へっぽこポケモン探検記




















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第九章 “氷柱の森”編
第百四十七話 僕に出来ること
 ――“氷柱の森”でのショックで、過去の全ての記憶を失い無感情になってしまったスバル。僕は、絶望と言っても大げさではないほどのショックを受けた。まだ“イーブル”は壊滅した訳ではないし、これから、僕らはいったいどうなっていくんだろう……?





 ぼんやりと、僕は暗闇を見上げていた。周りには何も景色も見えなくて、ただただ、僕はたった一人でぽつんと座って、目を開けていても閉じていても変わらない景色を見つめていた。
 そうか、これは、また夢の中なんだ。誰も邪魔されることのないこの空間で、僕は顔を膝に沈めた。
 スバルの記憶は、失われたんじゃない。“イーブル”に奪われたも同然だ。それほど、彼女へした仕打ちは恐ろしいものなんだ。
 ……僕の知っているスバルは、もう、戻ってこないのだろうか。そしてこれから僕は、すっかり怯えきって人生の絶望を見てしまったかのような表情をしているスバルと、どう接していけばいいのだろうか。
 僕の肩に何かが触れた。そこから感じるぬくもり、それは手だ。
「僕は、いったいこれから、どうすればいいの?」
「……つらいだろう、カイ。だが、まだ絶望するには早すぎる」
「でもっ……これ以上の仕打ちはないよ……これ以上の絶望を、感じたことがないんだ……」
「傷つき、記憶を失い、感情すらなくしたとしても。彼女は、“スバル”だ。別人になった訳ではない。そうだろう?」
 スバルは、スバル……。
「君は、今までスバルとどう接してきた? 彼女が落ち込んだとき、そして今のように不安と絶望の淵にたたされたとき、どうやってその心を溶かしてきた?」
「僕は……」
 僕は、今までどうしてきた?
 彼女が記憶のないことへ不安を感じていたとき、どうしていた?
 彼女が悪夢にうなされ泣いていたとき、どうしていた?
 そして今、再び記憶をなくして感情を失った彼女へ、僕は何をすればいい?
 そうだ、スバルは別人になった訳じゃない。僕らが積み上げてきたものの全てが無くなった訳じゃない。
 僕が今まで、スバルに手を差し伸ばしてきた時のように、またゆっくり、歩み寄って手を差し伸ばせばいい。
 時間は、正直無い。でも、なくした感情の中でも、彼女がまだ助けを求めているとしたら――。
 僕が終わりを迎えるときまで、ただ何もせずにその時を待っているより、出来る限りのことをする。その方が数十倍も数百倍もいい。
「君は、何を失った? 何に絶望している?」
 声は問いかけた。肩に乗った手がスッと離れていく。僕は、目元を腕で拭った。そして、立ち上がる。
「奪われたものは、取り戻す。だから、僕はまだ何も失ってない。絶望なんて、していられないよ」
 立ち上がったその先で、しゃがんでこちらを見上げていたルアンが、フッと笑った。
「君は、本当に強い」

 夜明けと同時に目覚めた。ギルド、そして僕らの部屋も、まだ音のない世界だ。朝の日差しと静寂の中で、僕は横で静かに寝静まっているスバルを見る。
「……僕に、出来ること」
 声に出し、言い聞かせる。僕が、スバルに出来ること。
 そう、彼女の凍った心を溶かすことが出来るのは、きっと、僕しかいない。
 そのために、出来ることを、する。





「スバルは、僕がなんとかします」
 ギルドでのいつもの朝礼の後、資料室で何かの作業中であったシャナさんに向かって僕は言った。そう言ったときのシャナさんの表情と言ったら、なんというか、まるで全く面識のない初対面のポケモンがいきなり話しかけてきて戸惑っているみたいだ。たぶん、僕がいきなりそんなことを言うとは思っていなかったからそんな顔になったんだろう。
「えっ……」
「時間は多分、すごくかかります。それに僕が何かしたからって、スバルが心を取り戻してくれるかもわかりません」
「ちょ、ちょっと待て……」
「だけど、僕がやらなきゃいけないんです。スバルのパートナーである僕が……」
「だ、大丈夫なのか?」
 シャナさんはそう言った後少しして、ちょっと俺に発言する時間をくれよ、と付け加えた。
「……スバルは、きっと大丈夫です。少しずつ寄り添って、僕が必ず元の元気だった頃のスバルを取り戻してみせます」
 僕がそう言うと、シャナさんは寂しげなまなざしで首を横に振った。
「違う。俺はお前のことを言ったんだよ、カイ」
「え……?」
「俺は鳥目だが、節穴じゃない。お前は昨日までスバルのことですごく落ち込んでいただろう。お前の心のつらさが計り知れないってことぐらいはわかるさ。そんなに焦らなくてもいいんだよ、カイ。ローゼさんも、“イーブル”は氷柱の森での作戦が頓挫してしばらく動けないだろうと言っていたし……」
 シャナさんは、僕と視線をそろえるためにしゃがみ込む。
「無理していないか? カイ。早く立ち直るな、なんて言わないが……俺たちには空元気じゃなくて素直な態度でいていいんだぞ?」
「……空元気、といわれたら、もしかしたらそうかもしれません……でも」
 僕は、途方に暮れていた。でも、僕は失っていない。スバルという希望の星を失っていない。まだ、絶望するには早い。やるべきことが決まれば、後は行動に移したい。今の僕には、一分一秒がとても貴重なんだ。
「なんというか、不思議な気持ちです。焦りでも何でもなく、今の僕にはスバルに対して出来ることがちゃんと浮かんでくるんです。スバルを守れるのも、そして、彼女の心を溶かせるのも、僕しかいないって思うんです」
 僕は、ぎゅっと固くした拳を手を当てた。スバルとの思い出が、僕をこのんな気持ちにさせているのならば、君にも、それを思い出させてあげなきゃいけない。
 僕はシャナさんに笑った。その笑いが決して強がりから生まれたものじゃないってことを、きっとシャナさんはわかってくれる。
「シャナさん。この気持ちは……いったいなんて言うんですか? 僕にはわかりません」
「カイ……」
 シャナさんは、しゃがんだ姿勢のままあさっての方向を向き、頬を掻く。なんだか、“聞いているこっちが照れるよ”と言いたげな表情だ。それもほんの数秒のことで、すぐに彼は僕に視線を戻し、フッと微笑んだ。
「よし、わかった。探検活動の方は気にするな、そっちの方は俺が全面的にバックアップしよう。カイは、スバルのことに専念すればいい」
 そして、僕の肩に手をぽん、と置いた。
「つらくなったら誰かに言えよ。……楽に行こう、楽に」





 日もだいぶ南天に近づいた頃に、スバルはうっすらとまぶたを開けた。ちくちくとまぶしい日差しが、窓の外からこぼれて目を刺激している。今日もまた、記憶が始まった頃と同じ天井の光景だ。何も、特別なことなど起こらない。彼女はこれから起こることに不安を感じることも、期待感を覚えることもしない。ただ、心の中がぽっかりと無くなってしまって、妙な虚無感と倦怠感だけが支配していた。
 何か、彼女の中の本能が語りかけてくる。変化を求めるな、と。変化をすれば、身に危険が起きる。何も感じるな、何にも揺れ動くな、何も思い出すな。
 そう。なにも、起こらない。
 ただ、天井を見つめるだけ――。
「――あ、起きた……?」
 なにも、起こらない――はずだった。
 不意に小さな声をかけられて、スバルはぴくりと震える。大声でないことが唯一の救いだった。彼女は返事もせず声のした方を首だけで見る。
 青い顔に、赤い目。すこし尖った鼻。声の主は、どうやらこのリオルから発せられているようだった。
 そういえば、初めて目覚めたときに見たのもこの顔だった。いったい、彼は誰なんだろう。それを考えようとすると、どういうわけか本能がそれをやめろと語りかけてきた。
「あなたは……だれ……?」
 何も考えられない。目の前のリオルが誰かもわからない。初対面なのか、それとも会ったことがあるのか。考えることが出来ないから、スバルはそう聞くしかなかった。すると、リオルは少し寂しげに笑う。
「僕は、カイ。覚えてないかもしれないけど」
 そう言って、カイと名乗ったリオルは仰向けになっているスバルに手を伸ばした。
「ひっ……!」
 何かされる。痛いことをされる。
 そう思って固く目をつぶり全身をこわばらせたスバルだったが、予想に反してカイは自分の額を少し撫でただけだった。
「ねぐせ、ついてるや……」
 それでも、スバルはしばらくこわばった姿勢から戻ることが出来なかった。カイが手を離して初めて、すこしあがった息とともに全身の筋肉を弛緩させる。正直、とても怖かった。
 そんな自分の気持ちを知ってか知らずか、カイは目を細めて柔らかく微笑んだ。
「僕は何もしないよ。だから、安心して」
「何も……?」
「そう、ほら」
 カイはスバルへ手を差し出した。そして、触れてみて、と言う。
 恐怖の感情以外の全てを失ってしまったスバルは、未知の存在に触れるということだけでもすごく恐ろしい行動であった。彼の差し出して手を触れるために伸ばした手が、小刻みに震えている。
 カイは、辛抱強く待った。自分からはいっさい手を伸ばさなかった。
 そして、ちょこん、とスバルの指先がカイの手のひらに触れる。今までに感じたことのない感情だった。そして、手のひら全てでそれに触れ、そして弱く掴んでみる。なにか、その手に温度のようなものを感じた。
 これは、なんなんだろう。
「暖かいでしょ」
「あたた、かい……?」
「そう、触れても痛くないものだよ」
 この人は、本当に。なにもしないんだ。それどころか、触れたその手に感じるものは、“暖かさ”というんだ。スバルは、おそるおそるそれを認識した。
 いや、よく見ると、暖かいのは握った手のひらだけではない。彼のまなざし、微笑み。よく見てみたらそれらからも、手のひらに触れたときと同じものを感じる。
 “暖かさ”を。
 この人は、大丈夫だ。怖くない。痛いこともしない。ゆっくりと、全てを自分に寄り添うようにしてくれる。
「よろしくね、スバル」
「……よろ、しく……カイ、君……」
「あはは、おかしいや」
 不意に、カイが笑った。なぜ彼が笑ったのか、スバルにはわからなかった。だけどなぜか、その笑いになにか“暖かさ”とは違うものが見えたのが、すごくスバルには変な気分だった。





 カイはいつも、部屋から外へ出ようとしないスバルのそばにいた。彼女のことを何かから守るかのように、常に離れることはなかった。カイのことをよく知らないスバルからすれば、それはとても不思議なことのように思えた。この世の全てが自分に痛みと恐怖を与えるものでしかないと思っていた彼女にとって、カイの存在と振る舞いは初めての“疑問”となった。
 変化を拒絶して、感情を殺した彼女が漠然と“なぜ”と思うことは、とてつもなく大きな変化だった。だが、やはりその事を深く考え始めると頭に痛みが走る。思い出すな、と言っている。
 なぜ、思い出してはいけないのか。そしてなぜ、自分の周りには痛みと恐怖しか無いと思っているのか。それも、深く考えようとする度に激しく脳が拒絶した。
「ううっ……!」
 スバルは頭を抱えてうずくまる。その瞬間、横にいたカイが顔面蒼白になって彼女に背中を置いた。
「スバルッ……!? どうしたの……!?」
 なにか、大切なことを自分は忘れているのかもしれない。このギルドという場所に自分がいることも。そして、片時も離れずにそばにいるリオルのことも。だけど、それだけではない。思い出すぐらいなら、忘れてしまった方がいい記憶も、たくさんあるような気がする。
 葛藤。激しく揺れる恐怖と、なくしたはずの感情。スバルの意識は混濁した。
「い、いやっ……! 思い出すのが、怖い……」
「! ……スバル、無理しないで」
 カイは静かに、そして強く言う。
「お願い。思い出すのがつらいのなら、やめて」
「……カイ、君……」
 つらいのなら、やめて――。
 痛みに恐怖している彼女にとっては救いともとれるカイの言葉に、スバルはすぐさま従った。考えることを放棄した。すると、頭の痛みはすぐに収まる。
「はぁっ……はぁっ……!」
 カイは、涙を浮かべながら激しく肩で呼吸するスバルの背中をさすった。彼女には余裕がなくて見ることができなかったが、そのときのカイは悲痛という言葉ですら生易しいほど、歯を食いしばって何かに耐えるような表情だった。

ものかき ( 2015/05/18(月) 21:50 )