番外1 お帰りが言いたくて
――あの人が帰ってきたと知らされたのは、いつもと変わらず淡々と業務をこなしていたあの日だった。
★
「ひとまず、これが今日のノルマです。お願いしますね、ラゴンさん」
「ひーっ、まて、これを全部俺にやらせるのか?」
冗談なしにドスの効いたあの低音ヴォイスが二オクターブほど跳ね上がった。それも無理のないことね。だって、積み上がった書類のせいで親方の机が今にも壊れそうだもの。
もともとラゴンさんは生粋の探検家気質で、デスクワークは大の苦手。……判子を押すだけの作業をデスクワークと呼んでもいいのならね。
「リオナーっ! 一パーセントでもいいから手伝ってくれーッ!」
「私だって忙しいんです。あなたがギルド中を回って、弟子たちに無駄遣いをやめろだの、ギルドの経理だの、今後の予算案の提出だのを全て請け負ってくれるのなら、喜んで書類の判子押しを手伝いますが?」
「……い、いや、いい。すまんな、お前も忙しいのをすっかり忘れていた」
恨むのならウィント親方を恨まなきゃね。
私――リオナがこのギルドで“裏親方の右腕”と呼ばれて早数年。あいかわらず私情を押し込めつつの業務遂行だ。いちいち私情なんてものを介入させていては、一日に片付けなければならない仕事が永遠に終わらない。それほど鬼業務なのよ、私がいるポジションは。
……でも、私がここ数年間で周りから冷たい印象を受けることが強くなったのは確かね。『リオナ=仕事人』という方程式はすでにギルドの外まで伝わっている。
“顔はいいが、近寄りがたい”という私の噂があるのはレイから聞いた。
たしかに、あの人が去ってから私に近づいてくるポケモンは何匹かいたし……実際に私自身、寄り添ったりもした。でも、あの時から――私が独りになったあの日から、私の心にぽっかりと空いた穴は……他のひとでは絶対に埋められなかった。
離れてみて、埋められないと初めて知った。
今の私には、仕事をしながらなにかに集中しているときにしか心に空いた穴を忘れられなかった……。
★
「……オナ……! リオナ!」
「……はっ! な、何? レイ、どうしたの?」
しまった。いつの間にかウトウトしてたわ。私としたことが……。
私が眠気を吹き飛ばすために首を振ると、私の前にレイがものすごい目付きで立っていた。
「リオナ! 帰ってきたわよ、帰ってきたのッ!」
「帰ってきた? 誰が?」
「誰って……決まってるじゃない! ――シャナよ! シャナッ!」
「……」
……。
………。
「……は?」
なんですって?
「しかも! かわいい弟子を二匹引き連れて!」
「弟子……!?」
明日は雪が降るわ。断言していい。ラゴンさんならここで『槍が降る』といって爆笑するでしょうけど。
「リオナッ! 今から会いに行きましょうよ!」
「え?」
レイが私の前足を引っ張ろうとするけど……。
「い、いいわよ私は……! まだ仕事が残ってるし、それを片付けないと……」
「ねぇ、いつまでそんなこといってんの!? このチャンスを逃したら、もう二度と元の関係にに戻れないかもしれないのよ」
「……やめて。……自分で会いに行くわ。覚悟が決まったらね」
私はレイに微笑んで見せた。あんまりいい笑顔とは言えなかったけど、レイを諦めさせるには十分なものだった。レイはゆっくりと私の前足を離した。
「そう……ごめんね。いきなり強引なことをして」
「ううん。ありがとう」
★
『自分で会いに行く』。
……と言って気丈に振る舞ったものの、いざ残った仕事を片付けようとすると……集中できずに手がつかない。
帰ってきた? まさか、あの人が? ……弟子を引き連れて?
“二度と戻らない”と宣言しておいて、今さらなんの風の吹き回しかしら。
「はぁ……」
駄目だ……! 一度考え始めたら集中できないわ。
私が手を止めると、ある考えがふと頭をよぎった。
――ねぇ、素直に喜んだらどうなの?嬉しいんでしょ、帰ってきてくれて。
――いいえ。成り行きとはいえ私は一度彼を振ったのよ。今さらあっちは会いたいとは思ってないわ。
――会いたいんでしょ? 結局はあの人のことを忘れられないくせに。
――まさか! 五年よ、五年! 別の誰かを好きになってるわよ! 私なんか……。
「……なに考えてんのよ私は……。らしくないわね。これじゃ片付くものも片付かないじゃない」
しょうがないわね。不本意だけど、会いに行ってやるわよ! 私はその場に立ち上がった。
……と、その前に。気分転換を兼ねて三階に行こうかしら。そのあとで覚悟を決めてやるわ。
ギルド三階の展望台から見えるトレジャータウンは、夜の闇に明かりが煌めいていてとても幻想的な美しさだった。
ギルドの弟子しか見られない特別な景色。そして、私個人からしても特別な景色だった。
そう、五年前にここで私は――。
☆
「――何? 話って。……私をここに呼ばなきゃいけないような話なの?」
私はギルド展望台の夜景から目を離して後ろを振り返った。なぜ私をここに呼んだのか。もちろんそれは誰にでもわかる理由だけど、私はあえてあちらが切り出すのを待った。
振り返った先には、緊張したせいか表情がいつもより険しいあの人の姿がある。
「いや、あの。たいした話ではないんだ。ただ」
いきなり言葉が途切れる。緊張しすぎなのよこの人は。はぁ……情けないわね。
「『ただ』?」
私はかわいそうだから助け船を出してあげた。すると彼は、スイッチの入った人形みたいに再びぎこちなく声をあげる。
「――ただ、俺はお前に言っておきたいことがあって」
またスイッチが切れる。まるで電池が残り少ない人形みたいね。
じれったいわ。
「……早く言って。待っててあげるから」
「ぐっ」
あら、プライドを傷つけちゃったかしら。だって、早く言わない方が悪いんだもの。最悪二文字で終わる言葉なのに。
「……俺は」
「なに?」
「……」
「………」
「…………」
「……………」
――五分後。
「――遅いッ!」
なんなのよ、このヘタレッ!!なんで次の言葉に五分も費やすのッ!?
待ってあげた私がバカだったわ。
「……私、帰るわよ」
「ちょ、ちょっと待てリオナ! もう一回だけチャンスをくれっ!!」
「なぁぁあにがチャンスよッッ!!今度は何分費やすのかしらッ!?」
こいつはチキンよ! 期待した私がバカだったわ。いえ、ある意味期待通りよ!
私はあの人の脇を通りすぎて二回へと続く階段を降りようとした。すると。
「ま、待て待て待て!」
誰が待ちますか!
「――好きだ」
「……は?」
今、なんて?
「……いや、『は?』って……」
「……もう一回言ってくれない? 聞き逃しちゃった」
「……人が勇気を出して言ったのに」
「あなたが悪いんじゃない間を置かずに言うから!」
「ま、まあそれはそうなんだが……」
★
思い出すだけでムカついてきたわ。あのチキンに会ったら、ひとまずは顔面を殴っておこうかしら。
何が“他のひとでは絶対に埋められない穴”よ!何考えてるの私は!バカみたいじゃない!
いいわ。覚悟は決まった。あなたをフッたこのリオナが、直々に会ってやろうじゃないの!
……いえ。たぶんあの人のことだから、自分からここに来るに決まってるわ。
だから、その時にこう言ってやるの。
……『お帰り』って。
――あの人が帰って来たと知らされた瞬間、私の心に空いた穴はいつの間にかゆっくりと塞がれていった。
そう、それはまるで、傷が癒えるかのように。
……ああ……やっぱり私って、あの人に未練があるのかしら――。