第百四十五話 流浪探偵の名
――僕は、みんなの力で……そして僕自身の手で、やっと“イーブル”からスバルを取り戻した。ものすごい緊張から解き放たれて気を失ってしまったけれど、目覚めた後に、だんだんとその後の周りの状況を見渡せるほど落ち着いて……。
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“氷柱の森”に向かってから数日が経った今日も、スバルはまだ目が覚めそうになかった。やはり医療班二人は、スバルの受けたダメージは計り知れないと言っていた。生きているのは奇跡に近い、と。
とにかく、目覚めるにしてもまだあと数日かかるだろうし、その間に僕はスバルが目覚めた後どんな表情をすればいいのかをじっくり考えたかったから、今日はスバルの付き添いを別の人に任せて別の場所へ向かうことにした。
スバルを救出したあの日、実は僕が気を失った後、ローゼさんの体調も急変してしまったそうだ。それを僕はウィントさんから直接聞いたのだけれど、その理由について彼は「きっと寝不足で体調崩しちゃったんだよー!」と言っていたがおそらく嘘だ。多分、ウィントさんは僕と話していたとき他のギルドのメンバーも通りかかっていたからとっさにそういったのだと思う。ローゼさんも、普段は飄々としているが色々と酷な運命を背負った身だ。きっと何かがあったに違いない。
その証拠と言っていいのかはわからないが、僕がローゼさんのいる下宿へ向かおうとする所を目敏く見つけたウィントさんが、「僕もいくー!」と僕の後を付いてきた。もしかしたら、お互いに彼の事情を知っている僕らだけで、何か話したいことでもあるのかもしれない。
下宿に向かうと案の定、今日もニョロトノのカンナちゃんが箒を片手に庭の掃除にいそしんでした。ウィントさんと僕の姿を見つけると、挙動不審気味に木の陰に隠れることも忘れない。
「う、ウィン……ウィントさん……!」
「やっほー! カンナちゃん元気ぃ!? グミちゃんあげるー!」
「ぼ、ぼぼぼ僕はオスですもぎゅっ!?」
そんなカンナちゃんにさえウィントさんは容赦なく口にグミをねじ込んだ。
「ローゼさん……目は覚ましました?」
下宿の戸をくぐりつつ、僕がカンナちゃんへそう聞く。すると彼は口をせわしなくもぐもぐと動かしながら、落ち込んだ様子で頭をたれて首を横にゆるゆると振った。
「ほんとに……ずっと死んじゃったみたいに眠ってて……僕……」
彼の目の縁に光るものがあった。それを見つけてしまった僕は目敏い自分を少し後悔した。
僕らはローゼさんの部屋に通された。部屋の中は散乱した資料と、どう見ても気がふれてしまったのではないかと思わせる壁の地図で悲惨な状況になっていた。これでもカンナちゃんが訪れた者の足場を作れるように整理をしたというのだから、その前がどういう状況だったのかは想像したくない。
そんな彼の書斎の、壁際にあるベッドの中でローゼさんは静かに仰向けに眠っていた。寝顔がうなされる様子もなく穏やかなのが唯一の救いだけど、彼の手に少し触れてみると驚くほどに冷たい。僕はなんだか怖くなった。眼鏡が散乱した机の上におかれている。カンナちゃんが置いたのかな。
僕の周りがいつもこうやって傷つくのは、すべてを僕が傷つけた訳ではないにしろすごく嫌な気持ちになる。スバルも、ルアンも、そしてローゼさんも、ギルドのみんなも。仲間にはいつも元気でいてほしい。
……だって、僕はもうすぐ死んじゃうんだ。もうみんなといられるのもあと少しなんだ。僕はせめてそれまでに、みんなの元気な姿を目に焼き付けておきたいよ……!
「……ローゼさん……」
「……うっ……」
『!』
ローゼさんがうなって、居心地が悪そうに肩をかすかに動かした! 僕と、ウィントさんと、カンナちゃんが思わず一斉に身を乗り出す。
「……あぁ」
そして、彼はうっすらと目をあけた。疲れで目の下にひどくしわが寄っている。
「……ここは……」
「「ローゼぇッ!!」」
「ぐふぅっ!?」
「え、ちょ、ちょっと……!」
ウィントさんとカンナちゃんが涙と鼻水で顔をぐしょぐしょにして、同時に彼へ突進して抱きついた。寝起きの彼にそんなことをするなんて、と僕がそれを止める間などあるはずもなく、彼は腹への衝撃で声を上げる。
「よがっだぁあああああ! うわぁあああああああん!」
「もう起きないかとおもっだあぁあああああああ!」
「……あー、すいません……。この状況がよくわかりませんが、もう一度寝かせてください……」
彼はまぶたを必死に持ち上げながらか細い声でそう言うが、しばらく二人は聞き入れそうになかった。
ローゼさんは宣言通り、泣きじゃくりながら抱きつく二人をよそにもう一度眠りについた。そして数時間後再び目を覚ましたとき、体調はまだあまりよろしくなかったけど、目を開けて僕らと会話をしていられる程度には回復していた。
僕は彼へ水を入ったコップを渡すと、彼は危なっかしい手つきでそれを受け取り、少しずつ口に含む。
「気分はどうですか……?」
「最悪です」
彼は即答しながらコップを僕へ返却し、目をゆっくりと瞬かせる。
「わたくしが吐きそうになったらカイ君は全力で逃げてください……」
「……そのぐらいのユーモアが言えればもう大丈夫ですね……」
心配して損した……。全然命に別状はないじゃないか……。
「それより、カイ君。あなたはスバルさんのそばにいた方がいいのでは……?」
「スバルは……しばらく、目を覚ましそうにないので……」
「……そうですか」
場に重い沈黙が訪れた。ローゼさんは無言で再びベッドに背中を預ける。起き上がるのもまだだいぶつらそうだった。
「ローゼぇ、スバルも大事だけど、君こそ大丈夫なの……?」
ウィントさんがパタパタと羽を動かしながら宙に浮遊し、ローゼさんへそう聞く。だが、彼には珍しくすぐに返事はこなかった。
彼の返答を待つために時間が過ぎていく。そして暫くして、ぽつりと彼は言葉を紡いでいった。
「……“イーブル”の、ボス……彼はやはり……わたくしが、知っている人間でした」
「……」
ウィントさんが目を細める。
ローゼさんが感じた通り、“イーブル”のボスはローゼさんの知り合い……つまり、元ニンゲン。ニンゲンが僕らの世界で“イーブル”を作り出し、そしてこんなひどいことを……!
いったいその人物は誰なのか。ローゼさんとどういう関係なのか。まさかスバルとも面識があるのか。いったいNDを使って何をしようとしているのか。質問は山のようにあるのだけれど、今のローゼさんのひどく憔悴した様子を見ると、その質問を今の彼に投げかけるのはあまりにも酷だ。僕はどうにか口まででかかった質問のかずかずを、どうにかして飲み込む。
「まちがいないんだね?」
「間違い……ありません。わたくしの名を――わたくしの本当の名を、確かに呼びました」
「本当の……名前?」
僕は思わず首を傾げてしまった。ウィントさんがすかさず僕に説明をする。
「実は、ローゼって名前は本当は彼の名じゃないんだ」
ええ!?
「彼は転生してフローゼルになった後、偶然、“黒衣の拐い屋事件”で犠牲にになってしまったブイゼルの子――ローゼのお母さんの家の前で倒れていた。それを僕が見つけて、その家で看病したときに、そのお母さんが名前を忘れた彼にローゼの名前をくれたんだ。……もう五年も前の話だね」
ローゼさんは、今まで転生前の自分の名前を忘れていた。だけど、“イーブル”のボスが彼の名前を呼んだことで、本当の名を思い出した――。
「しかし……名を思い出したとき、同時に自分が死んだときのことを鮮明に思い出しました……」
ローゼさんは静かに目を閉じた。その閉じた目の目尻から、一筋の涙が流れる。
「わたくしは確かにあそこで死んだのです。
譲刃という人物は、確かにあそこで死んだのです……」
彼は、数回か繰り返しそう言い、そして最後に震えた吐息をもらした。
僕は彼がこんなにも悲しく涙している姿を、初めて見た。まさか、いつだって飄々としているローゼさんが僕の前で涙を流すなんて……。
「ですが、不思議ですね……。あのとき倒れた後、こうやって目覚めてみると、何もかもが遠い出来事のようです。……やっと、踏ん切りがつきました……」
そして彼は、ローゼさんは、穏やかな表情で目をうっすらと開ける。
「わたくしは、もう“ヤイバ”ではありません。彼は死にました。わたくしは――フローゼルのローゼです」
★
僕は、ローゼさんの深いお礼を受けながら、ウィントさんと一緒に下宿を後にした。ギルドに帰る道中でも、彼が部屋の中で言っていた言葉の一つ一つが、まだ僕の耳の中に残っている。
僕らがビクティニのギルドへ戻ったとき、ウィントさんは「ローゼが自分の口からみんなに伝えるまでは、“イーブル”のボスの正体のことは黙っていようね」と優しく言われた。僕はもとから言うつもりはなかった。踏ん切りが付いた今の彼であれば……いや、今までもこれからも、ギルドや連盟に協力を惜しまないだろう。ローゼさんなら、近いうちにそのことをみんなに明かしてくれるに違いない。
と、そんなことをギルドの廊下を考えながら歩いていると、曲がり角の先から歩いてきた白衣のデンリュウ――キースさんと鉢合わせた。
「やぁ、ちょうどいいところに来たねカイ君。今からスバル君の容態を見に行くところだった」
「あ……ありがとうございます」
ということで僕は、キースさんと一緒に自室へ戻ることになった。
部屋への入り口をくぐる、そしてそこの寝床にスバルが寝ていて――。
「……! す、スバル……!?」
いや、違う。彼女は、寝床から上半身を起こしていた。え? これって、もしかして……!
「スバルッ!!」
僕は彼女へすぐさま駆け寄った!
「スバル! 目を……目を、覚ましたんだねッ!」
僕は彼女の手を両手で握った。そこには確かなぬくもりがあった。きっといつものように再びあえた喜びで僕へ元気な声をかけてくれるに違いない。
彼女は、僕の方をゆっくりと見た。
「ス、バル……?」
その瞳のなかに映された僕の姿が、今日はなんだかはっきりと見える。彼女はゆっくり、唇をそっと開けて――。
「――だ、れ……?」