第百七十一話 記憶の欠片
――ゾクッ。
「……え……」
駆け出そうとした僕の背後で……なにか、とてつもなく。とてつもなく不気味な気配を感じ取った。立ち止まった僕は、恐る恐る背後を振り返る。
振り向きたくなかった。でも、振り向かずには無事にいられないと本能が警鐘を鳴らした。
僕の背後には、丁度。ぐったりと倒れて気を失っている……ダークライの姿。だが、地面に倒れた奴の体から、何か得体の知れない黒いオーラが、今にも爆発せんとばかりに漂っていて……!?
「みんな――」
僕は、信じられない気持ちで仲間たちを見た。そうして初めて、彼らも気づいた。
だが、遅かった。
「――逃げろッ!!」
ふくれた闇が、爆発した――。
「くッ!?」
「「きゃあッ!」」
「うおわッ!」
ブワッ!!
ダークライの体を触媒として肥大した黒い闇が、一気に膨張してこの場を漆黒に埋め尽くさんとこちらに押し寄せた! 彼らはいきなりのことに叫び声を上げてかがみ込む!!
「……」
「………」
「…………」
結果的に、闇が僕の仲間たちを覆い尽くすことは――なかった。数秒経っても何も体に異変が無い事を可笑しく思った彼らは、各々かが見込んだ姿勢を解く。なぜ、闇が襲って来なかったのか、それは――。
「! カイッ!」
「ぐぅううッ!」
――僕とルアンが、波導で闇を押さえ込んでいたからだ!
「み、みんな……にげてッ!」
霧のような黒い闇は、僕らの張った波導のバリアの手前……このフロアの半分ほどをすでに覆い尽くしている。いったい……いったいこれは何が起こっているって言うんだ!
『この気配……ナイトメアダークかッ!?』
ルアン! どういうこと!? NDはダークライが操っていたじゃないか! 奴が気を失っている今、どうして勝手に……!
『ポケモンの魂は膨大すぎるエネルギーだ! 私たちがダークライを倒した事で……弱った奴ですらその力を押さえきれなくなったに違いない!』
ズズズ……。
「ぐぅッ……!」
そう言っている間に、ふくれあがろうとするエネルギーが、波導の壁を破ろうとものすごい力で押し込んでくる。
『ふくれあがった闇のエネルギーが、現実の物や生物ですら闇へと引きずり込もうとしているッ! 大きさからして“運命の塔”は確実に覆い尽くす! あれに触れたら生きていられないぞ!』
な、なんだって……!? はやく、ここから脱出しないと! でも、いま波導の壁を解いたら僕らは飲み込まれる! 逃げる時間なんて無いよ……!
「カイ! 大丈夫かッ!?」
「くっそ! 何が起こってやがる!?」
シャナさんとルテアさんが声を張る。僕がバリアを解いたら、みんな飲み込まれる……。
「いったいなんなんですか!? これは!」
「ルアンが……ナイトメアダークが暴走したって! これに触れたら生きてはいられません! ぐわぁっ!?」
凄い力だ! 一瞬でも集中力を解けば、瞬く間にバリアが壊れる! 精一杯足を踏ん張っているのに、じりじりと僕の体が後退していく!
「み、みんなッ……はやく……ッ、早く逃げてください……ッ!」
「バカっ! カイッ! あなたも一緒に――」
――一緒に。
スバルの言葉が僕の耳に届いた瞬間……僕は、悟ってしまった。
僕が、仮にシャナさんのバッジでみんなと脱出しようとしたら、脱出光が僕らをワープさせるより先に、確実に全員を闇が飲み込む。だけど、僕が残りみんなが先にギルドへワープしたら、みんなは助かるけど僕の波導のバリアにいつか限界が来る。
つまり。
どうあがいても、全員が助かる道は――無い。
助かるとしたら、ゼロか、僕以外の全員。
「……ッ」
僕は、運命から逃れられたと思っていた。だけど、やはりその瞬間はやってきた。いや、むしろ少し筋書きが変わっただけで予定通りだ。
ズズズ……。全身の力を込めながらも押し返される僕の体。力の放出を続けていくのに、押し返すどころかどんどん体力が一方的に削られていく。
僕は、そんな体で……それでも、振り返った。
笑った。精一杯笑みを作った。
「……カイ……!?」
スバルの表情が、変わった。どうやら、僕が何を考えているのか察してしまったみたいだ。
「……逃げてください」
「カイさん、まさか……!」
ミーナさんが声を絞り出す。みんな、実はもうわかっているんだろう。僕がどうなるかということを。
「僕は、この闇を押しとどめる事で、精一杯です……ッ」
「バッジで、逃げられないのか!?」
そう言ったのはシャナさんだ。
「脱出光より闇が僕らを飲み込む方が早い……ッ! いまなら――僕がここで食い止めている今なら、みんな、無事にギルドへ戻れます……ッ、ぐうッ!」
『まだ、壊れるなよ……ッ!』
ルアンが、僕と一緒に波導を振り絞って踏ん張っている。
「っざけんなッ! てめぇを見捨てていけってのか! あぁッ!? てめぇもいっしょに……」
「無理だッ!!」
全ての波導と筋力を使っているせいで、汗がだらだらと出てきていた。全身がガクガクと震えていた。目を強くつぶらないと叫べなかった。
「長くは、持たない……ッ! 早く……ッ! 早く逃げろぉッ!」
お願い……! 僕の、命を……無駄にしないで……!
「……」
シャナさんが、今にもぶっ倒れてしまうんじゃないかって顔色で何かを葛藤していた。
「カイッ、カイーーッ!」
スバルが叫ぶ。僕の方に駆け寄ろうとする。だめだ、スバル! そう思った瞬間。
ひょいっ、と。スバルの体を軽々しく持ち上げた――シャナさんだった。
「し、師匠ッ! 何するんですか、はなしてッ! はなしてよッ!」
小さな拳で、シャナさんの腕を叩く。涙の飛沫が飛ぶ。だけど、決然とした顔のシャナさんが、俯いていた顔を上げたと同時に。
「――総員、脱出するぞッ!」
そう、叫んだ。
『!』
シャナさんを叩く、スバルの拳が止まった。ルテアさんの頭の血管が浮き出た。
「てん、めぇ――」
「――ルテアさん!」
だが、それを止めたのはミーナさんだった。鬼のような表情をその方に向けたルテアさんだったがミーナさんは、顔を横に振る。
「ここでみんな闇に飲まれてしまったら、カイさんの思いが無駄になります。それに――」
ミーナさんはシャナさんを見た。彼は、スバルを抱えながら、もう片方の手は血がにじむほど強く拳を握っている。リーダーとして、脱出を促す事がどれだけつらい役回りか……。歯を強く噛み締めるシャナさんに、ルテアさんは何も言えなくなったみたいだった。
そうだ、それでいい……。
「カイッ……ッ! カイぃッ……!」
スバルが泣きじゃくるその横で、シャナさんがバッジをかざす。僕は、振り返っていた状態から前を見る。上げたまま震える腕をどうにか維持する。
「スバル、“命の宝玉”……僕の代わりにちゃんと持ってるよね」
宝玉はトレジャーバッグの中に入れた。チームでバッグを共有しているから、スバルのバッグから取り出せるはず。
「さっき言った僕らの秘密……ギルドに帰ったら、君が、やるんだ」
振り向かずに、出来るだけ穏やかの声で言った。でも、駄目だ。踏ん張ってるせいで声が震えてる。
「やっと、やっと、二人一緒に……って、おもってたのにッ……! いやッ……! いやぁああッ!」
彼女の叫びが背中を叩く。多分、シャナさんがスバルを必死に抱えている事だろう。そして、そんなみんなを脱出光が包んだのは振り向かなくてもわかった。
「カイーッ! カイーーーーーッ!!」
喉がかれるような、悲痛な叫び。
「カ――」
その叫びが、消えた。
★
ゴゴゴゴ……。
闇は確実に僕らを押し返していた。いつかは、僕の体がフロアの先に押し付けられて、もうこの闇から逃げられなくなるだろう。いや、それよりも、僕らの力が尽きる方が、さきかもしれないな……。
いつ、諦めて波導の壁を解いてしまおうか……。
バッジで脱出した時点で、もう彼らがこの闇に――ナイトメアダークのなれ果てに命を吸い取られる事は無いのだから。僕はもう、踏ん張る理由なんて無いんだ。ただちょっと、もう少しだけ。生きている時間が欲しいだけだ……。
思えば僕の人生は、嵐のように唐突に訪れて、そして唐突に過ぎ去ろうとしている。
ヤド仙人、リンと一緒に、里で暮らしていたら、いきなり見た事も無いポケモンから襲われて。逃げ出した先で、スバルと出会って……。
ルテアさんや、シャナさんと出会って。“イーブル”と連盟との戦いに、否応無しに巻き込まれて。
ルアンという大きな存在に出会って。
隠れ里で死闘を繰り広げたり、ギルドで初めてのバトルをしたり。傷つくスバルを助けられなくて、初めて自分の無力さに泣いたり。修行をしたり。ローゼさんに衝撃の話を聞いたり。英雄祭に参加したり……。
リンを失って、絶望して……夢の中に閉じこもったり。スバルとルアンが助け出してくれたり。スバルを目の前で連れ去られて、初めて誰かを強く憎んだり……。
悲しい事。つらい事。憤った事。泣いた事。けんかした事。
楽しい事。嬉しい事。笑った事。誰かを、大切に思った事。
シャナさんとの稽古、きついけど楽しかったなぁ。勝手にギルドを飛び出して、ルテアさんに“アイアンテール”を食らったっけ。ウィントさんにグミを押し付けられて。ショウさんには小言を言われつつよく傷の手当をしてもらった。ローゼさんの鋭い推理にはいつも驚かされて、助けられた。彼は、最後には人を信じる事が出来るようになっていた。キースさんは変だな。でも、僕の知らないところでいつも助けてくれてたって、知ってたよ。リオナさんは、ちゃんとシャナさんとまたよりを戻せるかな……。あのむかつくフレデリック、今度はどこで女の子に言いよっているんだか。
ルアン。僕が体力が無いのは、君がいたせいだと思ったことが実はあった。だけど、君は僕に取ってかけがえの無い存在だ。いつも側で支えてくれた家族だ。僕は君の運命に巻き込まれて死する事になっても、今は君に感謝しか無いんだ。そして、君の運命とは関係なしに、いま命が消える瞬間も。その気持ちは変わらない。
スバル、出会った時から君には助けてもらいっぱなしだったね。傷を手当てしてもらって、追われる身だった僕に一緒に行こうと言ってくれた。それが、どれだけ嬉しかったか。二人で進んで、二人で探検して。僕は君の弱さを知って。そして君のおかげで僕は自分の弱さと向き合った。誰かを守りたいと、初めて強く思った。
君が傷ついたとき、弱い僕は一人の女の子を守る事すら出来ないちっぽけな存在だった。強くなろうと初めて思った。
君は悪夢が怖いと言った。ニンゲンだった頃の残酷な運命に翻弄されていた。元気で活発だった君が、初めて違う姿を見せた。でも、必死に前を向こうとしていた。僕と君は、一緒に強くなっていたんだよ。
僕は、君がいたから強くなれて。
大切な君を守っていこうと思えたんだ。
「……ううっ……」
あれ、おかしいな……。
「ううううっ……」
僕の思い起こす記憶の欠片の中には、君の姿がいっぱいあるよ……。気づけば、僕は君との記憶ばかり思い出してるや……。
君を思うと、なんだか胸の辺りがきゅっとして。いたいんだか、暖かいんだか。この気持ちがどういう物なのか、ずっと、わからないでいたのに……。
「スバ、ル……ッ!」
――僕は、君が好きだったんだ……。
涙が、止まらない。
今更、こんな僕の気持ちの正体に気づくなんて……。
「うううっ、うわぁ……!」
もう、会えないんだ……。
もう、スバルには会えないんだ……ッ!
僕は、死んじゃうんだ……!
会いたいよ……ッ! スバル……!
「会いたいよぉ……ッ!」
『……カイ……ッ』
すっ、と。踏ん張る僕の両手に、暖かい手が触れたような気がした。
ルアン……。
『君は、頑張った……。本当に、よく頑張った……』
だから、もう、いいよ。ルアンは、そう言っているような気がした。
――そうだね、もう、いいよね……。
僕は、力を抜いた。
――みんな、さよなら――。