第百三十話 夢の中へ 4
――スバルから力をもらって、僕は夢の世界との決別を決意した。しかし、思い出に向かって別れを告げた瞬間、リンの体が溶け出して……!?
★
リンの体が、蝋のようにドロドロと溶け出す。ま、まさか……! そんなことが……!?
溶け出した箇所は黒く染まっていき、床にぼとぼとと落ちていく様子を僕は直視することができなかった。だんだんと近づいてくる、もはや生き物の姿をしていないそれに、僕は後ずさりする。
「カイ……私を、置いていくのぉ……?」
「……!」
君は、いや、こいつは……! リンじゃない! 僕の知っているリンは……!
――行っておいで、カイ――。
決して僕にあんな言葉を投げ掛けたりはしない!
なんてことだ、僕は今までこれをリンと思いながら一緒に過ごしていたというのか!
僕は腕に力を込める。白い波導の刃を両手に作り上げ、もう体のほとんどが黒い泥と化した物体へと向ける。
「く……来るなッ!」
黒い陰が僕を飲み込もうと、ゆっくり、しかし着実に僕に向かって這ってくる。目の前に広がる光景は今までに見たどんな悪夢よりもたちが悪い。腕が震えてるよ、僕! しっかりするんだ!
と、その時。
「カイーッ!」
バァン、と家の扉が開かれた! 蝶番が壊れんばかりの乱暴な扉の扱いで家のなかに飛び込んできたのは、僕のことをここまで助けに来てくれた、スバルだった。
でも……!
「来ちゃダメだッ!」
「えっ……!?」
黒い陰はスバルが姿を表した瞬間、攻撃の対象をスバルへと変えた! そのみてくれからは信じられないような速さで彼女を飲み込もうと飛びかかる!
「スバルッ!!」
「ぁッ……!」
彼女は何が起こっているのかわからずに動けない。だめだ! スバルを……守らなきゃ! あの黒い塊から……!
考えるより先に足が動き出していた。すべてがゆっくりと動いて見えた。僕は走った。今にもスバルを飲み込もうとする陰と、固まっているスバルの間に割って入る。彼女を押し退ける。スバルが強く床に倒れる音がして――。
黒い闇の塊が、僕の足元に絡み付いた。
「いやぁッ! カイ! カイーッ!!」
まずいッ……! 引きずり込まれる……!
★
「ルアンッ……! やっと……やっと会えました……!」
「……」
ルアンは目の前に立つ存在に、目を疑い思わず一歩後ずさりした。
彼の前には、ドレディアがいる。ダークライが化けたはずのドレディアだ。だがルアンの目にはどうにも、彼女が自分の記憶の中の最愛のポケモンに見えてならなかった。
「……違う」
「ルアン! 一人で、どれだけ寂しかったか……!」
「違う」
――違う。彼女は……エクは、もう、とうの昔に死んだはずだ! 目の前にいるのは、幻だ……!
頭では必死にそう自分へ言い聞かせる。すると胸のなかに、彼女と過ごした美しき日々のことが次々とフラッシュバックする。まだルアンが、時代の中で生きていた頃の記憶たちだ。
『私の名は、エクです』
『お願いです! 力を貸してください……ルアン!』
『どうして……こんな無益な戦いであなたが命を捨てなければならないのでしょうか……』
『お願いです……ほんとうは、消えてほしくありません……! だって――』
ルアンは瞳に強い光を取り戻した。そしてすぐに両手を合わせる。
「森羅万象の波導――」
ダークライが化けたエクからルアンに発せられる声。しかしルアンはこれ以上うろたえはしなかった。目の前の幻の彼女は、ルアンの中の美しい記憶とあまりにもかけ離れていた。
『――あなたを、愛していますから――』
「――千草の舞」
「!」
エク――ダークライの周りの地面から、蔦が勢いよく地上へ飛び出した。ダークライはルアンの記憶の中のドレディアの姿を再現することに集中しきっていたせいか、その蔦への対応が一歩遅れる。その間に、ルアンは情けも容赦もかけずに、蔦の先端を一気にダークライへつき出した。それはもちろん彼から見れば、最愛の姿をした体に風穴を開ける行為に等しい。
「ルアンッ……! やめてくださいッ! お願いです……ッ!」
「愚かだな」
ダークライは“悪の波動”で迫りくる蔦を相殺しながらも、懲りずにルアンの脳内へエクの声を送り続けた。しかし、そんな声もルアンの心には届かない。彼は無心となり、隙のできたドレディアの体に蔦を絡ませて拘束、ギリギリと締め上げる。
「また地面に逃げられては叶わない。こうすれば少しは大人しくなるだろう」
「ぐ、ぐぎぎィ……!」
「どうやら、声真似をする余裕すらもないようだな」
「な、なぜだァ!? こいつには、強い暗示を……ッ! どれだけ耳をそらしても私の姿が本物のドレディアだと思わせるように暗示をかけたというのに……! 夢の中でッ、私の力が通じないだと!?」
ルアンは必死に叫ぶダークライを鼻で笑う。
「何が面白いんだルアァアンッ! この姿の苦しむ姿を、なぜ余裕な顔して見ていられるんだよォオオオ!?」
フッ、と。ルアンが真顔になった。
「エクは、死んだ。もう何千年も前の時代で、その生を全うしたはずだ」
その顔にはなんの表情もなかった。悲しみも、憎しみも、なんの感情も張り付けていなかった。
「貴様は……かつて私が英雄という単語で激昂したように、今回は最愛の者の姿になってそれを弄べば私が取り乱すとでも思ったのだろう」
ただ、ダークライをあわれむように見ていた。
「だが私は、もう英雄の業を憎んだりはしない。私の生きた時代から私だけが現代に取り残されても、運命を恨んだりなどしない」
ルアンは、動けないダークライに向かって両手を振り上げる。
「もう、心の整理はついている!」
――この時代にも、守るべき者たちがいるのだから!
「森羅、万象――」
彼のつき出した両手、その周囲の空気が動き始める。そして彼が両手をそれぞれ左右へ素早く動かすと、ボッと空中で火種が着火する。みるみるうちに巨大化していく火種は、数秒もたたないうちに炎の塊へと巨大化していった!
「――業火の舞」
それを、蔦に拘束されたダークライへと撃ち込もうとした、その瞬間。
「――いやぁッ! カイ! カイーッ!!」
「!」
家のなかにいるはずのスバルの叫びが、ルアンの耳を突いた。彼はそのただならぬ叫びに気がそれてしまった、業火の塊はみるみるうちに萎んでいく。
「……あはは、ははははッ!」
ドレディアの姿をしたダークライは、ルアンのその様子を見て、狂ったような笑いをもらす。
「ダークライ、貴様……なにをしたッ……!?」
「くく、いやさすがに……君とカイの二人をいっぺんに相手するのは無理だからね……」
さきほどまで“なぜだ”とうろたえていた様子が嘘のように、ダークライはさも楽しいという風に不気味に笑って見せた。
「カイの方を先に……二度と覚めない闇の中へと、ね」
★
「いやぁッ! カイ! カイーッ!」
カイが自分をかばったばっかりに、黒い泥に足元をからめ捕られてしまった。
リンの姿をしていた化け物は、カイを闇へと引きずり下ろすと言わんばかりに、したから少しずつ彼の全身をつつみこもうとしていた。そして、黒い塊の一部はすでに床の下へずぶずぶと沈んで行っている。まるで、ダークライが陰と同化するときのように。
スバルの鼓動が激しくなる。ドクンと血の回りが激しくなって、頭がのぼせそうだった。どうすればいいのかわからずにパニックになる。
「カ、カイッ! 今助けに――!」
「ぐッ……! スバルっ、来るなッ!!」
カイに向かって一直線に走ろうとした瞬間苦しそうな、だがスバルにほかの選択肢を許さぬ断固とした口調で彼女の動きを止めた。
「君まで……巻き込まれる……ッ!」
そう言うカイは息も切れ切れだった。その間にも泥のような闇はカイの腰のあたりまでその手を広げている。どうやらあれに取り込まれたら力を奪われてしまうようだった。
「カイ……!」
「ごめ……ん……! スバル……! せっかく会えたのに……また……!」
そういうカイは、悲痛に笑っていた。まるで、自業自得だと言わんばかりに。
「これは……僕を、闇に……引きずり下ろすつもりらしい……!」
もちろん、そんな表情のカイを見てスバルが動揺しないはずがなかった。彼女は首を激しく横へ振る。その度に彼女の目の縁から涙が飛んだ。
――そんな……! カイは、悪くないッ……! 悪くないのに……!
「や、やだッ! いかないでカイ! 手を……手を伸ばして!」
「だ、め……だ……! います、ぐ……逃、げ……!」
――スバル早く……! 僕の目が覚めなくなる前に……! この夢が、壊れる前に……!
黒い闇が肩へ、そして首元へ。カイの視界がぼやけて、目の前が暗くなっていく。
そしてカイは知らぬ間に、すでに意識を失っていた。
スバルは直感で理解していた。あの闇は、カイを食い尽くした後の標的を自分に定めることに。いや、だがその前にカイが闇にとらわれてしまえば、この夢の空間はすぐに壊れ始める。
その前に、この化け物からカイを救わなければ。だが、いったい、どうやって?
――どうしよう! こういうとき、どうしたらいいの!?
どんな障害が立ちはだかっても、その場で瞬時に打開策を練ってくれるローゼはこの場にいない。夢の中で何よりも頼りがいのあるルアンは今ダークライの相手で手いっぱいだ。こういう時、ルアンなら? ローゼなら?
ルテアなら? シャナなら? ミーナなら?
スバルはパニックと冷静さの狭間を行き来しながら、呼吸を荒くして必死に考えた。
――ぐ……スバルッ!!
「!」
彼女は何かを思い出した。
カイと初めて会ったあの場所。シャナが師匠になったあの場所で――。
――これを……俺の周りにまとわりつくこれを……はらってくれ!!
「そうだ!」
カイと初めて会ったあの場所で、師であるシャナがナイトメアダークに陥ったときも、“十万ボルト”でまとわりつく黒い霧をはらったではないか!
スバルは覚悟を決めた。足場を固め、頬の電気袋に電気をためる。一か八か。スバルは奮い立った。師である師匠の黒い霧をはらった時のように、いまここでカイにまとわりつく黒い闇をはらってみせる、と。
――心を、強く!
夢の中では意思と意志の強さがすべてだ。だが逆に言えば、たとえ現実の世界で経験不足なスバルでも、心を強く持てば強い電撃を作り出せるということだ。
――カイ、あなたを……必ず、助ける!
スバルはさらに力を込めた。電気は頬の電気袋だけでは抱えきれず、耳の先から尻尾まで、全身の体毛が帯電した。
――必ず、助ける!
帯電していた電気はそれだけにとどまらず、一部は放電をしていた。瞼が重い。尋常ではない冷や汗が流れる。いまだかつて抱いたことがない強い電撃で全身に激痛が走る。だが、それでもスバルは構わずに電気をため続けた。後にどんな後遺症が待っていようとも、ここでカイを救うことが彼女の一番の願いだった。
「ぐぅッ……! ああぁッ!」
――お願い! カイを助けられるだけの電撃を! あの闇をはらうほど強い電撃を!
『キミノネガイ――』
「!」
朦朧とした意識の中で、確かな声が聞こえた。火事場のなかで冷や水を浴びるように、凛とした声がスバルの脳内に響く。
『――カナエテアゲルヨ』
ゾクッ。
意識を集中していたはずのスバルは、その声に背筋が凍えた。
この声はかつて“眠りの山郷”で、自分の願いを聞き届けた代わりに、死の恐怖を与えた声だ。その死の恐怖を、スバルは再び全身で思い出した。
「い、いやッ……!」
――やめてっ……! こんな時に……!
もう、あんな恐怖ニ度と味わいたくなかった。あの時にもう二度と、この声には従わないとスバルは決めたのだ。
「やめてッ! 邪魔しないでッ!」
声が裏返るほど強く叫んだ。しかし。
『……チガウ』
「……えッ……!?」
『イッショニ、アノコヲ、スクオウヨ』
電撃による閃光で視界が定かではない中、そして死の恐怖とカイを救う決意とで意識が混濁する中、スバルはその肩に、何者かの手が置かれるのを感じた。
『スコシダケ、キミニデンキヲワケヨウ。――ウッテ』
今は考える暇がなかった。今は相手がだれであろうと、カイを救うためにはどんな力でも貸してほしいと思った。
スバルは言われるがままに電撃を最大限にまで引き上げて、思いっきり強く眼前に撃ち放つ。
「お願い――【“十万ボルト”】ッ!!」