第百三十五話 急襲
――キースの言葉がカイの胸に強く残っていた。自分が死ぬことを、ほかのポケモンに言うべきなのか。彼はこれからの身の振り方を考える。そしてその間に今度はスバルがキースの検査を受けるのだが……。
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カイは、検死同意書と書いてある紙を手に持って「もし君が死んじゃったら検死させてくれるかい?」という洒落なのかマジなのかわからない質問をするキースをさりげなくかわし、ラボから出てスバルとバトンタッチした。スバルは外の木のベンチで待っている間手持無沙汰だったようで少しむくれていた。
「何か暇をつぶすアイテムでもおいてくれればいいのにー」
「う、うんそうだね……」
彼はラボでのことで頭がいっぱいで、スバルの言葉もほどんと耳に入っていないようだった。スバルはそんなパートナーの様子に若干違和感を覚えながらも、ラボへ続く扉を押した。
「――さて、今度はスバル君だね」
キースは椅子に座ったまま伸びをして、入ってきたスバルへ一言そう声をかけた。彼女はさきほどの会と違って別段怖がったりはせずに気楽に黒い椅子へ腰を下ろす。
「はーい」
「よし、ではさっそくあんな検査やこんな検査をだね……っと」
嬉々とした表情となってデスク上の書類をあさるキースだったが、書類を広げても目当てのものが見つからなかったららしく眉をひそめる。
「ありゃりゃ。白紙のカルテがない。この私としたことが!」
彼はオペラ俳優のように大げさすぎる動作で席から立ち上がり腕を広げて嘆いた。スバルはその動作に思わず少しのけぞる。危うく彼の手が顔にクリーンヒットするところであった。
「すぐに取りに行ってくる! 少し待っていてくれたまえ」
「は、はぁ……」
彼は野に放たれたテッカニンのような素早さでラボから走り去る。スバルはその残像をただ目で追うしかできなかった……。
「あぁあああああッ! せっかく珍しい被検体がいるというのに! 倉庫まで行く時間がもったいない!」
キースは羽織っている白衣の裾をはためかせてダッシュする。どうやらキースのこの行動は珍しいものでもないらしく、彼を知る者は彼が風を巻き起こしながら走り去っても別段気に留める様子もなかった。そして「医療用品倉庫」と書かれた看板の扉の前で、キキーッと音が立ちそうなほどの急ブレーキをかけるキース。すぐにドアノブを回し、乱暴に中へ押し入った。
辺りは薄暗く、倉庫というだけあって様々なものが散乱しており埃っぽかった。キースはそんなただでさえ汚い倉庫をさらに荒す勢いで倉庫内の置物を片っ端からひっくり返す。その間にも「カルテ、カルテ、カルテ……」と目的のものを呟くことも忘れない。
と、不意にそんなキースの肩を叩く者がいた。だがキースは無論そんなものにかまっている暇はない。
「なんだい今私は取り込み中なんだ邪魔しないでくれ!」
手当たり次第にものをかき分けながら、下を向きつつ素早く肩を叩いた者の方へ振り向く。すると視界に入りこんできたのは、何も書いていない数枚のカルテだった。
「おおお! そうそうこれだよ! 見つけてくれたのかありが……ん!?」
そして、ここにきてキースはこの状況の違和感に気付いた。顔をこわばらせて視線をバッと上へと上げる――。
鼻の先で、青く光をたたえた不気味な目がこちらを見ていた。
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「キースさん、戻ってくるの遅いなぁ」
かれこれ五分ぐらい椅子に座りながらキースが戻ってくるのを待っただろうか。先ほどから待たされてばかりのスバルはその五分間がかなり退屈な時間に感じられた。
ラボに視線を移す。一流の医者にあてがわれてた部屋だけあってその奥行はなかなかのものだった。ギルド内でも見ることのない大きな手術台が真ん中にどん、と置かれていて、その周辺には四角い箱のようなものや複雑に伸びたチューブのようなものも所狭しと置かれている。
――なんだかここ、すごく……見たことがあるような場所だ……。
スバルはなんだか胸がざわついた。どういうわけか、この場所は落ち着かない。ここには初めて訪れたはずなのに、どうして居心地が悪いのだろう。
スバルは右手を首の後ろに持っていく。
そういえば、夢から脱出するときに、首の後ろに何かチクリとした違和感を覚えたを思い出した。あれは、いったいなんだったのだろう。そのご数日間生活してみても特に異常はなかったが、検査をすると聞いたときにこのことはキースに話しておこうとスバルは思ったのだった。
キースが早く戻ってこないかと、彼女はラボの入口の扉をちらりと見る。
「白紙のカルテ、見つからないのかなぁ」
「――くくっ、そんなことはなかったよ」
――ゾクッ。
背後にものすごい悪寒が走った。スバルは弾かれたように立ち上がって振り返る。黒い椅子が勢いよく倒れた。
彼女がその姿を目で認識した時には、もう電気袋にありったけの電撃をためていた。声の正体はわかっている。スバルは何の言葉も無しに、ただ自身の恐怖に忠実に行動した。何のためらいもなく電撃を繰り出す。
否、繰り出そうとした。だが、その瞬間――。
――ビキィッ!
「う……ッ……!?」
首筋から、なにかがちぎれるような、破れるような。そんな感覚の“音”がしたような気がした。だが、そう思った時にはもう視界がひっくり返って床のひんやりとした感覚を肌で感じていた。いつの間に、彼女は力なく地面に倒れていたのだ。
そして、倒れた視界の先にはゆらりと揺れる黒い姿の断片が見えていた。
「くくく……やぁ。また会ったね」
そして、その声の主は、倒れたスバルの視界に姿を現す。
――ダークライ。
そう、スバルは声を出そうとした。しかし、口やのどから自由に声を出すことができなかった。何かの金縛りにあったかのように、うまく自分の体を動かせない。開きかけた口から息が少し漏れるだけであった。
「何が起こったのか、という顔をしているね。スバル」
そんな彼女の様子を見たダークライは、肩を揺らしながら言う。そして、“サイコキネシス”を使いスバルの身体を浮き上がらせ、手術台へと押し付ける。
「部屋の外にいるヒーローに勘付かれたら困るのでね……。くくっ、君は叫んだらうるさそうだ」
どうして、キースが来るはずなのにダークライが来たのか。スバルは思考を巡らせた。キースは倉庫へカルテを取りに行った。そうか、その時に隙を突かれて攻撃をされたのか。一つの結論が浮かび上がってキースの身を案ずるスバルだったが、ダークライが再びこちらを向いた瞬間、そんな感情も恐怖で一気に塗りつぶされてしまった。
いったい、自分に何があったというのか。いきなり首筋に違和感を覚えたと思うと、体の自由が利かなくなっている。ダークライが仕掛けたことなのはわかっていた。しかし、いったいどうやって。そして、どうして。その理由がわからないことが、スバルの恐怖を倍増させていた。
「怖いかい? くくっ、まあそうだろうね。なに、時間はまだたっぷりとある。少し私と話でもしようじゃないか」
ダークライは手術台に横たわるスバルに言った。そして、ゆらゆらとその場を浮遊する。
「実はね。カイの夢の中に入ってナイトメアダークをかけたのは、おまけみたいなものだ。もちろん、あのまま彼を覚めぬ眠りに引きずり込めたらラッキーだったけど……」
そしてダークライは、音もなく手を上げてスバルを指さす。
「“イーブル”のボス……彼のご所望は君だよ、スバル」
スバルは目を見開いた。そして、どうにか金縛りに抵抗しようと必死に体を動かす。
「……っ、ど……っ……」
「『どうしてボスが私を?』。そうだね、確かに気になるところではあるんだけど。くくっ、知らなくていいこともあるさ。とにかく、無傷で君を連れてこいとボスに言われてね。夢の中で、すこし君に細工をした。いやむしろ、そっちが夢の中での真の目的だったのさ」
ダークライは、カイが危機に陥ればスバルが必ず夢の中へ助けに来ると踏んでいた。彼からすれば、カイやルアンとのやり取りは余興に過ぎなかったのである。
「首筋から、君の脳内へ……少し術をかけたってわけさ。君の心と体を支配するための、ね。そうするのが無傷で連れて行くのに一番手っ取り早い」
スバルは、今までに感じたことのない恐怖と焦りを感じていた。このままでは、自分は“イーブル”に連れ去られる。いったい彼らが何の目的で自分を連れ去るのかはわからないが、そうなってしまうとなにかとてつもなくまずいことだけは直感でわかった。
電撃を頬に溜めて一矢報いたいが、やはり全身の力が入らない。必死に頑張ってまばたきができる程度だ。完全に体を支配したわけではないらしいが、それでも一歩も動けないのに変わりはない。そして、ダークライへの得体のしれない恐怖心が彼女の心をむしばむ。いったい、自分は何をされてしまうんだろう。
――いやっ……。
何もできない恐怖は今までに味わったことがなかった。誰も助けてくれない。自分で動いて状況を打開することもできない。今のこの心理は、絶望という名がふさわしい。
「くくっ……いいね、その表情。君は今まで、どんな時でも希望を捨てたことが無かったろう? もっともっと、絶望してくれないかな?」
ダークライが、一歩一歩とこちらへ近づいてくる。
「っ……やッ……!」
「実はね、スバル。私はボスに、『体が無事なら精神はどうなってもかまわない』と言われているんだよ――」
ダークライの手には、彼がいつも“おもちゃ”と豪語する銀の針が握られていた。
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「くッ……わ、たし……と、したことがッ……!」
キース=ライトニングは床を這っていた。白衣はところどころ破けており、そこから血が滲んでいる箇所もあり、満身創痍というのがふさわしい痛々しさだった。
――これは、あばらも数本いっちゃったかな……!
だが、それでも力を振り絞って、前に進むのをやめない。どれだけ無様な格好をしていたとしても、自身のプライドよりももっと重大なことが、自分のラボで起こっているのかもしれないのだ。
「ダー……クライ……!」
いったい何をするつもりで、“悪の波動”で奇襲をかけさらなる攻撃をキースに加えたのか。このタイミングで現れるとしたら、目的は明らかになったも同然だった。
――カイ君の時に襲わなかった……ということは、目的はスバル君か!
「彼女がッ……あぶな、い……!」
どうにか、カイのところへまでたどり着きたかった。こんな重要なときに限って、倉庫とラボ間の廊下には誰もいない。キースは救助隊の能無しどもを全員罵ってやりたい気分だった。
今にも手放しそうな意識をどうにか精神力でつなぎ留め、彼はラボへと匍匐前進をする。
――あんなやつに……私の神聖なラボを穢されてたまるものかッ!
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銀の針の先端が、スバルの左肩の皮膚に触れた。少しでも力を入れれば鋭い痛みが襲ってくるだろう。スバルの呼吸が荒くなる。強い技を受けているわけでもない。それに、たとえ痛みがあっても、傷ついても、命に別状はない。そのはずなのに、恐怖ばかりが風船のように彼女の中で膨張する。
――やめて……やめてッ……!
上から見下ろす不気味な目、手術台の上で動けない自分、ラボという空間。この空間と状況が、自分の中に眠っている“記憶”に反応していた。その記憶が、恐怖の原因だった。
「なにか、思い出すことでもあるのかな?」
ダークライは、スバルの心を見透かしてそう問いかけた。何もかもをわかっているくせに、わざとらしい問いかけだとスバルは思った。
「君の記憶が封印されているのは……その記憶に、精神が耐えられないからじゃないのかい? なら、思い出したら……どうなるんだろうね」
そうつぶやき、ダークライはほんの少し片手に力を注いだ。
「――ッ!」
ぷつり、と嫌な音を体で感じる。そして、痛み。銀の針の先端が皮膚に浅く食い込んだ。
「っ……! ぁ……や……めッ……!」
視界がぐるぐるとまわる。激痛。
どういうことかわからなかった。実際は針が少し刺さっただけのわずかな痛みのはずだ。なのに、彼女は全身に激痛を感じていた。ダークライはその様子を見てにんまりとした。スバルには見えていないが、彼の持つ銀の針の周囲が黒いオーラをまとっていた。
「君の記憶の底に隠れた恐怖――見せてごらんよ」