第百五十二話 笑って
――流浪探偵は言った。次に“イーブル”と戦うそのときが、彼らと僕ら連盟との最終決戦になることだろう、と。その戦いの時が来るまで力を蓄えておくようにと告げられたのを最後に、煮えきらないまま連盟のメンバーはその場を解散となってしまった。
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ギルドの三階で全てを説明し終えた後も、スバルは落ち着くことが出来なかった。
彼女の心は揺れ動いていた。思い出した過去の記憶をさらに改めて辿っていくと、カナメという人間のことが頭から離れなくなる。
カナメは、かなり特殊な生い立ちをしていた。彼はとても若いながら、ポケモンと対等に渡り合えるほど強い軍人だった。それこそ、“人間凶器”と呼ばれるほどまでに。スバルが初めて会ったときカナメは、その軍から退役したばかりであった。
人を傷つけることしか教え込まれなかったカナメは、だが自分にはとても不器用な優しさを向けた。その真っ直ぐな眼差し、一直線にスバルを守ろうとする姿勢、いつも前に立ち、自分を守ろうとしたその背中。
果たして、アブソルとなった彼は今もそのままでいるのだろうか。少なからず惹かれていた彼の面影は、まだ残っているのだろうか……。
――すまない……。
“氷柱の森”で、彼は謝っていた。人の道を踏み外しているとわかっていながら、スバルともう一度会うことを渇望した。
なのに、自分を殺そうとした。ピカチュウになっていたとはいえ魂を抜こうとしているのがスバル本人であると気づけなかった。
依存、というローゼの言葉の切れ端が、強くスバルの頭の中に残っている。
――いったい、誰を信じればいい?
「私は、どうすれば……」
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カナメは全てを語り終え、長く長いため息をついた。その姿を肩からの重荷をおろした安堵のようにも見えたし、逆にこんな愚かなことのために部下を操った自分へ責任を肩に背負ったようにも見えた。そして、失望にも近いうつろなまなざしをした“イーブル”のボスは言う。
「……これでわかっただろう、何のために私が諸君を動かしていたのか。全て私利私欲のためだ。大切な誰かをよみがえらせたいといいう気持ちは誰にでもあるのに、私はそれに耐えられずにこんなことを犯し、君たちを犯罪者にしたのだ。大いなる野望とはよく言ったものよ」
四本柱は誰も声を発しない。
「……命の宝玉は手元にある。本当ならNDを対価として様々な願いを叶えることが出来るだろう。だが、私の願いは絶たれた。蘇らせようとした者は死んではいなかった。無い物ねだりで多大なる犠牲を出したのだ。もう、連盟と戦う理由は無くなった」
カナメは立ち上がる。マントがなびいた。背を向ける。だが、その背もどこか哀愁のような者が漂っている。
「失望しただろう。……去りたい者は去るのだ。怒りに震えている者は私を殺すがいい。先ほども言ったが、私に諸君を止める権利は無い。何も言わない。言えないのだ――」
「――あたくしは、ここを去りなどいたしませんわ」
気丈そう放たれた声に、カナメは目を見開いた。そして、声の主――ジャローダのミケーネの方を見る。
「没落した我がロイヤル家。そのたった一人の末裔であるあたくしを……他の貴族に強いたげられながら暮らしていたあたくしを救ってくださったのは、他でもなくあなたですもの」
「ミケーネ……」
ジャローダはほんの少し恥じらうように顔を赤らめていた。カナメがそんな忠心深い部下を見て、感慨深く声をあげる。
「――僕もだわさ」
ミケーネばかりに良い姿を見せられない、とばかりにランクルスのラピスが眠気と戦いながら声を出す。
「ボスは、エスパーの力が強すぎるだけで家族に捨てられた僕に、居場所をくれたんだわさ。力を振るえる“イーブル”という場所と自由をくれたんだわさ」
「ぐへへへ、ぼくちんも同じ理由かなァ!」
立て続けにダストダスのポードンも奇妙な声と共に言葉を紡ぐ。
「ぼくちんの性癖は気持ち悪いって言って、だぁれも近づいてこない。だけどボスは、ぼくちんの能力を見てくれた。“イーブル”で好きなように暴れさせてくれた、ぐへへへ。こんなに嬉しいことはないねェ、ぐへへェ」
三人がそういい終えると、彼らの視線は一斉に最後の一人、四本柱最強を誇るエルレイド――エルザへと向けられた。彼はその視線を受け、静かに膝を折る。
「五年前に助けてもらったこの命は、何があろうとボスへ捧げると誓った」
恭しく、エルザは頭を垂れて言った。エルレイドのその行動は、主人に対する最大の忠誠の証であった。
四本柱が言う。
「カナメ様はいつでも目的のためにひた走るお方ですわ。あなた様の大事な者を蘇らせる必要が無くなった今なら、あなた様はどんな願いもかなえられます」
「ぐへへ。欲しいものも願えば全部手に入る!」
「世界すらも手に入れられるだわさ」
「……俺たち“イーブル”は続いていく。これからも。それの邪魔をする奴がいるのなら、やることは一つだ」
カナメの瞳は、静かに揺れ動いていた。彼の鉄の心が初めて揺さぶられた。自分はいつの間に、こんなに素晴らしい部下をもっていたのか。嬉しいと思うと同時に、こんなに有能な四本柱を自らの目的のために“悪行”へと走らせてしまったことへ、今さらながら深い罪悪感を覚えた。
「……ありがとう」
だが、もう戻れない。ならばそれが正義とは逆の方向でも、もう前に進むしか彼らと自分の道はないのだ。カナメは心を落ち着かせるように一瞬目を閉じ、再び赤い目を光らせた。
「……そうだ、一度手を付けたものには、決着をつけねばなるまい」
全員が全員、うなずき合った。今まで団結らしき仕草を見せたことが無かった“イーブル”が、全く同じ目的のために一つになる瞬間であった。
“イーブル”を倒そうとする敵――連盟を、倒す。
★
三階で彼らの全てを聞いたあと、僕とスバルは無言で自分の部屋に向かっている。その間に会話なんて無かった。だって、スバルがどうにも重苦しい空気を辺りへ醸し出しているから、僕から声をかけるなんてとても出来そうになかったんだ。
僕はスバルを見る。彼女はうつむいている。
スバルが心を取り戻してもまだ笑ってくれないのは、やはり“イーブル”のボス――カナメの存在があるからなのだろうか。
僕がそんなことを考えていた矢先、スバルはうつむいたまま、僕よりも一歩前に踏み込んで、そして立ち止まった。そして、自分を抱くように両手を組む。その手と、肩と……全身が震えていた。
「スバル……」
大丈夫? とは聞けなかった。大丈夫な訳が無い。先ほど聞いた話じゃ、“イーブル”のボスはスバルが人間だった頃、それこそ唯一の心のよりどころというほどに信頼していた相手だったんだ。
僕は、背中を向けて表情が見えないスバルの肩へ手を置く。それがきっかけになったんだろうか。スバルの肩が小刻みに震えて、静かな嗚咽が聞こえてきた。
「……カナメは、もう……私の知っているカナメじゃない……」
そして、小さくそう呟く。
「……」
「私の知っているカナメは、罪の無い誰かをNDで傷つけるような人じゃなかった。カイやルアンを苦しめる人じゃなかった。氷柱の森で、ピカチュウになった私のことを気づけない人じゃなかった……。なのに、なのに……」
「……」
そう、か。
そうだ。スバルがニンゲンだった頃。誰よりも頼りにして、心のよりどころにしてきたのがカナメというニンゲンだったはずなのに。あろうことか、彼はダークライ越しにとはいえスバルの記憶をこじ開けて、そして果てには氷柱の森で精神を崩壊させたんだ。
カナメのことを信じていたスバルにとって、それがどれほどの苦しみか。どれほどつらいことか。
もうスバルは、もしかしたら誰を信じればいいのか――僕ですらも、誰も信じられない状態なのかもしれない。
「スバル……」
『君はこれから、周囲に自分が死ぬということを告げるのか、それとも隠しておくのかな、と思って――』
そう、僕は決めなければならない。僕らが“命の宝玉”を壊したとき――“イーブル”との決着がついたとき、僕がこの世にいないということを。
キースさんに言われてから、実は心の奥底でずっと考えていたんだ。スバルに、その事実を言おうか言うまいかを。だけどこの間、“氷柱の森”へ行ったりスバルが記憶をなくしたりとばたばたしていて、いつのまにかこの問題を先延ばしにしてしまっていた。
今ここで僕が死ぬ運命にあることを告げてしまえば、スバルは悲しむ。もしかしたら“イーブル”と戦わないでくれ、“命の宝玉”を壊さないでくれと懇願するかもしれない。だけど、そのまま言わないでおけば、スバルからすれば僕が死ぬことはとても突然のことになる。それは、今までに多くのものを失ったスバルに取ってはあまりにも酷なことだ。何の心の準備もなしに、また彼女は一人になってしまう。
『――例え現実の世界に彼女がいなくても、あなたと過ごした日々がちゃんとある。ちゃんとあなたの中で生きてる! そして私たちに教えてくれれば、みんなの中で生き続けるの!』
もちろん、スバルが夢の中で言ったあの言葉のように、僕は死んだとしても本当の意味では彼女は一人にはならない。スバルが僕を忘れない限り、僕は生き続けるんだ。僕は彼女自身が放ったその言葉を信じているんだ。それに、僕がいなくなった世界でもギルドのみんながいる。ルテアさんも、シャナさんも。
だが。
スバルは、孤独だ。
記憶を失い、能力に翻弄されながら。それでも弱さを隠して生きてきた。僕にしかそれをみせなかった。だが、やっと記憶が戻って、ニンゲンだった頃の大切な存在――カナメのことを思い出したのにも関わらず、あろうことかそのカナメ自身が、“氷柱の森”でスバルを亡き者にしようとしたんだ。
スバルは、裏切られた。大切な存在に。
なのにいま、僕が“命の宝玉”を壊したら死ぬ、と言ったらどうなるんだろう。ルアンも僕も、いっぺんにいなくなると知ったら、ただでさえ孤独を知ったスバルはどうなってしまうだろう。
――せっかく、心を取り戻したのに。僕へ笑ってくれなくなるんじゃないのか?
「……記憶を取り戻して、人間だった頃のカナメが頭から離れないの。とっても大切で、それでいて……。でも、今は違う。もう彼を信じられないの」
スバルは、さっきよりも強い嗚咽を交えながら僕にそう訴え、こちらを向く。その瞬間に、彼女の目からあふれていた涙の雫が飛んだ。
「カイ……ッ! カイは、私の心を取り戻してくれて……私のことを信じていてくれて……!」
そして彼女は、ギュッと僕を抱きしめて、おでこを僕の肩に置いた。
「もう……! 誰も私の前からいなくならないで……! カイっ……! あなたは、私のそばにっ……! そばに……!」
心が締め付けられる。胃が嫌に引き絞られる感覚だ。
やめて、泣かないで。お願いだよ。僕は、君の明るい顔を出来るだけ多く目に焼き付けておきたいのに。
僕がいなくなった後も、ずっと笑って過ごしてもらいたいのに。
『君はこれから――』
キースさん、僕は……。
『自分が死ぬということを――』
スバルを、もう泣かせたくないんだ。笑ってほしいんだ。僕の残りの時間を、彼女の笑顔を見ながら過ごしたいんだ。
『告げるのか、それとも――』
もし言ったら、彼女は笑ってくれなくなるかもしれない。だから、僕は。
「スバル、僕は……」
僕は、スバルの背中に手を回して強く抱き返した。それに呼応するかのように、スバルの泣く声が、大きくなる。
「カイ……! カイっ……!」
「僕はどこへも行かない。僕は君を信じ続ける。ずっとそばにいるよ。だから――」
――笑って。
「笑顔を見せて、スバル」
僕は、スバルの両肩を持って、彼女の表情が見えるように軽く体を離した。彼女はひっく、といいながらも目のしずくを両手で払い、口角をちょっぴりとだけ上げて笑おうとする。
そのぎこちない姿さえも、僕にとっては日だまりのような暖かさを持っていた。スバルが笑ってくれるだけで、なんだか全てが救われたような気になった。運命からも、これから起こるどんなつらさからも。
僕が消えるその瞬間まで、この笑顔を守っていきたい。そう本気で思ったんだ――。