第百六十六話 神の間
――僕とルアン、僕らの力を合わせても強大な力を持ったダークライには叶わなかった。僕は激痛を与えられ、そして“満月のオーブ”を粉々に砕かれた……! その上で、ダークライは僕に更なる絶望を与えようと“命の宝玉”を使う! まばゆい光に包まれて、僕らが再び目を開けると……。
★
まぶしさがようやく無くなって、僕は目を開けてみた。だけど、そこはもう先ほどまでいた“運命の塔”の最上階ではなかった。
ここは、どこだ……?
辺りは、まるで夜の星空のような、海の底のような、宇宙の彼方のような……。青く澄んだ不思議な空間に彩られていた。僕らはそこに“いる”というよりは、心だけここに連れてこられたような感覚がする。その証拠に、僕の体は浮いたようにふわふわしていたし、“命の宝玉”を発動した張本人であるダークライも、うちに潜めていた禍々しいオーラを、今は全身にまとわりつかせていた。多分、そのポケモンの心が、ここにはオーラとして見えるんだろう。ダークライの心は赤黒く、とても近寄りがたい雰囲気だった。
「ここが……“神の間”……」
神の、間……?
そう呟くダークライの声はトンネルの中みたいに空間にこだまする。神の間って、いったいなんなんだ? 宝玉に触れた瞬間、願いが叶う訳ではないのか?
と、その時。
『――余の眠りを覚ましたのは、誰ぞ』
「「!」」
僕らの脳内に直接語りかけるような、耳に響くも決して心地の悪くない、だが荘厳な声が上から降ってきた。僕とダークライは、同時に声のした方を見上げる。さっきまで、この空間には二人しかいなかったはずなのに……。
僕らの目の前に、佇む者がいた。
僕とダークライ、そのどちらの大きさよりも何倍も大きな存在だった。全身を覆っているのは白い肌。足は四本で、胴体には金色の輪っかを纏っている。
ポケモン……なのだろうか? だとしたら初めて見るポケモンだ。
目の前の存在に圧倒された僕は、言葉が咄嗟に出てこない。いや、出てこないんじゃない。僕は本能的に、この存在の前では声をうかつに出す事すら許されないのではないか、と思ってしまったんだ。全身から放たれる大きく包むような神々しい気。いったい誰かはわからないけど、多分、神と呼ばれるにふさわしいとしたらこういう存在なのだろう。それほどまでに、その気に僕は飲まれた。畏怖の念がわいた。
『もう一度問う、余の眠りを覚ましたのは誰ぞ?』
びりびり、と威圧が伝わってくる。半端な答えは許されない。と、ダークライはそんな存在の前にもひるまずに一歩前へ出た。僕には、この存在を目の前にしてどうしてこいつがいつも通り冷静でいられるのかちっともわからなかった。
「あなたの眠りを覚ましたのはこの私――ダークライ」
『ほう……。我が名はアルセウス。眠りとともにこの地を見守り続ける者』
白いポケモン――アルセウスは、目を細めてダークライを見た。ヤド仙人の持っていた本で見た事がある。たしか、全てを創造した神と呼ばれるポケモン……!
『余の眠りを覚まし者、ダークライよ。聞こう、そなたの願いは何ぞ?』
ダークライは、とんでもない悪人だ! 彼の願いを聞き届けてはいけない!! そう叫びたかったのに、僕は声を出せなかった。完全にひるんでいた。神と呼ばれるアルセウスの前では、僕の存在など塵と一緒だ。
「私の願い、それは――」
ダークライは、今まで低く厳かに声を出していた。なのに、その瞬間バッと両手を広げ、高らかに叫んだ。
「――アルセウス、貴様に代わり神になる事だァ! クハハハッ!!」
な、に……!?
ダークライの願いが……“神になる事”、だって……!?
「ダークライ……! いったい、何を企んでいるッ!?」
やっと、声が出た。僕の怒りが、アルセウスを前にしてひるんだ気持ちを上回った。すると、ダークライは気持ち悪いくらいに首だけを僕の方に向ける。
「言葉の通りさァ、カイ! 私は、神になる! そうすれば、君を絶望させる事も……いや、それだけじゃない、なにもかもが私の思いの通りだよォ! このときのために、私はカナメに五年間付き添っていたのだからァ!」
『ダークライよ、そなたは己の願いにどんな対価を差し出す?』
アルセウスは、ダークライがまさに自分と成り代わって神になろうとしているというのに、怒りも、憤りの感情も無く、ただ淡々とそう聞いた。まるで、感情が存在しないかのようだ。それが、神というものなのか……?
『そなたの対価が、己の願いに見合ったものであれば叶えよう』
「対価は……!」
ダークライは、僕らの目の前で、自分の体から黒いオーラを発した。そして、アルセウスとダークライとの間に、はち切れんばかりに脈動する黒い陰の塊が現れる。
「ナイトメアダークで集めた、大陸中のポケモンの魂!! ハハハッ! もやは、この大陸のほとんどの量が、この中に凝縮されている!」
どうだ、とダークライはアルセウスを見た。彼は、目を細めたまま何も言わなかった。対価が願いにふさわしいのか吟味しているかもしれない。でも、たくさんのポケモンの魂を犠牲にしてダークライは神になろうとしている……! まさか、まさか! そんな事が、許されるっていうのか!? そんなことで神になってしまう事が、許されるのか!?
『ダークライよ――』
アルセウスが、名前を呼んで次の言葉を発するまでが、僕にはとても長い時間に感じられた。そして。
『――この対価では、そなたの願いを叶える事は出来ぬ』
「……なに?」
ここにきて、ダークライは初めて嫌らしい笑い以外の感情を見せた。まるでアルセウスの言っている事が信じられない、という風に目を吊り上げる。
「なぜだ!? なぜこの対価では叶えられない!? ポケモンの魂だ! 生き物の命を差し出しているのだよッ! これでもまだ……こんなに集めたというのにまだ足りないのかァッ!?」
『この対価ではいくら量があっても叶える事は出来ぬ。神になるのであれば、この対価は間違っているのだ』
「貴様……ッ、貴様ァッ!! 貴様が神だからといって、自分に都合の悪い願いは取り下げるというのかァッ!?」
『神とは、感情を持つ生き物の信心あってこそ形作られる存在なのだ。ポケモンたちがその存在を忘れた時点で――神を信じる存在が消えた時点で、それはもう神ではない。哀れな陰の子よ……そんな信心の源であるポケモンの命を対価に差し出して、そなたは神になろうというのか?』
哀れ。そうだ。いまのダークライを一言で表すとしたら、その言葉だ。こんなに当たり前の事まだ気づいていないなんて。
他人の心を踏みにじって、何が神だ。
誰かの命をもてあそんで、何が神だ。
誰かの絶望を見て喜んで、何が神だ。
そんなものは、ただの驕りだッ!
「お、おぉおおお……!」
ダークライは頭を抱えた。フラフラと体を揺らす。彼を取り纏う赤黒いオーラが一気に乱れ、肥大していく。
「私は、認めない……! 認めないよぉおおおおアルセウスぅううううッ!」
『そなたが、願いに見合った対価を見つけてきたとき……また、余の元へ来るがよい』
アルセウスは、取り乱したダークライへ非情にそう告げると、全身をまばゆい光で包み込んだ。さきほど“命の宝玉”を包んだ光と同じものだった。
そう、アルセウスは問答無用で僕たちを送り返した。再びまぶしさで目が開けられなくなる。固く閉じた瞼の裏にまで強い光が差し込んできて頭がクラクラした。そして、まぶしさから解放されて再び目を開けると。
“運命の塔”最上階へと、僕らは再び戻っていた。
★
カナメに続き、ダークライの無謀な野望も打ち砕かれた。
“命の宝玉”は、宝玉自体が願いを叶えるのではなかった。願いを叶えてくれる創造神・アルセウスの元へ連れて行くためのアイテムだったのか……! 地面に倒れたまま僕は動けない。カナメは意識が無い。そして、ダークライは、命の宝玉を手に持ったままその場に佇み、沈黙していた。
「おぉ……おぉおおおお……」
いや、沈黙していたんじゃない。今のこの状況がどうにも受け入れられないのか、低いうなり声を上げ続けて頭を抱えていた。何かに苦しんでいるように見えるけど、多分自責の念というほど高尚な物じゃないだろう。叶えられもしない願いのためにここまで人を騙して、傷つけて、そして自分がそれに笑っていたダークライを、僕はやっぱり哀れみの感情でしか見る事が出来なかった。
“満月のオーブ”は、壊された。だが同時に、ダークライの願いもまた壊れた。願いを叶えるためにナイトメアダークで集めていたポケモンたちの魂は、もう持っていたところで何の意味も無さない。
もうダークライが、ポケモンたちを苦しめる理由は無い。
「……ダークライ!」
どうにか力を込めればしゃがむ事くらいは出来そうだった。全身が軋むように痛むけど、どうにか膝をついて僕はキッと彼を見据える。奴は僕の声なんか聞こえないんじゃないかって思ったけど、そんな事はどうでもよかった。
「ダークライ、今すぐナイトメアダークを止めるんだ! もう……こんな事してても何の意味も無い!」
「……」
「ダークライッ!!」
「おおぉ、あああああッ!! 黙れェッ!」
ダークライは声を裏返らせて叫んだ。そして頭を抱えていた両手の片方を振る! ザァッ!
「ぐ、うわぁああッ!」
“怪しい風”にも似た強い風にあおられて、僕はまた地面に倒れる。……くッ! もしかして、ダークライの願いは叶わなくても、状況が最悪な事は何一つ変わっていないかもしれない!
「黙れ、黙れェ! ナイトメアダークは……私だけの力なんだよォ! ダークライの中でもッ、私だけが扱える……特別な! 生命を取り込めば取り込むほど強くなる特別な力だァ!」
ダークライは狂ったように叫んでいた。今の奴の力は強大すぎた。ダークライの怒りの感情がそのまま陰の力の余波として黒い風をこちらになびかせている。少し取り乱しただけでこれだけの強大な力があふれるなんて、ナイトメアダークの力は、もう僕らの手には……!
「アルセウスッ! アルセウスゥウッ! あいつのせいで! あいつのせいでッ! 私は! この力で、神になるはずだったというのにィ!! この力があれば……! 世界をも――」
――ニタリ。
背筋に悪寒が走った。あれほど取り乱していたはずの、ダークライが……。
――笑った……?
「クククッ……クハハハッ!! そうだ、そうだよォ……! なにも、“命の宝玉”などというものに頼らずとも!」
カラン、と。ダークライの手から“命の宝玉”が落ちて床に転がった。どういうことだ。いったい、こいつは何を考えている!?
ダークライは哄笑した。両手を天へと伸ばし、狂ったように笑った。そして……。
「ナイトメアダークで世界を覆えばいい……!」
「な、に……!?」
全世界の……この大陸中のポケモンたちの魂を吸い取って自分の物にするつもりか!?
「そうだ! そうすれば私は神だ! 私が全ての命を握る! 誰も私の力に逆らえなくなるよォ!」
「何を考えているんだッ!? 正気か、ダークライッ!」
この世界のポケモン全員の魂が抜かれたら……! そんなもの、死者の世界と一緒じゃないかッ!
そんなことが……そんなことがあってたまるもんか!
『ぐ……カイッ!』
と、長い間聞こえてこなかった声が、僕の脳内に響く。
ルアン! 気がついたの!?
『すまない、しばらく気を失っていた……! 無事か!?』
正直言って、大丈夫じゃない。怪我もひどいし、正直意識を保っている自分がいる事を不思議に思っているくらいだ。だけど……立たなきゃ。
いまここで、ダークライを止めなかったら。ギルドのみんなや、探検隊の仲間。シャナさんも、ルテアさんも。里にいるヤド仙人も……そして、スバルも――。
みんなみんな、もし魂を抜かれてしまったら。
さっき、死者の世界と同じだと言ったけれど、そんなこと……死ぬよりももっと恐ろしい事だ!
立たなきゃ。立たなきゃ……! 立たなきゃ……!
「止めなきゃ……」
もう一度手を膝の皿に乗せる。膝を押して、足の裏でぐっと地面を押す。全身に力を込めて立ち上がる。
「ダークライを、止めなきゃ……!」
『カイ……!』
シャナさんは、バトルの稽古中に教えてくれた。自分より圧倒的に強い相手が目の前に現れても、背中を向けてはいけない時があると!
「キャハハハハッ! 今何と言ったァ? 私を止めるゥ? カナメにすら手も足も出なかった君がかァ、カイィッ!」
ルテアさんが教えてくれた。相手がどんなに強くても、自分の持っている信念は決して曲げてはならない事を!
「ナイトメアダークを手にした私に、勝てるとでもォ!? クハハハッ!」
ダークライは強い。でも、僕はみんなを守りたい! だから――。
「そうだ。僕が、ダークライを止める」
『――独りではない』
「!」
『“満月のオーブ”が砕かれてしまった今……彼奴を止めぬことには死んでも死に切れやしない!』
そうだ。僕には、ルアンがついている。
僕は構えを取った。そして、高笑いをしながらこちらを見下ろすダークライを睨む。
「ダークライ、お前を――」
『ダークライ、貴様を――』
――僕らが、止める。