第百七十三話 生きろ
――……。
ここは、どこだ……?
暗い……何も見えない。
――……、……。
そっか、僕、死んだんだっけ。
もう、死んじゃったら悲しんで涙を流す事も出来なくなるなぁ。
――……、イ…!
でも、なら、どうして……。
――……き……カイッ!
僕を呼ぶ声がするのだろう……。
――起きろ、カイッ!
「――君はまだ、死んでいないッ!」
★
「……っ」
誰かに強く揺さぶられて、僕は目を覚ました。うっすらとめを開けると、泣いた後のせいなのか目が疲れていてしばらく視界がぼやけていた。だが、だんだんと視界が鮮明になっていくと、僕を見下ろしているのは、尖った耳に房が四つ垂れているルカリオ――。
「カイ、起きたか……」
「――ルア、ン……?」
え――?
やっと僕は、自分のみに起こった不思議な事に気づいてガバッと起き上がる。
「僕……死んでない……」
さっきまで、僕はルアンと一緒に、スバルや仲間たちを守るためにふくれあがったナイトメアダークを押さえつけていた。だけど、僕はその闇に耐えられなくて……。
――君は、頑張った……。本当に、よく頑張った……――。
僕は、波導を解いてナイトメアダークに飲まれたはずなのに……。
「生き、てる……」
まだ、全身の感触がある。呼吸をしている。目の前には、安堵から目を細めたルアンがいる。
僕は生きてる……?
「ルアン……」
「なんだ」
「僕らは、生きてるの……?」
「言っただろう、“君はまだ死んでいない”と。――私たちは、生きている」
「っ……! うわぁああっ!」
気づけば、僕はルアンに抱きついていた。ルアンの胸に顔を埋めて、おもいっきり泣いていた。体が震えていて、それが生きている安堵からなのか、死を間近に感じた恐怖からなのかもわからずに。僕は泣きじゃくった。
「う、うう……っ、ぼく、いき……、生きてる……ッ!」
「……ああ、そうだな……」
ルアンは、僕の背中に手を回して、両手で包み込んでくれた。その温もりがまた、僕に生きている事をさらに実感させてくれた。
死ぬかもしれない、という怖い思いからの安堵でしばらく泣きじゃくっていた僕も、しばらくして落ち着くと辺りの状況を見るだけの余裕ができた。となると、疑問に思うところもいくつか出てくる。
どうして、僕はナイトメアダークに飲まれても生きているのか。
どうして、実体のないルアンが目の前にいるのか。
どうして、辺りが漆黒の闇に包まれているのか……。
「ルアン、ここはどこなの……? どうして、君はここに……」
するとルアンは、普段は滅多に見せないであろう優しく穏やかな表情から、きりりと引き締まった表情になった。
「ここは、運命の塔の頂上――“ナイトメアダーク”の中だ」
「え? どういうこと?」
暴走したナイトメアダークは触れたら死んでしまうのではなかったの? じゃあ、なんで僕らは生きてられているの?
「カイ……少し落ち着いて、私に説明をさせてくれないか」
ルアンは困ったように鼻を鳴らす。
「確かにここはNDの中だが、私がほどんどの波導を引き払ってここにバリアを作り上げている。あのまま君が波導を放出していればNDに捕われる前に死んでしまっていただろう」
「え、それって……」
――君は、頑張った。本当に、よく頑張った――。
あれって、僕に“もういいよ”って意味で言った事には変わりないけど、諦めようってことじゃなくて、僕をこのバリアで守るためだったの……?
僕がルアンの言おうとしている事に気づいて、彼はフッと微笑した。
「結局、“命の宝玉”も破壊し損ねて余ってしまった波導だ。君を守るために使わずしていつ使う?」
少しだけ寂しそうにそう言った。彼は、本当に気の毒だ。数千年前も、今も、結局“英雄”としての使命を果たせなかったんだ。
「だが、君と出会えた事に後悔はしていないし、この時代で宝玉を壊せなかった事にも後悔はしていない。今の私にとっては、英雄としての使命よりも、君というかけがえのない友を守る方がよほど大切なんだ」
かけがえの無い、友……。
「私がこうしてカイと話をしていられるのは、助かったとはいえここがナイトメアダークという“悪夢”の中にいるからだ。ダークライの置き土産と言ったところか、ここは夢と現の狭間なのかもしれないな」
今日のルアンは表情がころころと変わって新鮮だった。いつも僕の頭の中でアドバイスをくれたり支えてくれていたけど、こうやって彼の表情を見る事は今まで出来なかった。
「……カイ、落ち着いて聞いてほしい」
と、ここになって彼はいつになく真剣な声音と表情で僕を見た。その眼差しに、なにか僕は胸騒ぎを覚える。どうしてだろう、この先を、聞きたいような聞きたくないような……。
「私の波導でこの空間を保ってはいるが、そう長くは持たない。だから――」
ルアンは、僕の肩を両手で掴む。
「――カイ、私の残った波導全てを使って、君をここから脱出させる」
「え……」
残った波導を、全て……。
「そんなことしたら、ルアン……君が、消えちゃうじゃないか……」
「元々私は、とうの昔に死んだ身だ。それに、“命の宝玉”を壊していればどのみち消滅している運命だった。結局何をするかが変わっただけで、私がここで消滅する事に変わりはない。それに、夢の中なら君の体に負担もかからないだろう」
ルアンが、すこしだけ自嘲気味に言って、そして吐息を吐く。それが、ルアンの運命だったとしても、それはあまりにも残酷すぎる。そして、あまりにも独りよがりすぎる。僕に考える余地を与えてくれないなんて!
「いやだよッ!」
僕は、ルアンの肩を手で振り払った。
「ここまできて……ここまできて、誰かが死ななきゃ行けないなんて、やだよ! 一緒にここを出る方法を考えようよ! 諦めちゃ駄目だよ!」
「カイ……二人一緒にここを出る事はできない。そして、ここから抜け出すすべを持つのは私だけだ。君にはそれが出来ない」
「だけどっ……!」
涙があふれる。目をつぶって、下を向いて。肩をいからせて叫ぶけど、その後の言葉はどうしても思い浮かばなかった。
闇が唸りを上げる。ルアンのバリアを押さえ込む。低く唸るような音が僕らの間に響いた。
「カイ」
ルアンは、いつもと同じ抑揚で僕の名を呼ぶ。
「私はもう、とうの昔の時代に生を全うするはずだった存在だ。本来ならこの時代にいてはいけない存在だ。だが君はこの時代に生まれ、たくさんの仲間がいる。君の帰りを待っている者がいる。君は、この時代の者に必要とされている。ギルドの仲間、そして、スバルがいる……」
彼は片膝をついて、俯いた僕をしたから覗き込んだ。
「君は、帰らなければならない」
「それは……ッ、ルアンも同じでしょッ!?」
ありったけの声で。怒りにまかせて、わがままに任せて。僕は叫んだ。
「僕だってルアンの友達だッ! ルアンはこの時代のポケモンじゃないかもしれないけど……僕は、君がいなくなったらやだよッ! それはきっと、スバルや、みんなだって同じだよッ!! 君を犠牲にして戻りたくなんか無いよッッ!! だから――」
「――もう疲れたんだッ!!」
ビクッ!
僕は、信じられない気持ちで……耳をつんざく彼の叫びを聞いた。しばらく、言葉を紡げなかった。彼がこんなにも、自分の感情を露にして叫ぶ様を、僕は見た事が無かった。
肩を震わせて驚いて、僕はやっとまともにルアンの顔を見た。彼は、とても一言では言い表せないような眼差しを、僕に向けていた。赤い双眸が悲しげに僕を映していた。
「カイ……私は、もう眠りたい……。私が生きた時代の大切な者たちと、安らかに眠りたいんだよ……」
「……」
それは、自分からわがままを言わないルアンの、初めての懇願だった。僕の友達の、心からの頼み事だった。
大切な人と、安らかに……。
「私は、死ぬ前の最後に……せめて君は助けたい。せめてこの時代の大切な者は救いたい。そう思ってはいけないのか? 何も成し遂げられなかった私に、さらにこの時代で生きながらえろというのか?」
僕はそのとき、悟った。ルアンのその願いと決意は、僕が何を言っても変わることは無いと言う事に……。
「……ううっ……!」
また、涙が出てきた。
もう、ルアンには会えない。
これが、最後だ。
最後のお別れなんだ……。
「カイ……」
「うわぁあああ……!」
「カイ、泣くな……」
ルアンの声も、震えていた。僕は涙でまともに目を開けていられなかったけど、そのとき、きっとルアンも……。
「これ以上長引けば、もっと別れがつらくなるぞ」
ルアンは、僕にそう言ったのか、それとも自分自身にそう言い聞かせたのか。その言葉の後に、僕の体は光に包まれた。
この波導は、僕を包み込むこの力は、確かにルアンの波導だった。
「ルアン……ルアン……ッ!」
どんどん、僕の体が薄くなっていく。僕は、手を伸ばす。ルアンも、同じように手を伸ばして、僕らは手を重ね合わせた。
「ありがと……! ありがとう……ッ!」
彼の目から、一筋の涙が流れた。
「生きろ、カイ――」
★
カイが、消えた。
それと同時に、ルアンは全身の力が抜けて立っていられなくなり、気づけば闇の中に横たわっていた。
ルアンの体が、だんだんと薄くなっていく。
波導を使い果たし、死が、足下に近づいてくる。
だが彼は、不思議と恐怖を感じなかった。満たされた気持ちでいっぱいだった。
――彼は、無事に仲間の元へと戻っていっただろうか。
自分の生きてきた軌跡を一つ一つたどるように思い浮かべていると、自然と涙が出てきた。
つらい運命の元に生きた。リンを失ったかつてのカイのように、親は早くに自分の元を離れ、当ても無いままさまよい、図らずも波乱に巻き込まれ……死ぬはずの瞬間に、波導だけ現世にとどめられて、長い時をさまよい……そして、カイに出会った。
つらい運命だったが、決して悪い人生ではなかった。
そして、かけがえの無い友には、そんな自分の分以上に、強く生きてほしいと願った。
「……」
消える前に、もう一度だけうっすらとめを開けてみる。と、そこに、何か小さな暖かい光が、舞い降りてきた。
ずっと、ずっと昔に感じた事のある、とても優しく、懐かしい波導の光だ。
思わずルアンは、小さな光に手を伸ばす。
「……ずっと、私を待っていてくれたのか……」
伸ばした手でその光を包み込むと、彼は最後の一振りの力で、その拳を胸に押し当てた。
そして――。
「やっと会えた……エク――」
今日も、日が昇る。
スバルはギルドの前に立ち、トレジャータウンに朝日が昇る瞬間を眺めていた。
大切な存在がいなくなって一夜明けた今日も、いつものような朝を迎える。
「カイ……」
眠れなくて、もしかしたらひょっこり、カイがここに現れてくれると思って、スバルはここにきてみたが。
もちろん、そこには誰もいなかった。
自然と、涙がこぼれていた。胸が締め付けられるようだった。これから、彼なしでどうやって生きていけば良いのか、途方に暮れた。
「会いたいよ……ッ、カイ……」
そして、スバルは俯く。目の縁から溢れ出した涙が、地面を濡らしていく。
その時。
「――笑って」
聞くはずの無い声が響いた。
誰よりも聞きたかった声が響いた。スバルは、信じられない気持ちで、目を開いた。うつむいたせいで落としている自分の陰に、もう一つの陰が重なっている。
バッと、彼女は顔を上げる。喉が詰まる。言葉を紡げなくなる。
「……っ、ほんと……ほんとに……ッ!?」
確かに、そこには――。
「――ただいま、スバル」
カイの姿が、そこにはあった。
スバルは両手を口に当てた。涙が、あふれて止まらなくなった。
そして、二人を隔てている一歩を、踏み出す。駆け出す。
「――おかえり……カイッ!」