第百四十話 世界一の天才
――憎しみに囚われていたカイを、シャナは自らの身を挺して引き止めた。だが、彼が受けた傷をいつまでも放っておくわけにはいかず……。
★
「おい、ショウ……ショウはいるか……!」
「!」
ギルドの弟子の部屋の一室、ガーディのショウとブーバーのシェフが寝泊まりする部屋の入り口に、力のない声と共にシャナが姿を現した。一文字目を聞いただけで親愛なる先輩が部屋に来たのだとわかって、尻尾を振りながらその方を振り返るショウだが……?
「ど、どどどどどうしたんですか先輩その手の傷はッ……!?」
入り口に立つシャナの腕のなかには疲れた顔で目を閉じているカイが収まっているが、それより嫌でも目がいってしまうのはダラリと力なく下がった血まみれの手だ。止血はされていないようで、現在進行形で爪の先に伝った血がボタボタと床を濡らしている。
そんななかシャナは、力なく部屋の入り口に体を預けながらショウへ言う。
「あー、すまないが詳しい説明はあとにしてくれ。ちょっと頭がクラクラしてきてな……」
「す、すでに思いっきり貧血じゃないっすですかぁ! どうしてそうなるまで放って……ああもういいや! ちょっと待ってください先輩いま手当てしますからねッ!」
数十分後――。
「すまないショウ。助かったよ……」
床に横たわって腕で額の冷や汗をぬぐっていたシャナは、手当てをしてくれたショウへゴニョニョがささやくような音量で言った。傷を負った手は包帯で綺麗に巻かれ、ざらざらとした鳥ポケモン特有の肌は完全に見えなくなっている。
「ま、まぁ当然のことをしたまでなんでそれはいいんですけど……」
ショウはちらりと、いまは食堂へ出ていてこの場にいないシェフの寝床で、静かな寝息を立てて眠っているカイの方を見やる。
「カイは診なくていいんですか?」
「あいつはバトル疲れ。それに加えて泣き疲れて寝てるだけだ……。そっとしとけ……」
「……あんたら一体何したんだよ……」
ショウの本音全開な一人言は、どうやら貧血のシャナの脳内へは届かなかったようである。
「カイはな……」
「!」
と、シャナは額に腕を乗せたままうっすらと目を開く。
「誰かへの頼りかたを知らなかった。だから……どうにか自分なりにスバルを助けようと一人でしょいこんで、無意識に誰かを憎むことで彼女を助けられるだけの“強さ”を手にいれたかったんだろう……」
そして彼は、また辛そうに目を閉じる。
「俺が、早く気づいてやれれば……」
「――“俺たちが”、でしょう?」
シャナは、素早く言葉を食い込ませたショウを、首だけそちらを向いて見た。彼もまた、スバルが連れ去られた救助隊連盟本部に出向いた者として、責任を感じているように見えた。
「……ああ、そうだな」
シャナがそう言って力なく笑った。と、同時に――。
「お、お、おいショウ! な、なんか廊下に血がめっちゃ落ちててたどってったらお前の部屋んとこに続いてたんだけどお前心当たりは……」
バチッ。
面白いほどうろたえながら部屋へ入ってきたルテアと、床に寝そべったままのシャナの目が合った。
「――って、てめぇかよッ!!」
★
ヒュッ。
扉を開けると、鼻の先端の数センチ先に“鉄のトゲ”が通りすぎた。
「いいッ!?」
慌てふためいてとっさに体重を後ろにかけたときには、すでにそれはドスッ、と壁に深々と突き刺さっているる。
「……」
これには、いくら何事にも動じない天才医師キース=ライトニングもさすがに目をひんむいて、鉄のトゲを投擲した相手をものすごい形相でにらんだ。
「い、いったい何をしているんだい探偵君、危ないじゃないか!」
「……あぁ、ノックされなかったので気がつきませんでした」
鉄のトゲを放った当の本人――ローゼは、今しがた来訪者の存在に気づいようで、申し訳なさの欠片もない声で言った。
鉄のトゲが自分に当たると思って慌ててのけぞったために、骨折したあばらがズキズキと痛んだ。キースは白衣の上から胸の辺りを押さえつける。
「……君ねぇ」
だが、ローゼは上の空だった。椅子に座って背中は机に預けていで、ぼうっと上を向いているその目の下には数日では消えそうにもないクマが張り付いている。鼻の上に乗った見通し眼鏡はややずり落ちていた。
部屋の中の散乱ぶりは言葉では語りつかせそうになかった。歩くだけで舞い上がる床の紙切れ。壁一面には“イーブル”関連の資料の数々が、壁の色がわからなくなるほどところせましとピンで留められている。
だが、特にキースがゾッとしたのは、今しがた投げられた鉄のトゲが刺さった壁の、大きな地図であった。
探検隊がもらい受ける地図の何倍もありそうな、どうやら彼直筆らしいその地図。そこに目印のための無数のピンが刺さっているのにはまだ納得がいくのだが、それ以外に銀のハリ、鉄のトゲ、鋭い木の枝から木製のぺーパーナイフまで、ありとあらゆる鋭利な刃物が無規則に地図へ突き刺さり、穴をたくさん作っている。それ以外にもやけくそにしか見えない筆跡の数々が書き込まれ、あげくに地図のはしっこが大きく破れて、重力でピロリとはがれている始末だ。
もちろん、これを見たキースは彼の投擲技術を賞賛する気などなれず、人形のようにぎこちなく首をローゼに向けた。
「……精神科医紹介する?」
「結構です。大きい案件で行き詰まると、いつもこうなりますから」
ローゼはキースの半分本気なジョークを間髪いれずにあしらった。両手で頭を強くこする。彼がまだ人間だったなら、強く髪の毛をかきむしってふけが大量にばらまかれていることだろう。
「手がかりの紹介なら大歓迎です」
そして彼は、眼鏡を外して目頭を指で揉んだ。
「……いやはや……“イーブル”に関しては本拠地以外ほぼすべて解明したも同然なのですがねぇ……。いま必要なのはまさに本拠地! どれだけうまく隠密に過ごしているかわかりませんが、まったく手がかりがありません」
「それ探すために徹夜したの……」
「三徹です。そろそろ寝たい……」
「寝ればいいんじゃない?」
「いま寝たら次に起きたときにきっと、スバルさんはこの世にいませんよ」
「それは困るなぁ」
キースはまったく困っている口調ではなかったが、もとより二人は事の重大さを理解していても軽口しか叩けない性格だ。
「で、あなたはわざわざこの下宿のわたくしの部屋まで何のご用ですか?」
「ふふん、やっと聞いてくれたね探偵君!」
キースはやっと本調子に戻ったようだ。さっと額に片手をつけそう言い、白衣のポケットに丸めてつっこんでおいた紙の束をローゼに見えるようにかざした。
「君、さっき手がかりの紹介なら大歓迎……って言ってたかな?」
★
キース=ライトニングは、医者貴族の末裔でありながら、技や道具の開発者としての一面も持ち合わせる。だがそのほとんどが、ポケモンを対象とした己の実験への欲求から生まれる、下心の見え隠れしたものばかりだ。が、希に無駄に見えるような開発も思わぬところで功を奏したことがある。
例えば、ポケモンへの負担が大きすぎて誰も使えないと思っていたらシャナが使うことができた技――“フレアインパクト”。
例えば、飲んだ者の舌をしびれさせ、呂律を回らなくさせて笑いのネタにしようと思ったら、“敵縛り玉”以上長い間全身を痺れさせることができたお茶――“電撃茶”。
例えば、発動までに時間がかかる上に、一見して“麻痺”状態と何の差があるのかわからないと思っていたら、NDポケモンへの牽制に有効であった技――“ボルテックアシスタンス”。
例えば、場の音声を記録するだけで、イタズラ以外に使い道があるのかわからないと思っていたら、スバルとダークライとのやり取りをちゃっかり記録してしまっていた不思議玉――“記録玉”。
「もともと、カイ君とスバル君の診察ついでに試作品の実験台になってもらおうと、こっそり発動してきた不思議玉なんだけどね……」
キースは得意気に、驚きで目を見開いているローゼに演説を続ける。
「これがさ、大当たりだよ探偵君。私はあの時、“記録玉”を発動したままカルテを取りに行っていたから、その後のスバル君とダークライの声……そのまま入っていたよ。残念ながら記録された声を再生できるのは一度きりだから、こうやって紙に書き写してきたわけだが――」
キースが「ね」と言い切る前に、ローゼはキースの手から紙束を引ったくる勢いで抜き取った。そして机の上の資料を腕で全て払い落とし、紙束を置く。そして高速でそこに記されているであろう内容を目で追った。その間ローゼは一言も声を発しなかった。そんな彼の背中からにじみ出る気迫に、キースは彼の邪魔をしない方がいいと直感してしばらく黙っていた。
そして遂に、文字を追っていたローゼの目が、とある一文で止まる。
「……これは」
バラバラになっていた無数のピースが、彼の脳内で展開される。そしてそれらは、音を立てながら急速にかっちりとはまっていった。
「……なるほど、そういうとでしたか」
「あのー、探偵君?」
場の沈黙がローゼによって破られたことにより、キースはやっと声を上げることができた。正直、彼にはこの探偵の脳内でいったい何が巻き起こっているのか全く分からない。ぜひともその頭を解剖して見てみたいものだと思った。
と、彼がそんな物騒なことを想っていると、ローゼは何を考えたのか、キースの手を両手で取ってがっしりとつかんだ。そして、言う。
「キース=ライトニング先生、あなたは、わたくしの知る中で世界一の天才医者であり、開発者です」
「……」
キースの耳から、脳内へ。ローゼの言葉が送られたかと思うと、彼の中でその単語が輪唱とエコー付きでリピートされた。
――天才……。天才……! 天才……!!
今の今まで自称天才医者貴族と豪語してきたものの、誰かから面と向かって自分のことを天才と言ってくれる者に彼は会ったことがなかった。
ローゼの言葉を受けて彼は確信する。そうだ、私は天才だ。自他ともに認める天才マッド・ドクターなのだ!
「ふ……ふはははッ! そうだろう、そうだろう! 私は医者貴族の末裔、キース=ライトニングだ! キース=ライトニングだぞ! 大事なことだから二度言った! もっと崇め奉ってもいいぞ!」
「とりあえず、わたくしはすぐギルドへ向かいます。あなたも戻られるでしょう? 先に行って皆さんを呼び集めてもらってもよろしいですか?」
「お安い御用だ私にできないことなどない!」
キースは上機嫌で且つ興奮気味であった。ローゼの頼み(もしくはパシリ)にもすぐに反応し、土煙を上げる勢いでローゼの部屋、そして下宿から去っていく。あばらの骨折のことは、今の彼の脳内から完全に消え去っていた。
「……」
キースが去っていくのを確認したローゼは、再び机に両手をついて紙束を見下ろした。ふと、片手が机に転がっている銀の針に触れる。彼は条件反射気味にそれを持ち、振り向きざまに地図の貼ってある壁へと投擲した。
ズドッ、と音を立て、銀の針は壁へ深く食い込んだ。そのあまりの強い力に、ビィイインと針の持ち手が震えている。
そして針の先端は、地図の左下のとある島のど真ん中に、寸分違わず突き刺さっていた。
「やっと見つけましたよ――“イーブル”!」