Steal 14 レイン――
ものすごく大きな叫び声が聞こえたかと思うと、暫くしてゾロアークが部屋から出てきた。音を立てないように戸を閉めて出てきた彼に、チルタリスのレインは押さえきれぬ不安とともに聞く。
「あの……大丈夫でしたか、ナイルさんは……?」
「ん、ああ、まぁ大丈夫だろ。我が弟はそんなにヤワじゃねえ」
ナイルの仲間であるテッカニンとヌケニンに会った後、彼らに連れられてレインは救命ボートにのりこんだ。そこには片目がつぶれたゾロアークが待っていて、つまりは総勢五人で陸を目指す事となった。ゾロアークが救命ボートの舵を取っている間、器用にもテッカニンとヌケニンがナイルの怪我の応急処置をしてくれたおかげでどうにか命は取り留めたが……。
救命ボートが着くまでの間、ナイルの手はレインの羽をずっと掴んで離さなかった。そんな彼は怪我をして意識がもうろうとしていたせいか、呪詛にも似たうわごとを吐くのだ。まるで、たちの悪い悪夢に苦しめられるかのような。
――死にたくないッ……!
――嫌だ、痛いのは嫌だッ……!
――殴らないで……ッ!
病院でを会話をした冷静なナイルが嘘のようだった。彼が時々叫びだすたびに、レインは心臓を掴まれたかのような気持ちになる。
ゾロアークはナイルの謎のうわごとについて一切口を割らなかった。恐らくナイルの過去の経験から何かあったに違いないとは思うのだが、それを彼の口から語ってくれる事は無かった。
だが、ナイルと親しげな彼が大丈夫と言うのならばそうなのだろう。今は、彼が回復してくれる事を祈るしか無かった。
「あの、ゾロアークさん……」
「ロウで良いぜ。あんたは弟の命の恩人だ。しっかり名乗らなきゃ示しがつかねェ」
「あ、いえ……そんなことは……。ところで……」
「ん?」
「ここは、誰のお宅なのでしょう?」
レインが首を傾げながらそう尋ねると、ロウはにんまりと笑う。
「ふふん、俺の秘密の隠れ家ってェやつよ」
「――兄者」
「ここにおられましたか」
ブゥン、と低い唸りのような音が響いた。件の、ナイルを助けてくれたテッカニンとヌケニン――たしか、カテツとモズと名乗っていた――がレインの前に現れたのだ。彼女から見れば、彼ら二人の登場はいつも瞬間移動しているようにしか見えない。
「よぉ、どうした?」
「さきほどレイン殿がおっしゃった“怪盗狩り”に、心当たりが……」
「もしや、我らと同じ輩かもしれませぬ」
カテツとモズ、二人の言葉にロウのへらへらとした顔色がほんの少し変わった。鋭い視線で彼らを見る。
「なんだと?」
「我ら同志の中に、“辻斬りのゲッコウガ”という強者がいると話に聞いた事がございまする」
「聞けば、そやつは“水手裏剣”の使い手。闇討ちにかけては右に出る者はおらぬ、と」
「待て。お前らってさ、誰かに仕えて命令されない限り絶対行動しねぇんだろ? バックで誰かがゲッコウガに怪盗の暗殺を命じているってェことかァ?」
「「そのようでございまする」」
――闇討ち、暗殺。今までのレインにとっては全く縁の無かった事柄たちだ。あの時、そんなおっかないポケモンを相手にしていたのだと思うと、今更になって足が震える。
感情など一切持ち合わせていないかのような、あの冷えきった目。命令ひとつで誰かの命を平然と奪うなど、なんと恐ろしいことか。
――貴様ら一般人は、“怪盗”という存在に違和感を覚えた事が無いのか?――
「……違和感」
「なんだって?」
ゲッコウガの言葉を思い出し、思わず小声でその切れ端を口ずさんだレインに、場にいた三人は目敏く彼女を振り返る。彼らの耳の良さにレインは驚いて目を見開いた。
「い、いえ……たしか、あのゲッコウガが言っていたのです。“怪盗という存在に違和感を覚えないのか”、と……」
「……」
ロウは鋭い爪を持った手を顎にあててしばし考え込むそぶりをした。どうやら、裏社会の顔役である彼にも、その言葉の真意はわからないようであった。
「なーんか、俺らの知らないところで妙なことが起こり始めてるみてぇだなァ……」
*
いったい、どれくらい気を失っていただろう?
まだ全身の熱は冷めきっていないようだった。まるで炎の鎧を着込んでいるみたいだ。だけど、起きなければ。なにか大事な事を忘れている気がするからだ。
俺は、“歌姫を”……。
あの歌声を盗んでくると、誰かに依頼されたんじゃなかっただろうか……。
「俺は……」
瞼を開くと、やはり一度も見た事が無い天井が視界に広がっている。ここはどこなのだろう? 前に起きた時は、確かロウがいたような気がするが……。彼がこの場所に連れてきたと言う言うのであれば、ひとまずここは安全な場所なのだろう。
いつの間にか寝かされていたらしいベッドの横で、白い羽を持ったチルタリスが椅子に座っていた。
「……レイン……?」
「すいません、起こしてしまいましたか……?」
ささやくような声音でレインが言う。撫でるように耳に残る声。小さいはずなのに、なぜか澄んだ不思議な響きを持つ声。ああ、やはり。レインが“歌姫”なのか。
あの病院で、悲しげに繰り返していた歌声も、彼女のものだったのか……。
――ナイルさん……どうして、こんな……!
あの船で、“黒影”の正体が俺であるとバレた瞬間の、あの表情が思い出される。
どうして、俺はこんなにショックを受けているのだろう。俺が犯罪者であると知れたらあんな顔をされる事くらい、いつも覚悟していたつもりだったのに。しかも不思議荘の誰かにバレるのならともかく、病院で鉢合わせただけの、たかが数回顔を合わせただけのチルタリスに正体が知れて、ここまで喉が詰まるなど……。
「すまない……」
「なぜ、謝るのですか……?」
「あんな恐ろしいことに巻き込んじまった」
「……」
「それに、俺は……」
「ゲッコウガから、私を守ってくださったのはナイルさんです」
穏やかな表情だった。怪盗と知って、一度は俺を拒絶した彼女が、またこうして話してくれる事に少しだけ安堵した。
「ロウは……あのゾロアークは、俺について何か言っていたか?」
「いえ、何も」
レインは首をゆるゆると横に振る。
「あなたについては一言も、かばうような事も、取り繕うような事も……なぜ、怪盗“黒影”として過ごしているのかも、何も言っていませんでした。私は彼が、ナイルさんから直接聞けと暗に言っているようにも思えました」
「奴らしい」
「ナイルさん、どうして……! 心の優しいあなたが、こんなことを?」
「……」
「いったいあなたに、何があったの……?」
心の優しい、か。俺は自分が、そんな高尚な奴だとは微塵も思っちゃいないさ。
ただ、俺は。生きる事に必死だっただけだ。
「レイン……俺も、聞きたい」
「なんでしょう?」
「どうして、病院で歌っていた?」
あんなにも、繰り返し。喉が潰れるほどに。
以前レインは、“歌姫”の歌が嫌いだと言っていた。それはつまり、自分自身の歌声が嫌いだったということだ。なのに、どうして嫌いであるはずの自分の歌を、あんなにも繰り返し、苦しく悲しげに歌っていた?
どうして、メロエッタの陰で隠れるように歌っている?
俺はずっと、それが知りたかった。
「私は……」
また泣きそうになっている。声が震えている。
「私の歌声を、殺してしまいたかったのです……」
*
物心ついた頃から、レインは自分が生まれてきてはいけない存在だと思っていた。生まれた時から飛べなかった彼女は、それだけで罪なのだと言い聞かされてきた。ひっそりと生きるように言われ続けた。
だがある日、病院で歌を歌っていると“天使みたいだ”と言われた。
たとえ飛べなくても、それでどれだけ蔑まれようと。もしかしたらこの歌声で、自分が生きていると実感できるかもしれないと思った。
そんなある日、メロエッタのアリアと出会った。彼女は、自分の手を取って言った。一緒に歌わないか、と。
アリアはメロエッタだが、音感が破壊的になかった。だが代わりに抜群のプロポーションと、聞いたものをそのままトレースする能力があった。レインの翼では人前に出るなんて考えただけでも足がすくみそうだったから、お互いに良いところを出し合っていかないかと提案されたのだ。妙案だと思った。
だがすぐにそれは幻想だと気づいた。
アリアに合わせて歌を歌う。すると、どんどん反響が大きくなっていった。だが、有名になるにつれてわかったことは、どれだけ歌っても評価されるのはアリア一人だけだと言うことだった。いくら自分が頑張っても、レインの歌声として認知される事は無いのだとわかった。
なんどか言ってみた事がある。一度で良いからこの歌声が自分のものであること、自分たちがチームとして活動していると公表してくれないかと。姿なんて見せなくていい。これからも光を浴びるのはアリアだけで良いから、飛べない自分にもできることがあるという証が欲しかった。だが、返ってきたのはこんな言葉だった。
――“歌姫”が飛べないチルタリスってわかったら、私たちはもう終わりよ――。
「そのときから、決めたのです。自分の声を潰してしまおうと」
なるほど、そう言う事だったのか。どおりで、甲板の上に出たときに自棄を起こしていた訳だ。
――こんな歌声、消してしまった方がいい!
彼女の悲痛な叫びの意味が、今やっとわかった。
「病院で、何回も何回も歌って、自分の喉を潰そうと思ったんです。大っ嫌いだったんです、自分の声が。消してしまいたかったのです。アリアは悪くない。全部、こんな風に生まれてきてしまった私が悪いのです」
「……馬鹿野郎」
レイン、あんたは何も悪くない。あんたは……利用されたんだよ。心が優しすぎるんだよ。そして少し、臆病すぎただけなんだよ。
「……すな」
「え……?」
チッ。また意識がもうろうとしてきた。声がうまく出せない。
「潰すな……」
俺が……。
「潰すんじゃねぇよ……」
俺が、聞いている。
“歌姫”の歌声は、俺の耳に届いている。
「ぐッ……」
傷がいてぇ。熱にのぼせそうになって、意識が持っていかれそうになる。このクソ重要なときに……。
「な、ナイルさん!」
「歌……」
「えッ……!?」
「歌を……」
目を開けるのが辛くて、俺は閉じて真っ暗になった視界のまま投げるように言う。
多分、俺が回復したらすぐにレインを依頼人のところへ届けるだろう。アフトももう退院するだろう。
いや、俺が“黒影”だとバレた時点で、もう彼女と再び会う事はないだろう。
だから。
「歌ってくれ――」
いま、この瞬間だけ。
彼女の歌を聴きながら、眠りたい。