第百四十九話 心
――ナイトメアダークはまだ消えていない。だけど、“満月のオーブ”は完成に近づいているし“イーブル”も今は鳴りを潜めている。トレジャータウンが平和な日々が送れるこの間が、スバルが心を取り戻せるチャンスなんだ……。
★
「ぐッ……あぁッ……!」
夜中。全身に伝わる激痛で目が覚めた。だけど、目が覚めたっていうのは意識が覚醒しただけだ。実際のところ今の僕は、目を強く閉じ寝床へうつぶせになって、藁を強く手で握ってる。
痛い……!
身が引き裂かれそうだ。いや、身体が焼け付いてしまいそうだ。魂がどこかに飛んでいきそうな痛みとも言える。よくわからない。言葉にうまく表せそうにない。脂汗で濡れた全身の毛が重かった。
この痛みの正体が漠然とわかった。多分、本格的に僕の体にガタが来てる。
ポケモンは本来なら一つの体に入れられる魂は一つ。だが僕は自分の魂に加えてルアンの魂を体に抱えている。それで体が何ともない方がおかしい。キースさんの治療でどうにかこの数日はそれをごまかしてきたけど、どうやらそれもそろそろ効かなくなっているらしい。
横で寝ているスバルを怖がらせたくない。そう思ってどうにか声を押し殺しているのに、それすらもかなわないほどの強い痛みが僕を襲った。
「ああぁッ……! はぁっ……はぁ……!」
そして、ひときわ強い痛みの後に、いきなりそれは急速に引いていった。息が荒い。喉がカラカラになって、目が回る。混濁していた意識がやっとどうにか正常に戻ってきた。
うつぶせの姿勢から顔だけ横に向けると、穏やかな顔のスバルが静かに寝息を立てている。数日前までは怖くてうまく寝付けないほど心の傷が深かったのに、やっとのことでここまで来たんだ。
痛いのは嫌だ……。本当は、今にも逃げ出してしまいたい。怖いんだ。僕は臆病なんだ。
でも、スバルが横にいる。彼女もきっと心の痛みに耐えている。そんなスバルがつらさを忘れて安らかな顔で眠っているのを見ると、体の痛みもきっとどこかへ飛んでいく。
僕の体が壊れるのが先か。スバルが心を取り戻すのが先か。それとも、僕が命の宝玉を壊すのが先か。
僕には、時間がない……。けど、もう少しだけ持ってくれ……。スバルが記憶と心を取り戻すまで持ってくれ……。
せめて、僕がいなくなった世界で彼女が幸せに暮らせるように――。
★
――カイ君は、いつも“笑顔”というもの以外、私へ表情を見せることがない。
スバルの記憶が始まって、さらに数日がたった。相変わらずリオルのカイは、外の世界に触れようとせず部屋に閉じこもっているスバルに、ボディーガードのようにくっついている。
そしていつも、ニコニコしている。不思議に思ったスバルがその顔に触れてみると、彼はそれを“笑顔”だと教えてくれた。
「え、がお……?」
「そう。うれしいとき、幸せなとき、楽しいときにする表情なんだ」
「君は今……うれしいの?」
「……」
スバルの質問にカイは一瞬沈黙した。何か変な問いかけをしただろうか。スバルはぼんやりとそんなことを考える。
「うーん、えっとね。笑顔ってもう一つあってね。つらいとき、悲しいとき。そういうときに笑顔を作るといつかきっと幸せがやってくるんだ」
「しあわせ……」
幸せって、いったいなんだろう。暖かい? 冷たい? 痛くない?
「ねえスバル」
と、カイがスバルへ顔を近づけた。いきなりのことに彼女はサッと縮こまる。
「……笑って」
「……」
「お願い」
「……ど、どうやって……」
怖い……。笑ったらいったい何が起こるのだろう。その、幸せと言うのが訪れたら、自分はいったいどうなってしまうんだろう。
「簡単だよ。頬を上げて。こう……」
カイが、そっとスバルの頬に両手を添えた。電気袋をうまい具合に避けてそこに触れた彼は、その頬へ、ゆっくりと力を入れて両端に広げる。一の字に伸びたスバルの口が、持ち上がって三日月を作った。
「うん、そう。これだ」
「……」
カイは満足そうに言って、その手を離す。するとすぐにスバルは真顔に戻ってしまうが、なんだかほっぺたがくすぐったくて手をそこへ持っていった。
「え、がお……」
カイがしてくれたことと同じように、頬を持ち上げてみる。うまく笑ってみる。しかし、なんだかそれはぎこちなくてすぐにやめた。だけど、カイはその一瞬のスバルの表情に顔をほころばせた。
目もうつろで、光がない。笑うことの意味すらもわからないそんなスバルの表情にさえ、彼はいとおしげに笑うのだ。
「今の君にも、きっと心はある。心のない生き物なんかいない」
「……」
「今はただ、忘れているだけだよ」
忘れている。
何を言っているのかいまいちわからないカイの言葉に、なぜかチクリと何かが痛んだ。スバルのどこかを刺激した。いつも自分が恐怖している痛みとはどこかが違う、そんな痛み。なにかもやもやとした感情が渦巻いて、でもその正体は今の彼女にはわからない。
――私は、何かを忘れている気がする……。
スバルは、また頭が痛くなった。だけど、その痛みを拒絶していた少し前の自分とは、すこし考えが違う。
もしかしたら、この痛みの先に、このもやもやの正体があるのではないか――。
★
幸せ。楽しさ。嬉しさ。
その言葉をカイは教えてくれるのに、その意味がわからない。カイにはあって、自分にはない。どうしてだろうとスバルは思う。
ただただ、何かに怯えるだけの自分には無いものに、手を伸ばしてみたらどうなるのだろうとスバルは思う。
今はただ、忘れているだけ。カイはよくスバルに言う。忘れるって、何を? いったい自分には何が抜け落ちている?
まだスバルには勇気がない。その疑問を解こうとする好奇心は、黒く染まった恐怖と不安の中に隠れてしまうのだ。自分の知らない幸せや、楽しさや、嬉しさ。その意味を知ったとき、同時に何か自分の心が壊れてしまう感情までも思い出してしまいそうなのだ。
「怖い……」
「……? スバル……?」
「怖い、私……怖い」
「大丈夫、僕がいるから――」
「――違う……」
この恐怖は、カイと一緒にいても決して払拭されることは無い。言うなれば、自分自身で払わなければならないものなのだ。
「どうして……? どうして、カイ君は見ず知らずの私と、ずっと一緒にいてくれるの……?」
「……」
「そんなの、おかしいよ……自分が一番、大事じゃないの……?」
カイは、心底驚いたような表情をする。まさか、スバルの口からそんな言葉が出てくるとはみじんにも思っていなかったらしい。そんな、いつもなら笑顔を絶やさないのに今はうろたえている彼の手を、スバルはぎゅっと握った。暖かい。痛くない。そんな優しい手を握り、スバルは迫る。
「カイ君……! 私、何か大切なことを忘れているんでしょう……!?」
鼓動が、急速にスバルを高ぶらせる。
変化を、求めるな。思い出してはいけない。
――でも、私は“幸せ”という感情の意味を知りたい。彼が、私と一緒にいてくれる訳を知りたい。
「いったい、何を忘れているの……!? 教えて……ッ! お願い……! いつもあなたは、私にいろんなことを教えてくれるでしょ……?」
ビキッ、と、心のどこかで音がした。だめだ、耐えられない。それ以上、思い出したら命に関わる。
「いやっ……ああ……!」
「スバル……!」
彼はうずくまるスバルへ駆け寄った。そしてだめだ、とつぶやく。
スバルの心は動いている。確実にもとへ戻ろうと作用している。だが、まだだ。ここで焦って自分との過去を語れば、またスバルは忌まわしい頃の記憶を思い出してしまう。まだだ、耐えるんだ。
「スバル、スバル……きいて」
うずくまり、涙を浮かべるスバルへ、カイは優しくささやきかけた。
「明日、ここから外へ出よう。外の世界を見よう。そしたら、君の知りたいことの答えを見つけられるかもしれない」
「外、へ……?」
カイはうなずいた。
「君は、もう目覚めたての頃とは違う。失った心を取り戻そうとしてる。だから行こう。僕と、外の世界へ」
★
トレジャータウンというところは、昼の活気に包まれている。まぶたをしきりに刺激してくる太陽の下で大勢のポケモンが右往左往していた。スバルはその雰囲気に飲まれそうになって、前を歩くカイの背中に強く掴まる。そんな彼女のしぐさを見て、カイは小さく笑い声を上げた。
「あれ? スバルさんじゃないですか!」
道具売りのカクレオンが声をかけてくる。スバルはビクリと震えたが、彼女はカイの背後でどうにか受け答えをすることができた。その後も、カクレオンだけでなくすれ違ったポケモンたちの多くが自分に声をかけてきた。記憶を失う前、こんなにも自分は知り合いを作っていたのだろうか。
「君は、毎日幸せそうだったよ」
カイはしみじみと言う。
「つらいことも色々背負っていたけれど、それに負けないほどたくさんの幸せを抱えていた。毎日外へ出て、楽しそうに笑って……」
「私が……しあわせ……?」
自分が今知りたいと渇望している“幸せ”や、“楽しさ”。それを記憶を失う前には当たり前に持っていたというのか。だけど、今はどうだろう。今の自分にはそれを感じることはできるだろうか。つらさ、痛みの。記憶と感情を忘れることで確かにそれらは感じなくなった。だが同時にそのせいで、幸せや楽しさも感じなくなったのだろうか。
全てを思い出せば、幸せの意味を知ることができるのではないか。
――だめ……勇気がでない……。
たくさんのつらい記憶を思い出してまで、知る価値のあるものだろうか。記憶と感情を取り戻せば、こんどこそ自分はそれに耐えられず精神崩壊してしまうかもしれない。そんな危険をおかしてまで、手にいれるべき感情なのだろうか。
その後、日が傾くまで二人は町を回り続けた。恐れていた痛みや、辛さは、やってこなかった。トレジャータウンはなんだか暖かかった。
そして最後に、トレジャータウンをも飛び出して、カイは小さな丘の上にスバルを連れ出した。
「スバル、見て――」
風にそよぐ草原から視線をあげる。辺りは茜色に染まっていて、その色は視線が前へ前へと向かう度に一ヶ所に収束していく。
「あ……」
息を飲んだ。
全てを茜色に包んでいたのは、大きな太陽。それが地平線の中へゆっくりと沈んで行く。
「……きれい……」
初めてスバルの中で芽生えた感情が、言葉となって自然に口からこぼれた。なぜだかわからなかった。だが、とても大きく優しい空間と、それを作り出す光、そして景色の全てがスバルの心を突き動かした。
「……明日も来ようよ」
茜色の中にいるカイが、スバルへ小さく言う。
「つらいこともきっといっぱいある。でもさ……僕らには毎日、それと同じぐらいたくさんの幸せがあるんだ。でもそれは、それを感じる心がなくっちゃ気づけないし、一緒に同じ景色を見ているヒトがいなきゃ……」
――私は、……と一緒がいい…… 一緒に同じ景色を見て、同じ時間 を過ごしたいよ……!!――。
自分の声が脳内で響いた。いつか言った言葉。ずっと忘れていた言葉を。
「あ……っ、あぁ……」
記憶が、溢れてきた。スバルの目から涙が溢れてくる。頬を伝ってボロボロと流れ落ちても、止まる気配がなかった。
自分が人間だったころの、拘束されて実験の繰り返されたつらい記憶。ピカチュウになった後の、自分のことがわからなくて苦悩していた日々の記憶。“ソオン”が暴走して死にかけた記憶。“氷柱の森”で受けた心の壊れてしまいそうな痛みの記憶。
人間だった頃にすぐそばにいてくれた人の記憶。シャナに拾われたときの記憶。カイと初めてあったときの記憶。ルテアに技の指南を受けた記憶。ルアンと共に夢を渡り歩いた記憶。初めての冒険。初めてのバトル。初めて芽生えた、誰かを守りたいという感情。
そして、優しく抱きしめてくれたカイの言葉と温もり。
自分が生まれてから、全ての記憶が、スバルの空っぽな心を満たした。それと同時に、寂しさも、嬉しさも、怒りも、楽しさも、辛さも、愛しさも――。
今までに感じた全ての感情が、なだれ込むようにかわりばんこに現れて、彼女は涙を止めることができなかった。
「スバル……! スバル、大丈夫!?」
「う、うぅ……っ!」
カイが、様子のおかしくなったスバルへ慌てて声をかけた。彼女は大丈夫と声をあげたくても、嗚咽でそれが叶わなくなって必死に首をたてに振った。
忘れたい記憶もたくさんあった。二度と感じたくない痛みもたくさんあった。
だがこの世界に来て、たくさんの仲間と過ごしたかけがえのない日々が、とても眩しくキラキラと輝いて見えた。そしてなにより、カイと共に過ごした日々は、何物にも変えがたい記憶と感情だった。
――カイ……カイ……ッ! 今まで、忘れていてごめんね……! そして、ありがとう……!