第百五十話 スバルの記憶
――夕日を見たとき、スバルはずっとぼろぼろと涙を流していた。もしかして、全部を思い出してくれたんじゃないかと僕は期待していたんだけど、ギルドに帰ってもスバルはずっとふさぎ込んだままだった。やっぱり、そう簡単にうまくは行かないよね……。
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ギルドに帰った後、僕が話しかけても何も言葉を発そうとしないスバルを部屋に置いて、僕は食堂から二人分の食事をとりにいっていた。
やっぱり、スバルを外へ出すのは早すぎたのかな……。手応えは確かにあったかと思ったのに、やっぱり僕は焦っているのかな。そんなことはない、と否定したくても、どこか僕は今しようとしていることはエゴなんじゃないかって思ってくる。自分のエゴのために、焦っていると。
スバルにとって、このまま何も思い出さない方が幸せなんじゃないか……。
そう思うと、僕のしていることは間違っているのかもしれない。でも、だとしたら、それがまちがっているとしたら、これから僕はどうすればいいんだ……!
そんなことを悶々と考えているといつの間にか部屋にたどり着いた。入り口をくぐると……。
「スバル、ご飯持ってき――」
部屋の中が……空っぽだった。
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下宿ではローゼとカンナが向かい合って夕食をとっていた。いろんなポケモンが同じ屋根の下で過ごす構造となっている下宿なのだが、ほとんどのポケモンは彼らとは生活のペースが違う。正直、ローゼが顔を突き合わせるポケモン、つまり同じ生活サイクルのポケモンはカンナしかいないのだ。それにカンナに関しては、たとえ同じ生活サイクルのポケモンがいたとしても、極度な人見知りのせいで仲良く食事することはかなわないだろう。
「……ん?」
ふと、いつもならカンナが一食分を口にし終わる間に彼の何倍もの量を休みも無く平らげるローゼが、ぴたりと食事の手を止めた。カンナは、そんなルームメイトの様子に驚愕に近いものを感じた。
「ろ、ローゼぇ……? ど、どうしたの?」
「……こんな時間に、珍しいですね……」
ローゼはカンナの言葉を無視して立ち上がる。これには彼は驚愕を通り越して恐怖の感情すら浮かんだ。あのローゼが、一度食べ物を口に付けたらそのすべてを鉄の胃袋に吸い込むローゼが、食事中に立ち上がっただって!?
「な、なななななに!? どうしたの!?」
「そんなに驚かなくても。下宿の扉の前に気配を感じただけですよ」
この下宿に、この時間帯で来客が訪れるなど今まで皆無だった。それに加えてつい数日前、ローゼはこの下宿へ“イーブル”のボスの侵入を許してしまっていた。なので、彼もここ数日はいつもよりあたりを警戒して神経を張りつめている。
「またあなたの身に危険が迫ってはわたくしもたまりませんからね、そこから動くんじゃありませんよカンナちゃん」
「ぼ、ぼぼぼ僕はオスです!」
ローゼは音を立てずに廊下を歩き、玄関にたってドアノブに手をかけた。利き手に冷気を込め“氷刀”を作り上げる。息を短く吐き、止める。そして彼は、強く扉を押し開け――。
「――ッ!?」
振り上げた氷刀は、扉の外の者を見た瞬間に空中で止まった。普段冷静なはずのローゼは、腕を振り上げたときにずれた見通し眼鏡の位置を直すことも忘れ、ただただ目の前の来訪者に驚愕するばかりであった。
「……スバル、さん……!?」
そう、扉の目の前にたっていたのはまぎれも無く、腫らした目に涙を浮かべているピカチュウ、スバルであった。彼は数秒してようやっと、氷刀を振り上げたまま硬直していた姿勢を解く。
「な、なぜこんなところへ一人で……!? あなたは確か――」
――記憶と感情を失っていたはず。
その言葉を言おうとした瞬間、スバルの浮かべた涙がぼろぼろとこぼれて激しく嗚咽するのを見て、彼は全てを察してしまった。
「あなた……まさか」
「ろ、ローゼさんっ……私、わた、しっ……! ぜんぶっ、全部思い出したんです……っ!」
「全部」
ピカチュウだけの頃でなく、人間だったときの記憶まで、全て――。
「私……カイに、どんな顔、すればいいのかっ……わからなくて……っ!」
「……あぁ、スバルさん……」
ローゼは脱力した。そうか、全てを思い出してしまったのか、と。万感をこめた口調でただただスバルの名を呼んだ。
だが、それも一瞬のことで、スバルを下宿の中へ入れるためローゼはすぐに彼女をエスコートする。
「……いやはや、あなたは誰にも、どこへ行くかも告げずに一人でここまで来てしまったのですねぇ。カイ君が血眼になってあなたを捜す様が容易に想像できますよ……」
★
ローゼは、カンナを一人でお使いに向かわせるのには気が引けたが、背に腹を変えられず、彼をギルドまで行かせることにした。ギルドが混乱に陥る前に、スバルが下宿にいることを知らせねばならないと思ったからだ。
――いや、既に混乱は必至ですか……。
ローゼが椅子に座らせたスバルは、涙と嗚咽がしばらく止まらなかった。そんな彼女へ、いつも自分が飲んでいる甘ったるい“モモンジュース”をコップへ注ぎ、差し出す。
「いま、カンナちゃんがギルドへ行っています。暫くしたら迎えが来るとは思いますが、あなたさえよければ今日はここで泊まっていくといいでしょう。気持ちの整理もかねて、ね」
スバルは首でうなずいて、コップを受け取る。そしてそれを口に付けたのと同時に、ローゼも椅子へ腰掛けた。
「全て、ということは……人間だった頃の記憶も、ですよね」
スバルは深呼吸をした後、「ええ」と答える。
「私のことも、母からたまたま受け継いだ“願い人”のことも……カナメのことも」
そしてスバルは、ローゼを見る。
「ヤイバさん……あなたのことも」
「ああ、それはよしましょう。ローゼでいいです。今まで通り」
ローゼはスバルの口から自分の名前が出て鳥肌が立った。今までローゼと呼ばれていたのに、いきなりその名で呼ばれると気持ちが悪い。
「まさか、ローゼさんがここで転生していただなんて……」
スバルにとって、ローゼ――つまりヤイバは、既に死した人間としてインプットされていた。改めてそれを思い出してみると、ローゼと会話していると言う事実がとても奇妙なことのように思えてくる。
「まぁ、それは置いておいて。今は、もっと別に重要なことがあるでしょう?」
「……そう、です。私、記憶を取り戻した後……カイと、どう接すればいいのかわからなくなって……」
「それはまた……なぜです?」
面と向かってローゼになぜと聞かれ、スバルはうつむいた。「なぜ」の答えがとても自分勝手なもので、罪悪感すらうっすらと覚えた。
「人間だった頃……いつも、私のそばにはカナメがいました。彼は私の大切な人でした。今のカイみたいな存在です」
口調が以前よりも大人びている、とローゼは感じた。今さらになって、やはりスバルはピカチュウになっても人間だった頃のスバルと同一人物だということへの現実味がわいた。
「私は記憶を失って、その後カイと出会って、疑いようも無く彼はかけがえの無い存在になりました。それは多分、あっちも同じです。でも……」
「記憶を取り戻したことで、カナメ君を思い出したことで……揺らいでしまったんですね?」
「……っ、ごめんなさいっ……!」
スバルの目から、また涙がこぼれた。
「カイは、私のために……とても、言葉では言い尽くせないほどたくさん私を助けてくれました。私が記憶も、感情を無くしても決して寂しい顔をしないで、一生懸命に助けてくれました……! なのに、私は……今、カナメがすごく恋しいんです。思い出してしまって、会いたくて……! だから、私……カイにどんな顔をすれば……!」
スバルの胸の中に、カナメとともに過ごした日々があふれてきた。
彼は一人だった。そして、自分も一人だった。そんなとき二人は出会って、カナメはスバルの“願い人”の力を知り、それを狙う組織からスバルを守り抜こうとした。何も無い空っぽな自分に、初めて守る者が出来たと言いながら。
“英雄祭”でふと思い出した景色――そう、母の墓石の前で涙する自分へ肩を貸してくれたのもカナメだった。そして、危険を冒してまで墓石の前へ連れて行ってくれたのも、カナメだった。
「スバルさん」
ローゼが静かに名を呼ぶ。スバルは顔を上げた。
「カイ君は、きっと……。あなたの今の気持ちを正直に言っても、笑ってそばにいてくれます。あなたが心の中で他の人のことを思っていたとしても、きっと変わらぬ態度で接してくれますよ」
「そんな……はずは」
――こんな、自分勝手な私のことを……。
「実に面白いことに、それがカイ君なのです。今までのあなたがどうであろうと、これからあなたがどう変わろうと、カイ君にとってはかけがえの無い“スバルさん”であることに変わりはないのです。でなかったら、記憶と感情の消えたあなたのことを、あんなに献身的にそばで支えようとしますか?」
スバル脳内で、カイの顔が浮かんだ。どんなときでも、疑いも無く自分を信じてくれたカイの姿。危険が起きたときに、真っ先に助けようとしてくれた姿。時にけんかもしたけれど、どんなときも変わらずスバルに向ける笑顔は決して絶やさなかった姿。
――そうだ、後ろめたいのは、私だけなんだ……。
「スバルさん、あなたはカナメ君が今どこにいるかわかりますか?」
「……“イーブル”の、ボスの……アブソル……」
ローゼはスバルのおそるおそる口にした答えに、大きくうなずく。
「カイ君と、カナメ君。どちらも大切でいいと思います。ですが彼は今、完全に道を踏み外しました。死んだと思い込んだあなたをよみがえらせるために、様々な犠牲をもたらしました。わたくしは……いえ、わたくしたちは、彼を止めるという義務があります」
「……私なんかのために……」
「正直に申し上げると、彼は……あなたのことを大切に思っているのか、それとも、ただ依存しないと生きていけないだけなのか、わたくしにはわかりかねる部分がありました」
「……依存……」
寂しげにつぶやくスバルの顔に、陰が差した。自分もカナメのことは大事だが、ローゼの言うことを否定できなかった。カナメは、今まで道を踏み外したことがなかった。いや、犯罪行為を“無茶”という形でやったことはあっても、本当の意味で道徳に反することは、今までにしたことがなかったのだ。しかし、今は違う。彼は自分と言う人間をよみがえらせるために、“イーブル”を作り上げた。
彼は、“イーブル”のボスなのだ。
――カナメ……道を踏み外してまで私と一緒にいなくても、あなたにはもっと別の生きる道があったはずよ……。
「ですから……いずれ、彼と会ったとき。そのときに、確認してごらんなさい。それから決めればいいのです。あなたがこれから、誰とともに歩んでいくのか」
ローゼは、全てが終わったときカイがこの世にいないことは口には出さなかった。それを彼女に告げることは、カイの口からするべきだと思った。ローゼはそう厳かに言った後、ふと明るい顔になる。
「それまでは、あなたのしたいようにカイ君と接すればいいのです」
ドンドンドンッ。
下宿の扉が強くたたかれた。その音を聞いたローゼはフッと笑って立ち上がる。
「どうやら、ナイトのお出ましのようです」
二人は玄関へ向かい、そしてローゼが扉を開ける。既に辺りは暗くなって風が冷たい。
そして、開けた扉の先には、息を切らしたリオルの姿があった……。
「っ……!」
「スバルッ!!」
カイは、言葉を詰まらせて口に手を当てるスバルへ、何のためらいもなしに飛び込み、強く抱きしめた。
「スバル……ッ! 僕の前からっ……また、君がいなくなっちゃったと思ったじゃないか……ッ!」
「ううッ……! カイっ……! ごめん、ごめんね……!」
「よかった……! 本当に、無事で……ッ!」
カイは、今まで我慢してきた涙を、ここで一気に流した。スバルもまた、抱きしめられながら涙を流した。
「……ローゼぇ、二人はどうしちゃったの?」
と、いつの間にか後から追いついたカンナが、ローゼの隣に立っておっかなびっくりそう聞く。するとローゼは、眼鏡を中指でくいっと押し上げてしみじみと呟いた。
「いやはや、愛ですねぇ……」