第百十五話 敵か味方か
――急に胸の辺りが苦しくなったかと思うと、僕はいつの間にか暗い場所にいた。そこにいると僕は、なぜだかわからないけどすごく悲しくて、苦しくて、とても寂しい気持ちになった。
そして、僕は気づいたんだ。ここは、僕ではない誰かの、感情の澱だということに。
でも、どうして僕はこんなところにいるんだろう。僕の体は、いまいったい誰が動かしているの?
★
いまだかつてないほど波乱の内に幕を閉じた“英雄祭”から一週間ほどが過ぎ去っていた。だが、それでもまだトレジャータウンの不安が晴れることは無い。それはギルドの探検隊たちもよくわかっていた。住民たちが本当に不安が晴れるときは、“イーブル”が壊滅しナイトメアダークが消滅したその時しかないということを。
さらには、いつのまにかスイッチの入ったマイクに“イーブル”のボスとルアンの声が入り、それがトレジャータウンすべてのスピーカーに拡散されたことも、住民の不安をさらに増大させることとなった。ルアンという存在は一部を除いて誰も知らなかったのだから、当時の会話は、事情を知らないものからしたらカイがしゃべっているようにしか聞こえないだろう。
そして、彼らの会話の間に出た“英雄”というキーワードこそが、探検隊と町の住民を混乱させている主たる理由なのである。
“英雄”とは?
この単語を聞けば恐らく誰もが、紛れもなく“英雄伝説”の英雄を思い浮かべるだろう。確かに“英雄”は、歴史上に存在した偉大なポケモンである。それは間違いない。しかしもちろん、そんな英雄が現代に存在するわけがない。
では、スピーカーに拡散された会話は? 会話の流れからして、イーブルのボスはまるでカイが(正確にはルアンが)英雄かのような口ぶりであったし、会話をスピーカー越しに聞いた者たちもそう思わざるを得なくなる。
しかし、そんな英雄かもしれないポケモンが、壊してやるだのなんだの物騒なことを言っては、これからいったい何が起きるのかと聞いた者が不安にならないわけがないのだ。
カイは、そしてルアンはいったい何者なのか。
正直それは、“イーブル”と連盟の全体も、そして個人の事情も深く把握しているシャナや、スバルにも未知数だった。
もはや今となっては、彼が敵か味方かどうかもわからない。
そんな混乱のなか、カイの体を借りているルアンは、とあるポケモンに呼び出され、彼のもとにいた。流浪探偵のローゼだ。
「……あなたが、たった一人であのダークライと交戦したのか。無茶なことをする」
ローゼは、部屋に入ってきたルアンの静かな声に気づき、手に持っていた分厚い本をパタンと閉じて微笑した。いまの彼は頭から爪先まで、いろんな箇所が包帯だらけだった。
「お話しするのは初めてですね。流浪探偵のローゼと申します。まぁ、このザマですが、こう見えて刺し違える覚悟だったのですよ、わたくしも」
ローゼは肩をすくめて言う。そして冗談だか本気だかわからない物言いに取り合わなかったルアンへ、座るように促した。
「……あなた、今も内心穏やかではないのではありませんか?」
「……」
彼がそう言っただけで、ルアンにはなんのことを指しているのかよくわかった。英雄祭の日、“イーブル”のボスと交戦したルアンは、自身が英雄であるとボスに指摘されて激昂している。
「あなたが私を呼んだのは、やはりその事についてか」
「こう言ってはなんなんですがねぇ。正直に申し上げると、連盟の方々はあなたを腫れ物を扱うように慎重なのですよ」
「私は」
スッ、と、言葉を紡ごうとしたルアンにローゼは手のひらを見せた。
「連盟から私は、“もう一人のカイ”君から、知っていることをできるだけ聞き出してほしいと頼まれました。あなたは何者か、英雄なのではないか、なぜあなたはあんなことを言ったのか……あなたは敵か、味方か」
ルアンは、黙って一点を見つめていた。そんな彼の態度を知ってか知らずか、ローゼはそのまま喋り続ける。
「言うなれば尋問です。わたくしにそれを押し付けたということは、よほどあなたのことを疑っていると言えます。それと同時に、カイ君にそんなことをしたくないという連盟側の心理の裏返しでもあります。いやはや、複雑ですねぇ」
「そんな“汚れ役”を、なぜあなたは引き受けた?」
息継ぎの無いローゼの言葉の間を縫って、ルアンは鋭く聞いた。しかしローゼは飄々とした姿勢を崩さない。
「いえ、こんなに長々と前置きをしたのですが、わたくしはあなたから何かを聞き出そうとは毛頭思っていないのですよ」
「……なに」
ルアンはローゼに、何か打算的ではない眼差しを感じた。それが逆に“尋問者”という今のローゼの立場にそぐわず、ルアンは違和感を覚える。
「あなたがなぜ今までわたくしたちになにも語らなかったのか。その理由はまだ時期ではないからか、あるいは連盟に話す前にカイ君に先に説明したいからだとわたくしは推理します。なので、わたくしはあなたの意思を勝手に尊重して、なにも聞かないことにいたしましょうかねぇ」
「信じてもいいのか、私を。私はあなたたちの……カイの敵かもしれない。」
「カイ君はわたくしを信じてくれていますから、わたくしもあなたを味方だと信じて見ようと思います」
ローゼがルアンからなにも聞き出せなかったと連盟に伝えれば、当然彼らも納得はしてくれないだろう。だがあえてその責任を取ろうというローゼの態度は、波導を読まずとも本物の感情だとルアンは感じた。
「あなたが何者かは、いつか自ら話してくれるだろうと思いますから横に置いておいて……」
ローゼの目付きが、ふと鋭くなった。
「そんなことよりもですねぇ、わたくしが気になることは別にあるのですよ」
「気になること」
ルアンが聞き返すと、ローゼは大きくうなずきながら見通しメガネをずりあげる。
「カイ君が、故郷で“イーブル”に襲われた理由です」
ローゼは膝を軽くうって立ち上がり、手元にあった資料を持って再び席に戻り、手に取ったそれをルアンに見せる。
「わたくしが連盟のブレーンを担う立場上、彼らには全ての方からの報告と情報を持ってくるようにお願いしているのですが……カイ君は故郷でいきなり何者かに襲われ、スバルさんのいる町へと逃げてきた……と、書いてありますねぇ。そして、その襲撃者は“イーブル”の下っぱではないかと」
「それは事実だ。わたしもカイが逃げるのを手助けした」
カイが襲撃者から逃げる途中、誤って足を踏み外して谷底へ落ちたところを、ルアンはどうにか着地してスバルのいる町まで自力で歩いた。そして……。
――すまない、この子を頼む――。
スバルにカイのことを託した。
「では、いったいなぜカイ君は狙われたのでしょう?」
「なぜ……? それは、彼らがカイではなく、私を――」
「――あなたを、“イーブル”にとって脅威になるから、排除しようとした。……そこが妙なのですよ」
資料のページをめくって、高速で文字を追うローゼ。そして、再び手を止めた彼は、ルアンにその文面を見せた。しかし、ルアンにはその文字は読めなかった。ローゼがまとめたらしいその資料の文字が、足形文字はではなかったからだ。
「空の頂の山頂で、初めてあなたは敵の前にその姿をさらした。その時の敵が誰か、わかりますね」
「……ダークライ」
ルアンはここまで来て、ローゼが何を言わんとしているかがわかった。まさか、とルアンは小さく呟きながら、顔をあげる。
「ダークライは言っていた。『君は、誰だ』と」
「ということは、あの時点ではダークライですらもあなたの存在を把握できていなかった、ということですね」
「それでは、誰がカイを襲うように指示した?」
ローゼは、自分の言わんとすることをルアンが理解したのを見て納得の表情となった。神妙な顔つきで頷く。
「初期の段階からあなたを、そしてカイ君を脅威だと認識し、排除するように指示を出したのはボスだと考えられます。ですが連盟側はもちろん、カイ君自身もまだ“覚醒”段階に至っていない段階で、ボスはなぜあなたの存在を知っていたのでしょうか」
ルアンは吐き出す言葉が思い浮かばなかった。ローゼの問いに対して、すでに残った答えはもう一つしかない。
ローゼは当惑の表情のルアンを待たずに鋭く切り込む。
「ルアン、あなた以外にあなたの正体を知っている者がいますね? その者がボスに情報を渡した可能性があります。……お心当たりは?」
「……こころ、あたり……」
ルアンの瞳が、見えないなにかを追うように小刻みに動いた。その様子を見ていたローゼは小さく首をかしげる。今の口調は、まるでカイが喋っているように思えたからだ。
しかも、先程から少し呼吸が荒い。少し無理をさせ過ぎただろうか、と彼はルアンに近寄る。
「ルアン」
「……そんなっ……もしかして……」
「……カイ君ですか?」
なにか様子がおかしい。そう思ってその小さい肩をローゼがつかもうとした瞬間、ガタンッ、とカイの体が膝から崩れ落ちた。予想外の出来事に探偵は慌ててカイの体を支える。
「カイ君! 大丈夫ですか!?」
二つの魂を支える体には普通よりも何倍もの大きな負荷がかかっている。しかも激しい戦闘からそう時間がたっていないのだから、何が起こってもおかしくないはずだ。それを予想できなかった自分を、ローゼは心の中で責めた。
「カイ君、いま医者を呼んできますからね」
「……ローゼさん……っ! ローゼさん!」
部屋の外に出ようと立ち上がったローゼの腕をカイはつかんだ。しゃべるのすらも精一杯なほど乱れた呼吸にも関わらず、そんなことを考える余裕すら無いような、切羽詰まった、嘆願にも似た表情を彼はしていた。
「あの、とき……僕のっ、僕のことを、助けてくれたんだよっ……! そんな、あの人が……“イーブル”なんかと、繋がってる、はずない……!」
「落ち着いて、カイ君。心当たりが、あるんですね……?」
「そん、な……はずはないんだ……!」
「……いいです。しゃべらないでください。まずは診てもらいましょう」
ローゼはカイを椅子にまた座らせて、足早に部屋を出た。その間にも、カイは自分に言い聞かせるように、しきりに同じ言葉を小さく繰り返した。
「そんな……そんなはずっ、ないよね……? ヤド仙人……!」
★
「彼の身体、いつまでもつのかなー」
平べったい手を器用に使い、最早手癖と化したと言いたげにペラペラとカルテをめくるキースが不穏な言葉を放ったのは、ちょうどギルドの食堂にルテアが無言で現れたときだった。
彼の言動は偶然か、はたまた狙ってのことか。あん、と凄みを利かせてルテアがキースをにらむと、彼は椅子にふんぞり返ったまま上の空な表情だったので、その真意は定かではない。
「彼って誰だよ物騒なこといってんじゃねぇよみんなぴりぴりしてんだろ!」
「なぜ私が場の雰囲気などを読まなければならないんだ。ん? 気高き医者はいつだって平常心を忘れないものだよ」
「一生言ってろ」
「ふん、まぁいい。単細胞な君だって私が誰のことを言っているのかわかっているはずだ。だかしかし! あえて答えてやろう、もちろん私が担当した被験た……ごほん、患者のカイ君のことさ」
ルテアの周囲が、触れたら一瞬にして感電しそうな空気に一変した。だが残念ながら、キースに空気を読む配慮はない。
「彼は元からイレギュラーな存在だけどね。普通、一つの身体に入れられる魂は一つだけ。それを二つ抱えてるというだけでもとんでもなく特殊な身体をしているというのに、ここまで耐えられたのが不思議なくらいだ」
「……もし、耐えられなくなったらどうなるんだよ」
「うーんそうだね、単細胞である君にも分かりやすく言うと、最悪死ぬかもしれない」
何を言われたのか一瞬わからなくなって、ルテアは目を丸くしたまましばらく表情を動かさなかった。しかし、動けないのは自分でもその事実を無意識に予想していたからなのか、ルテアはぶつけどころの無い怒りを覚えて、体毛から電気をバチバチと散らす。
「……てめぇ、感電死してぇのか……! 冗談でもそんなこと言うんじゃねぇよ……!」
「私が冗談を言っているように見えるのかい、単細胞」
キースは至極まじめにルテアへそう切り返した。ルテアは今までに彼のそんな表情を見たことがなくて、膨らんだ怒りは風船が萎むようにどこかへ抜けていくような感覚がした。
「周囲の話を聞く限りだと、カイ君と例の“英雄かもしれない”さんの入れ替わりは日に日に間隔が短くなってるみたいだね。たぶん、どちらか一方の強い感情に敏感に体が反応していると思われる。彼がカイ君の身体を動かす時間が長くなり始めた証拠さ」
彼は誇張を含めずに淡々と事実だけを語った。ルテアはあのキースが冗談抜きで物を語っている様子を見て、途方にくれた。正直で、まっすぐで、そんな姿を仲間以上に弟分とすら思っているカイが、そんなに追い詰められた状態にある。ルテアですらそんな事実とどう向き合っていいのかわからなかった。
「どうすりゃいいってんだよ」
「医者の立場としては、早く手を打ちたいところだよ。どちらにしろこのままだと、カイ君の体が持たないか、英雄さんに身体を乗っ取られるかのどちらかだ」
「乗っ取られる……だと」
「君からカイ君本人に言うかどうかは自由だけど。私は医者として、いつこの事を伝えるかタイミングを見計らってるんだよ。わかるかい、単細胞」
キースはルテアの瞳を射抜くように見据えた。いまの彼は飄々としたいつもの彼ではなく、紛れもなく医者としての目だった。
食堂にいるのは二人だけのはずだった。だが、入り口の陰で黄色い尻尾が少し動いたのを、二人が気づくことはなかった。