第百二十五話 ケンカ
――憎しみが沸点を越えて、もう逆に、僕は何に対しても興味が失せてしまった。このまま静かに眠ってしまえば。もう、何も失わなくて済む。
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「おおー! 派っ手にやられたねぇ!」
救助隊であり医者貴族であるデンリュウのキース=ライトニングは、目の前の新たな実験台、ならぬ患者に目を丸くした。もとい、喜んだ。
そして患者、つまりガメノデスのメデスの傷の一つを平たい手でちょこんと触れる。もちろん、触れられた方は電撃でも食らったかのような心地である。
「いっででででで! おい! てめぇまさかヤブ医者じゃねぇだろうなぁ!? 誰かこいつをしょっぴけぇえええ!」
「ふはは……そうやって私の腕を疑う実験台ほど、実験のし甲斐があるね……」
「お、おいちょっと待――ぎぃやぁあああああああ!!」
「――と、いうわけなんです……すいません! うちのリーダーが何もかも悪いんです……!」
絶叫がかろうじて届かないギルドのとある一室では、状況の一部始終を知っているカチコールが、シャナやスバル、ルテアといった面々に事情を説明していた。ギルドでは、主にレイの存在のおかげか否か、カイが同業者をボコボコにしたという話でパニック状態だった。
そして、話を聞き終わって最初に声をあげたのは――。
「くそッ! 今から二人をとっちめてやる! あぁん!?」
――ルテアだ。
今にも土煙をあげて走っていってしまいそうなルテアを見たスバルが必死になって彼の前に立つ。
「お願いッ! 今はカイをそっとしておいてあげて!」
「座れルテア」
「いててて! おいだから尻尾をつかむなっつうの!!」
シャナがすかさずルテアにいつもの制止をかけたことで、なんとか場が落ち着く。そしてシャナは複雑な表情で向き直った。
「えっと、カチコールさん……」
「コーリンです」
「あぁ、コーリンさん、わざわざ説明してくれてどうも」
「いえ……今回はぼくとリーダーが何もかも悪いんです……でも」
カチコール――コーリンは全身をブルブルと震わせる。
「あのときの彼……憎しみ……かな、目がギラギラしていて、とても怖かったです……! うぅ……」
それを聞いたスバルは、目に涙を浮かべるしかなかった。本当は、本当のカイは、もっと優しいのに――。
「あぁあ! 俺もう誰を殴ればいいのかわかんねぇ!」
「お前が誰かを殴るとややこしくなるから大人しくしとけよ?」
「ルテアが誰かを殴るとややこしくなるから大人しくしててよ!」
シャナとスバルの声が重なる。
「とりあえず、今日はもう帰ってもらっても大丈夫だコーリンさん。明日また来てくれるか」
「は、はい……すいません……!」
コーリンはよいしょと四本足で出口へ向かい、部屋を出てパタリと扉を閉めた。その瞬間、場にいた三人は深いため息をつく。
「どうしよう、私がカイを無理に連れ出したりしなかったら……!」
「自分を責めるんじゃねぇ。落ち度はゼロってわけじゃねぇが、お前が今日連れ出さなくても、いつかこうなることだったろうよ」
ルテアが慰めというよりうがった意見を述べた。シャナは黙って椅子に背を預けそれを聞き、スバルは我慢できず目をごしごしと擦る。
「私っ、カイと一緒にいるのがいいのかそっと一人にしておくのがいいのか、わからないよ……!」
「あーあー、泣くんじゃねぇよまったく! お前も辛いってそんなこたぁ俺たちがよく知ってるっつうの!」
「ルテアぁ!」
ルテアが尻尾を器用に使ってスバルの背を押した。押されたスバルはなされるがままルテアの体毛に顔を当てて泣く。
「師匠……カイどうなっちゃうんですか?」
「とりあえず今回の騒動の処遇は親方が決めるだろう。だが、カイの根本の問題は――」
シャナは椅子の背もたれから背を離し、前屈みになって組んだ腕を顎に当てた。とても苦渋に満ちた表情だった。
「――俺たちが、いったいどうすればいいのか……身の振り方がまったくわからない」
「……」
スバルはシャナの言葉に弾かれたように顔をあげる。そうだ、やっぱり今まで一番近くにいたカイを、励ましてあげられるのは自分しかいないと思った。
――今まで私は、カイにどれだけ助けてもらったか……。今度は、私の番だよ……!
「私……カイのところに行くっ!」
「お、おいスバルちょっと待て!」
スバルが走り出したのに気づいたシャナが慌てて彼女を止めようとしたが一歩遅かった。スバルはルテアの脇をすり抜けて外へ出る。
「スバル……! 今のカイは不安定なんだぞ……!」
★
夜になって、一人部屋のなかにうずくまっていた僕のもとへスバルが来た。足音でわかった。なんだか、一歩一歩が慎重な足取りで、なんだか僕を腫れ物に触れるみたいな扱い方だなぁ、と思った。
「……カイ……?」
「……あの二人……」
「え?」
「あの二人、どうなった……?」
我ながら情けない声だ。かすれてスバルの耳に届いたかもわからない。
「え、あぁ……。うん、ガメノデスさんの方はキースさんが診てるよ。命に別状は無いみたい」
「……そう」
自分が怖かった。あの時、黒い感情に任せて誰かを傷つけた自分が。今でも、何かの拍子であの感情に支配されてしまったら……。
誰かを傷つけるなんて……僕は最低だ……!
「カイ……大丈夫だよ。私もそばにいるから……」
「……」
「ほ、ほら……私は、カイのことも、ルアンのことも、どっちもよく知ってるから……」
ルアン、か。スバルも、こんな僕なんかより、ルアンと一緒にいた方が幸せなんじゃないのか?
強くて、優しくて、英雄で。僕の無いものが全部揃ってて――。
あぁ、だめだ。また、あの感情に支配されてしまいそうだ。
「だから、辛かったら私に何でも吐き出してくれてもいいんだよ? 私……話、聞くよ?」
なんで、そんなに……必死になって僕に構おうとするんだ。
本当は、内心どうすればいいのか、全然わからないくせに。
そんなので僕のことが、わかるなんて言われてたまるか。
「……っとい……」
「なに?」
「もう、放っておいてよッ!!」
ビクッ、と。スバルが肩を震わせた。目がへの字になって。何を言えばいいのかわからずに口を半開きにしている。
「君に僕の、何がわかるっていうんだッ! 君にリンを失った気持ちがわかるって!? 英雄だって期待されたり、嫉妬されたりする僕の気持ちがわかるの!?」
「カイ……そんな、私は…」
「僕は……僕はッ! 英雄じゃない! 僕はルアンじゃない! 僕はカイだッ!」
いや、違う。なにかが違う。
「誰も……! 誰一人として僕の気持ちなんてわかりやしない!」
やめろ、それ以上言うな! なにか……。取り返しのつかないことを言ってしまう前に――!
「だからスバル……君も、僕のことを知った風に言うなッ!」
肩で荒い息をする音以外、しんとした空気が耳に痛かった。スバルはしばらく、黒い瞳を僕に向けていたが、やがて――。
「私はただ……カイのためって、思って……! それだけなのに……!」
「……あ……!」
時はすでに遅かった。
僕がなにかを言う前に、彼女はダッと踵を返して走り出す。部屋を出て僕一人。辺りは先程よりもひんやりとした沈黙に包まれていた。
全身の力が抜けて、僕は座り込んだ。頭が真っ白になる。
馬鹿だ。なんてことだ。
僕は……僕は、何か取り返しのつかないことを、してしまった……。
★
スバルは走った。ギルドの通路を通り抜け、門をくぐり、ギルド裏の広い野原まで一直線に走った。時おりリオナやらムーンやら、門番のルペールやら何人かの弟子とすれ違って何事かという表情をされたが、今のスバルにはその何もがよく見えなかった。
走って、走りきって、満月以外誰も見ていない所まで出て、彼女はようやく声をあげた。
「ぅううう……! カイのバカぁああああああああああああああッ!!」
大声で泣いた。
こんな気持ちは、今まで味わったことがなかった。悲しくて、悲しくて、仕方がなかった。カイがあんなことを言うなんて。あんな優しかったパートナーが、あんなに冷たい言葉を放つなんて。辛い境遇をいつも助けてもらった彼の言葉だからこそ、受けたときのショックが大きかった。裏切られたとさえ、思ってしまった。
自分が今までどれだけ、カイのことを心配したと思っているのだろうか。誰よりも彼のことを親身になって考えたというのか。その気持ちをそんな風に受けとるなんて、いろんな感情を踏みにじられた気持ちだ。
「……スバルさん!? ど、どうしたんですか……? みんなビックリしてましたよ」
と、バタバタとせわしなくこちらへ向かってくるポケモンがいた。振り返ってみると感謝ポケモンのシェイミがいた。
「み、ミーナさん……うわぁああああ!」
「わぁああっ!?」
スバルはミーナを張り倒さんばかりに強く抱き締めて思いっきり涙を流した。ミーナは目を白黒させて戸惑っていたが、しばらくなされるがままにしていた。
「ま、まさかカイさんの口からそんな言葉が出るなんて……スバルさんも予想していなかったですよね」
「ぐすっ……うぅ、もう、ショックで……立ち直れないよぉッ……!」
「カイさんも、スバルさんも、ここ最近は特に辛かったですよね。どちらも、悪くはありませんよ。悪いのは……」
――そう、ここまでこの子達を追い込ませているのは、“イーブル”です……! 悪いのは、彼らです……。
「私……カイのことを、なんにもわかってあげられない……」
「そんなことはありません、スバルさん。きっとカイさんもそんなこと言うつもりじゃなかったんですよ。もう一度落ち着いたら、彼と話しましょうよ。ね?」
「でも……私、カイのそばにいない方がいいんじゃあ……」
「んもう! 何を弱気になってるんですか、らしくありませんよ! カイさんのパートナーは、きっとスバルさんしかいませんってば!」
スバルは、少し深呼吸をして目元をぬぐった。
「落ち着きましたか? そんなに難しいことを考える必要はありませんよ。要はただのケンカです」
「う、うん、そうですね……」
「今はカイさんも心が不安定なんですよ。今夜はとりあえずスバルさんも私の部屋で過ごして……頭が冷えたら、仲直りしにいきましょう!」
にこり、と見た者を不安から解き放つような暖かな笑みを浮かべたミーナに、スバルもつられてぎこちなく笑う。
「ミーナさん、ありがとう」
★
次の日。太陽も大分高く登って昼に近くなった頃、スバルはひょっこりとカイのいる部屋の角から頭を覗かせる。
「うぅ、仲直り、できるかな……」
そんなスバルの下から、同じようにひょこっと顔を覗かせたのはミーナだ。
「今回は私もついています、できるだけ円満に解決するようにガイドしますね!」
ミーナの言葉に背中を押され、スバルは決意を胸に頷く。そして、部屋の前に立ち一歩を踏み出した。
「カイ? いる――?」
ハッ、と。息を飲んだ。部屋に入って、いつもの寝床に、カイは確かにいた。
だが。
「カイッ!!」
強く、苦しくうなされながら横たわるカイの体には、黒いオーラがまとわりついていた――。