第百四十八話 謀られた男
――“氷柱の森”にて、“イーブル”は計画の最終段階に不可欠であったスバルを連盟に奪還された。だが、“イーブル”ボスは、計画の頓挫よりもさらに重要なことに頭を支配されていた。
★
ざわざわと、下宿の外の木の葉が風に揺られてやかましく音を立てていた。ローゼは、ベッドに体を預けながらそんな耳障りな音へ静かに耳を傾けている。
まだ、体が思うように動かない。やはり体は、踏ん切りの付いた心よりも若干正直なようで、まだ気持ちに追いついていないようであった。だが、自分のことはどうでもいい。今はどちらかと言うと、又聞きしたスバルの容態、そして“イーブル”のボスの方が気になっていた。
「……カナメ君……」
彼は、記憶の中にしかいなかった者との思わぬ再会に、思わずその名を舌で転がしてみる。なんだか、名前を声に出して反芻してみても、全く実感がわかなかった。だが、間違いない。あのアブソルは、“イーブル”のボスは、間違いないく“カナメ”なのだ。
自分よりいくつも年下だった男。自分よりもいくつもつらいものを背負っていた男。そして、自分にはない大切なものをいくつも持っていた男――。
ざわっ……。
いっそう強い風にもてあそばれた木々が、大きく音を立てた。それと同時に、ローゼは風が起こしたものとは明らかに違う音が混じっていることに敏感に気づき、はじかれたように上半身を起こす。
――殺気……。
彼が周囲への警戒を強めた、その時――。
「――っ!?」
――耳をつんざく破壊音。
窓が破られた。だが、それに気づいたとき、ローゼは既に押し倒されていた。ベッドに強く押し付けられ、喉元に鋭い爪を持った前足を突きつけられる。少しでも動けば、その鋭利な歯に喉を引き裂かれるであろう。
「……動いたら、殺す」
静かに、声が言った。まだ本調子ではない上、肺を圧迫されて少し苦しそうな顔をしたローゼだったが、彼はいきなり現れた侵入者の姿と声に、自重気味に笑った。
「やはり来ましたね……カナメ君」
そう、ローゼに体重をかけ喉元へ前足を押し付けたのは、まぎれもなく“イーブル”のボスのアブソル――カナメであった。
――やれやれ、また窓の修理ですか……。
ローゼは、声の主の正体が分かったことでその程度のことを考えられるほどには冷静さを取り戻した。
「さすがですね。襲われる直前まで気配を察知できませんでしたよ。隠密行動の腕は衰えていな――」
「――黙れ」
カナメは喉元に突きつけた前足を強く押し付けた。突き立てた歯が浅く食い込み、皮膚がぷつりと裂ける。ローゼは口をつぐんだ。だが、その喉の裂けた皮膚から血が出ても、表情を一つとして変えなかった。
「答えろ、貴様は譲刃(ゆずりやいば)か?」
「……」
「答えなければ貴様の部屋が拷問部屋になるぞ」
そう言うカナメの目には、容赦とか、情けとか、そういう類いの感情がいっさい見られなかった。それに、ローゼは知っている。彼は冗談を言う男ではないということを。
だが。
「……“イーブル”のボスにお答えすることはありません。煮るなり焼くなり、好きにしなさい」
「……」
今度はカナメが口をつぐむ番になった。まさかフローゼルがうろたえもせずに、そんなことを即答してくるとは思わなかったからだ。いや、正確にはそこに驚いたと言うより、そんなことを簡単に言えるのは、カナメの知っている譲刃という人物意外に知らない。その面影と完全に一致しているので驚いたのだ。
――やはり、こいつは……。
だが、カナメは疑り深い性分だ。どうやっても彼本人の口から白状させて裏を取りたかった。
だが、こいつが自分の知っている譲刃という人物なら、本当に拷問しようが、それこそ殺してしまおうが一切口を割ることがないだろうことが容易に想像できた。
どうすればいいのかカナメが本気で焦りだした、その時。
「――ろ、ローゼぇ……! なんかものすごい音が聞こえたけど……」
最悪のタイミングで、同居人の一人であるニョロトノのカンナが部屋のとを開けて中へ一歩踏み込んでしまった。
「! カンナちゃ……」
ヒュッ。
ローゼが“来るな”と言う間もなかった。瞬きをしたその短い時間で、既にカナメはカンナの喉元に額の鎌を突きつけている。
「ひッ……!?」
「やめなさいッ!」
カンナが自分の置かれた状況をやっと理解したと同時に、ローゼは声を裏返らせて叫ぶ。カナメは内心で好都合だと思った。このニョロトノは、フローゼルの声を裏返らせるほどの強力なカードだ。
ローゼがベッドから飛び降りた。彼らに近づこうとする。だが、「近づくな」とカナメが鎌を強く押し付けると、ぴたりと動きを止める。
「こいつの命が惜しければ、私の質問に答えろ」
「カンナは連盟とはまったく無関係なポケモンです」
「答えない、か」
「待ちなさいッ」
カナメが思わせぶりに言うと、ローゼはかつてないほど切羽詰まった声でそれに静止をかけた。カンナの目は、命の危険にさらされた恐怖で涙が今にもあふれそうなほどに潤んでいる。
「ローゼぇ……ッ!」
「答えろ、貴様は……譲刃か?」
「……ッ」
ローゼは、完全にこわばっていた肩の力をどうにか抜く。息を吐き、平常心を保とうとする。
「あなたの知っている譲刃という人間は、死にましたよ。今は、フローゼルのローゼと名乗っています」
カナメはそれを、事実上質問に対する肯定の意だと受け取った。
「貴様は“氷柱の森”で、『大切な人をこの世から消し去ろうとした』、と言った。……どういうことだ」
「聞かなくても、わかっているんでしょう? あなたも」
「質問しているのはこちらだ」
ローゼはため息をついた。
「……スバルさん、ですよ。あなたが“氷柱の森”で魂を消そうとしていたピカチュウは、まぎれもなくあのスバルさんなのですよ」
「嘘だ」
「嘘ではありません」
「あいつは、死んだッ!」
「そんなこと、わたくしは知りませんよカナメ君……。譲刃が死んだ後の話をされても……」
カナメは、ローゼの言葉に全身が震えた。興奮で筋肉に力がこもっていた。
「あいつは、俺と一緒にこの世界に来るはずだったッ! だが、この世界に来て、目覚めたら俺はたった一人だった……!」
カナメは、もう体裁を保つための一人称もすっかりはがれ落ちていた。ローゼは、そんなかつての同胞の姿を目を細めて眺める。カナメは、前足で首から下げたタグを握りしめた。
「彼女はどこかで生きている。それだけお希望にしてどれだけさがしても、見つからなかったッ! あいつにあずけたこのタグだけが、この世界に残されていたんだッ!」
「時空ホールを使ってここへ渡ってきたのですか?」
ローゼは聞いた。だが、カナメが答える前に彼は言葉を続ける。
「どうやって時空ホールを見つけてあちらから来たのかはわかりませんが、ウィントの話では時空ホールは非常に不安定なものだそうです。あそこを渡る間にトラブルが起きない方がおかしいでしょう」
少しずつ、刺激しないように言葉を探す。少しでも間違えれば、カンナの命はないのだから。
「スバルさんがここへ来たのは、半年前のことだそうです。おそらく、あなたと落ちる“場所”が同じでも、“時間軸”が違ったのでしょうね」
「……そんな、馬鹿な……ッ!」
「あなたらしくもありませんね、少し冷静になって考えてみればわかることなのに……。挙げ句にあなたは、スバルさんが死んだと思い込み、命の宝玉を使って彼女をよみがえらせようとしたのですね」
カナメは、スバルが死んだと思い込み、願いを叶えるために本当は生きているはずの彼女を、“氷柱の森”で殺そうとしたのだ。
ローゼは、心底あきれかえった。頭を抱えたくなるほどに。
「その結果が、このザマですか……」
そして、カナメを射抜くように鋭く見据える。
「――あなた、誰に唆されたのです?」
「……ッ!?」
今まで感情という感情を見せてこなかった“イーブル”のボスが、面白いほどにうろたえた。瞳孔が小刻みに揺れている。
「……どうやら、心当たりがあるようですね」
ローゼは静かに一歩を踏み出した。
「わたくしから言えることは以上です。カンナは、わたくしたちのしょうもないいざこざとは全く無関係です。彼を離しなさい、さもないと――」
ローゼが床を踏みしめたとき、ピシッという小さな音がした。ちょうど霜柱を踏んだときのような音だ。部屋の温度が急速に下がる。彼を中心とした床に、薄い氷が張った。カナメはその異変にいち早く危機感を示す。彼はローゼを見た。
彼の顔には、表情というものが張り付いていなかった。見るものを凍らせ、すくみ上がらせる鋭い睨みをきかせているだけであった。それだけでも、十分だった。
「――いくらあなたとは言えど、ここから生きては帰しませんよ」
カナメは確信した。このフローゼルは、まぎれもなく譲刃その人である、と。その表情、気迫。たとえ人間からポケモンに変わったとしても、その根本的な彼の“恐ろしさ”というのは何一つ変わっていない。
――警告に従わなければ、この男は、本当に自分を殺す気でいるのだ。
「……ッ!」
カナメは鎌をおろし、カンナを解放した。そして、すぐに部屋へ入ったときと同じように窓から外へ飛び出し、そして戻ってくることはなかった。
「ろ、ローゼぇ……!」
カナメがその場から消えて暫くすると、やっと緊張がほぐれたカンナが泣きながらローゼに抱きついた。彼はそんなニョロトノの頭をさする。
「あー、いやはや。あなたも怖かったでしょうね……」
「ぐすっ……! 怖かったよぉおお!!」
「あなたは無関係でしたのに……すいませんカンナちゃん……」
「ぼ、僕はオスです!」
★
「ダークライッ!」
カナメは、“イーブル”の本拠地へ戻るとすぐに叫んだ。ありったけの音量で、気違いのように叫んだ。
「ダークライッ! 姿を見せろッ!」
彼は、「寒いのは嫌だ」といって“氷柱の森”へ行くことを拒んだ。だから、ここへ置いていたのだ。だが、どれだけ呼んでも全く姿を現す気配を見せない。
『――君の大切な人間は、死んだよ』
五年前。スバルを探すために大陸中をまわり身も心も憔悴しきったカナメの前へ現れたのは、まぎれもなくダークライであった。だが、どれだけ心がぼろぼろになっていようと、彼は自分の心を見透かす見ず知らずのポケモンの言葉を簡単に信じようとしなかった。
だが、あろう事かダークライは、彼の目の前へあのタグをちらつかせたのだ。それが決定打だったのだ。
ダークライは言った。このタグが落ちていた。だが、見つけたのはダンジョンだ。たとえあそこで生きていたとしても、生身の人間がダンジョンの中で生きていられる可能性は――。
「ダークライッ! ダークライッッ!!」
悲しみに打ちひしがれたカナメへ、ダークライは不気味に目を光らせゆっくりと近づいてきた。
――一つだけ、彼女に会える方法があるよ。
「ダークライィッ!!」
――よみがえらせればいいんだ。
カナメの脳内に、あのときのダークライのくぐもった笑い声がいつまでも響いている。彼は既に、アジトの中にはいなかった。影も形もなく、どこかへ消え去ったのだ。
「ダァアアアクラァアアアアアアアアイッ!!!」
アジトの中に、カナメの叫びが長い尾を引いて響いていた――。