第百四十六話 壊れた絆
――僕は、目を覚ましたスバルの名を呼ぶ。待ちこがれていたスバルの声を聞く。だが、彼女の口から発せられたのは……。
★
「――だ、れ……?」
「……え?」
思考が完全停止した。僕の中の脳内の歯車が止まった。いったい、彼女が何を言ったのかがわからなかった。
いや、違う。わからなかったんじゃない。わかりたくなかった。だから、思考を止めた。
「すっ……スバル……!」
僕のことを、今……。
“誰?”って……?
「ぼ、僕だよっ! カイ!」
僕は握っていたスバルの手に力を込めた。そして、小さく叫ぶ。だけど声が震えている。僕の背後にいたキースさんは、何も言葉を発しなかった。
スバルは、僕が手に力を入れてそう言った瞬間に、びくりと体を震わせた。ものすごく怯えていて、黒く丸い瞳の中には光がなかった。
「まさか……」
まさかそんな……。そんなことがあり得るの? スバルが、僕のことを……?
――僕のことを、忘れた?
スバルが、ゆるゆると首を横に振った。さっき言った僕の名を、覚えていないという意思の表れだった。
なぜだ。どういうことだ。どうして、こんなことになった。
僕は呼吸が荒くなっていくのを感じた。何が起きている? スバルは、記憶喪失に? 僕と会ったときにすでに一度なっていたというのに、このタイミングで再びそんなことが……?
「カイ君、どいてくれたまえ」
一連のやり取りを見守っていたキースさんが、僕がはいともいいえとも言う前に、やんわりと僕を押しのけた。医者としてのスイッチが入ったらしい彼は、怯えてタオルにくるまっているスバルの目線の高さまでしゃがんでから、小さな声で言う。
「私は、天才医者のキース=ライトニングという。キース=ライトニングだ。重要なことだから二度言った。ぜひとも覚えておいてくれたまえ」
「キース、さん……?」
スバルはどうやら、キースさんのことも完全に忘れてしまっているようだった。
「目が覚めたばかりところ悪いが、いくつか質問させてほしい。まず、君の名前は覚えているかい?」
「……」
スバルは首を横に振る。僕にとっては、自分のことすら忘れているという事実が、一番ショックが大きい。いったい、どういうことなんだ……!?
「ここがどこだかわかるかい?」
首を横に振る。いいえ、だ。
「探検隊、という職業については?」
首肯。
「私の種族がわかるかな?」
「……デンリュウ」
「結構。では彼のことは?」
そういって、キースさんは僕を指差す。やめて、やめてよ……。
「……わからないです」
ズキリ、と。僕の心が軋んで痛んだ。悲鳴を上げそうになった。
「そうか……。では、なにか、君の中で覚えていることはあるかい?」
「……」
そう言った瞬間、布の裾を強く握りしめていたスバルの手が、異常と言っていいほど大きく震える。いったい、彼女の中の記憶は何が残されているんだ?
僕は、“氷柱の森”へいく前のローゼさんの言葉が脳内によみがえる。
――ダークライは、スバルさんの記憶の一番つらい部分を呼び覚まして、彼女の心を傷つけていたと思われます――。
「スバル君」
呼吸の荒くなったスバルへ、少し表情の険しくなったキースさんが手を伸ばす。だが。
「いやぁっ……!」
彼女は、それを強く拒絶した。強く目を閉じ、体を抱いて背を向ける。
「……」
キースさんはため息をついた。伸ばしていた手を空中で止めて、そしてだらりと下げる。肩をおとし複雑な表情で目をつぶった。これは僕の想像にすぎないけど、その時のキースさんはまるで、彼の過去の記憶の中で起きた悪い出来事を再び目の前で見たときの「またか」という表情をしていた。
「カイ君、悪いが誰か呼んできてくれ。シャナ君でも、単細胞でも、誰でもいい」
「キースさんッ……! スバルは……!」
「それはもうすこし様子を見た後で説明するから大声を出すんじゃない。スバル君が怯える」
「……っ」
僕は、何か一つでもいいから言葉を紡ぎたかった。だけど、色々な思いがこみ上げてきて、結局何も言うことができない。激しく歯ぎしりをして、部屋を出る。
去り際スバルの方をもう一度だけ見ると、彼女は虚空を眺めている。僕は、焦点の合っていないスバルを見ると、彼女の心から恐怖以外のすべての感情が抜け落ちてしまったのではとすら思ってしまった。
僕は、部屋を出た後すぐに走った。ギルドを走って外へ出た。ルペールさんが僕を名を呼ぶ。しかし、今立ち止まったら、目の縁にたまった涙が決壊したダムの水のように流れてしまうから立ち止まれなかった。
走って、走って。誰もいないギルドの入り口の看板の外まで全速力で走った。
「はぁっ……はぁっ……!」
看板も、空も、僕までもが夕暮れの茜色に染まっていた。そのままその色に溶けてなくなってしまいたかった。
「ううぅっ……! わぁあああああああああッ!」
どうして……! どうしてスバルは記憶を……、僕と過ごしてきた日々を忘れてしまったんだ……!
今まで体験してきた感情は? 彼女とともに過ごした日々は? たのしいことは? うれしいことは? かなしいことは? おこったことは?
――僕との絆は……?
そうだ、スバル。僕と君の間には確かに深い絆があったはずだ。これは、驕りでも自惚れでもなんでもない。記憶があったころの彼女だってきっと同じことを言うはずだ。僕は、他の誰よりもスバルと一緒にいて、他の誰よりも彼女と深い絆を結んでいた。
僕が、たとえ“命の宝玉”を壊したとき、ルアンの放出する波導に肉体が耐えきれずに死んでしまったとしても。その死を覚悟できたのは、間違いなくスバルのおかげだ。スバルとの間にあった深い絆のおかげなんだッ!
たとえ死んでも、心の中で生き続ける。
スバルは確かにそう言った。僕が死ぬことを知らないけど……いや、だからこそ、僕は残りの時間すべてをかけて彼女との絆を出来るだけ深めようと思っていた。彼女の心の中で、僕が生き続けられるように。
なのに。それなのに。ここに来て、消えた。スバルの記憶の中から僕が消えた。感情も消えた。絆も消えた。すべて消えたんだ!
もう、スバルの中で僕が生き続けることはないんだッ!
これは、僕にとっては死ぬことよりも残酷なことだ。もしも、これから生きながらえると言われたしても、それはあまりにつらいことだ。
「うううっ……!」
それに、どう考えても宝玉を壊すまでのほんの少しの間に、今までと同じ絆を取り戻せる訳がないじゃないか……!
僕は、膝をついた。起き上がる気力が起きなかった。地面に涙がぼろぼろとこぼれた。
「うわぁあああああっ……!」
いったい、誰を呪えばいい?
僕を? スバルを? ダークライを? アブソルを?
これが、定められた運命の中の出来事だとしたら……僕は、その運命を呪うしか出来ないよ……ッ!
★
泣き疲れて、僕は自力でギルドへ帰った。涙ももう出し切って枯れた。地面に足がついている感じがしなかった。自分が今、しっかりと歩いているのかもわからなかった。
「……カイ! 探したぞ……!」
シャナさんが僕の方に走り寄ってきてそう言った。だけど、何も答える気にならない。シャナさんも僕を見て、言おうとしていた言葉が消えてしまったらしい。黙ってしゃがんで僕を見て、抱き寄せるだけだった。僕はそこで、枯れたと思っていた涙をまた少しだけ流した。
「精神が専門じゃないから何とも言えないが、スバル君はおそらく逆行性健忘、しかも全健忘だ」
パートナーである僕と、師で保護者であるシャナさんと、連盟トップのラゴンさんと、親方のウィントさんが親方の部屋に集まり、キースさんの説明を受けていた。
ぎゃっこ……?
「つまり、過去の時間の記憶がすべて抜け落ちている。“逆行性”イコール過去、“全”は全て。簡単だろう?」
「本当に、簡単に言ってくれるな……」
ラゴンさんは頭を抱えた。それに追い討ちをかけるように、キースさんはふっ、と手を額に当てた。僕も頭を抱えたくなった。
「さらに言えば、今のスバル君には感情らしい感情がほとんどない。無感動なんだ。あの後少しだけ実験をしてみたけど、何に対しても無感動だよ。一般常識の記憶がかけていないことだけが唯一の救いだね。ただ、何か特定のことに対しての、強い“恐怖心”だけは存在する」
「恐怖心?」
「私の医療かばんの中にある注射器をとても怖がっていた。出してもいない、入っていただけだだから睨むなよシャナ君! ……今の彼女はとても不安定だね。こればっかりはどうしようもない」
全員が暗い顔をする中で、キースさんは、さっきちょっと探偵君のところへ行ったんだけどね、と腕を組みながら前置きをする。
「スバル君って、一度記憶喪失になっているらしいね。そのときですら、何かつらい記憶から精神を守るためにそれを封印していたのに、にっくきダークライが私の神聖なるラボで彼女の記憶を呼び覚ましてしまった。……それに加えて“氷柱の森”で本当に死ぬかもしれない痛みを味わったんだ」
スバル……。
「探偵君と私の意見をまとめると、スバル君は過去への記憶のショックと今回の一連の出来事のショックで、精神が耐えられずに崩壊寸前まで来てしまい、加えて再び記憶を完全に閉ざしてしまったのでは、ということになった。だから、無感情と記憶喪失。証明終了、それが私たちの意見だ」
ここにルテアさんがいなくて本当によかった、と僕は場違いなことを思ってしまった。もし、この場に彼がいたらキースさんはきっと八つ裂きにされていた。てめぇよくも他人事のように言えるなこの野郎……と。
「キースぅ……どうすればスバルはもとに戻るのぉ……!?」
ウィントさんはいつものように涙でぐしょぐしょの顔をラゴンさんに押し付けていた。顔を離してそう聞くときの、ちらりと見えたラゴンさんの体毛がとんでもなかった。キースさんはチーゴの実を噛み締めたときのような顔になる。
「記憶や精神ばっかりは明確な治療法はないよ……。トラウマは無理に引っ掻き回すと取り返しがつかない。刺激しすぎると二度と感情や記憶が戻ってこないかもしれない。そっとしておいて、自然に戻るのを待つのが一番いいね」
自然に待つ……。いったい、それはいつになるのだろう。それこそ、僕が生きている間に記憶が戻らなかったら……!
もう、僕の目の前は……真っ暗闇のなかだ……。