ポケモンのべんごし
四日目 4
 ソウゴが事務所を出てから十五分ぐらいが経っただろうか、しばらくの間呆けているように見えたマサミが、不意に立ち上がった。そして、彼女は僕の方にしゃがんで僕の額を撫でる。
「私、何をしているんだろう。あなたの主人を、探しに行かなきゃね」
 探しに行くと言っても、ソウゴはしばらくしたら勝手に事務所へ戻ってくると思う。多分、なんの目的も無く外に出たわけではないだろう。僕は心配するなという風に一声鳴いた。
 いや、でもやっぱり飛び出していったソウゴが心配になってきた。まぁ大方マサミの家に行ったのだろうが、その先で彼が膝を抱えてしゃがんでいないか心配になってくる。ソウゴの心は、あれでも一応ガラス製だからね。熱には強いが打撃に弱い。
「あの人、私の家に行ったのかしら」
 マサミは僕と同じ考えのようだ。間違いない。さっきも、部屋を見せてほしいと言っていたからね。僕は賛同の意を込めた鳴き声をあげる。
「だとしたらまずいわ。家の鍵は私が持っているのに……」
 なんだって、鍵をマサミが持っている?
 考えてみたら当然のことだけど、ソウゴは鍵を開けられないのにマサミのアパートへ行ってしまったというのか。面倒なことになってしまった。ますますソウゴが心配になってくる。
 今のソウゴなら、たとえ鍵の存在に気づいても事務所には戻りにくいだろう。少なくとも夕方までは帰ってこない。ならば、僕らが彼の元へ鍵を持っていってあげるしかないようだ。まったく手のかかる相棒だ、ソウゴは。
 僕は事務所のドアをカリカリと手で引っ掻いて、マサミに『開けて』というジェスチャーをした。それに気づいたマサミは、アイをモンスターボールに戻して立ち上がる。
「彼に鍵を届けるのね。待って、確かポケットの中に……」
 マサミは服のポケットに手を入れた。そして、中身を探るように指を動かす。普段からそんなところに鍵を入れているのか。危なっかしいったらないよ。
 すると、ポケットの中を探る彼女の手がピタリと止まった。その表情が険しいままフリーズしている。なんだかいやーな予感がするなぁ。まさか……。
「鍵が……無い」
 彼女は、恐らくいままでで一番豊かな表情になった。驚きの感情と、信じたくないという感情を、足して二で割ったような表情だ。なんてことだ、鍵を無くしただって!? 僕は思わず泣きたくなった。
「さっきまではあったのに……! 部屋の整理をしているときに落としたのかしら」
 ならば、事務所にはある可能性が高い。早く探さなければ。僕は床に顔を近づけて事務所内を徘徊しながら鍵を探すことにした。それを見たマサミも同じように床に手をつけて探し始めた。しかし、ふと何かを思い出したように、モンスターボールに手をかける。
「アイ、あなたも探すのを手伝って!」
 ボールから放たれたアイは、狼狽したように辺りをキョロキョロと見渡す。
「え、あ、わたしまだ“はどう”とかうまく使えないんだけど……」
「誰が“波導”を使って探してって言ったんだ。その目と足で探すんだよ!」
「は、はい!」
 僕がアイに叫ぶと、彼女は慌てて地面に手をつけ始めた。
 しばらくの間、事務所内は異様な光景に包まれた。地面や壁を舐めるようにして、鍵を探し回る一人の女性と二匹のポケモン。非常に見苦しいことこの上ない。まぁ、唯一の救いは、この光景を誰も見ていなかったということかな。だがしかし、いくら辺りを探してみても目的の鍵は一向に見つからない。もう、鍵にキーホルダーとか目立つものをつけていないのか!?
「まさか他の部屋に落としたのかしら」
 マサミはそう言って、洗濯機の中や給湯室、果てには冷蔵庫の中も探したが、やはり鍵は見つからない(まぁ、もし冷蔵庫の中にあったら、病院に行くことを薦めてたけどね)。
 マサミはさらに、事務所の奥へ行ってソウゴの寝室の部屋のドアを……って!
 ちょっと待ったぁッ! あんた何で寝室に入ろうとしてるんだ! 寝室に入っていないのにそんなところに鍵があるわけ無いだろうに!
 僕は“電光石火”を使う勢いで、マサミを制止しようとした。まずい、非常にまずい!
 だが、僕がマサミのところへたどり着くには、あと数秒だけ時間が足りなかった。彼女は無情にも、手をかけたドアノブをガチャリと降ろした。そして、キィと手前に引く。
 あぁ……! 僕は後でソウゴに殺されるかもしれない……!


「……な、なに……これ……?」
 寝室を覗いたマサミの第一声はこうだった。自身の目を疑う、という表情はまさにこの表情を言うんだろう。一応ソウゴのために言っておく。マサミが驚いたのは、別にいかがわしい雑誌が置いてあったとか、ストーカーまがいのことをしていた、そんな類いのものではない。
 彼の寝室に入ってまず目に飛び込むのは、壁一面に画鋲で留められた新聞記事と、資料と、雑誌の文面だろう。それはもう、元の壁の色がわからなくなるほど、それらが大量に貼られている。そのほとんどは、すでに劣化をはじめて黄ばんでいるものがほとんどだ。そして、ソウゴの寝室にはベッドと、もうひとつの『ですく』がある。その上にも、似たような資料で埋め尽くされている。
 マサミは目をまん丸くしたまま、おっかなびっくりそこへ足を踏み入れた。と、一歩を出した瞬間に、その足が床に落ちている新聞の切り抜きを踏みつけてしまった。彼女はまるで熱湯に足を触れてしまったかのごとく小さく飛び退く。そして、それを拾い上げた。
「……“閃光”……“事件”……?」
 すでにボロボロになっているその記事から、マサミは何とか文字を拾うことができたようだ。
 そう、これこそが、ソウゴが寝室に誰も入れたくない理由であり、そのためにひたすらに隠し続けていた部屋だ。この壁一面に貼られたものは全て、今から二十年も前に起こった“閃光事件”の記事であり、ゴシップであり、批評批判であり、また誹謗中傷である。
 裁判中に、傍聴席にいた人物がウインディをけしかけ弁護士を殺害した、いまだに犯人が捕まっていない事件。被害者である弁護士は谷原祐吾と言って、この名は事件当時、新聞記事にいやというほど載せられた。日付から逆算すると、このときマサミは九才で、ソウゴはまだ七才だったはずだ。僕に至ってはまだ生まれてすらいない。
 この部屋には、資料の量と同じほどのソウゴの執念が見てとれる。先程僕は『ソウゴはストーカーまがいのことをしていない』という意味合いのことを言ったが、この執拗さはストーカーを引き合いに出してもあながち大袈裟ではない。
 部屋を見たマサミの表情からして、彼女は『なぜ二十年もの前の事件を彼が調べているのか』と思っているのだろう。その考えに行き着くことは当然だ。この部屋を見れば誰しも、ここまでしてでも“閃光事件”を追うのはなぜなのか、そんな疑問が頭をよぎったって何ら不思議ではない。
 だが、その理由の方は誰にも――マサミにだって――わかることはないだろう。
「……」
 マサミは、静かに部屋から一歩ずつ後退した。そして部屋から出たあと、ドアをゆっくりと閉める。まるで、今見たものを無かったことにするかのように。


 鍵は結局、散々探し回った挙げ句にソウゴの『ですく』の引き出しの奥から発見された。どうやら、マサミが事務所の整理をしている間に、何らかの癖で中に入れてしまったらしい。とにかく、思わぬハプニングはあったものの鍵は見つかったので、僕らはソウゴを迎えにマサミの家へ向かうことにした。





 案の定、というかなんというか、僕の予想は見事なまでに的中していた。いや、できれば的中してほしくなかった。
 僕らがマサミのアパートへ向かい、四階の奥の部屋へたどり着くと、そのドアの横の壁にソウゴがしゃがんで腕に顔を押し付けていた。遠目から見たら黒い塊がドン、と置かれているように見える。やめて、彼のポケモンとしてすごく恥ずかしいんだけど。
「御影……弁護士?」
 マサミはまるで迂闊に触れたら壊れるとでも言わんばかりに、小さすぎる声でソウゴの名を呼んだ。そして慎重に肩に手を置く。すると、彼は弾かれたように顔をあげて、立ち上がった。少し見ない間に顔が老けたかな。
「大丈夫、ですか……?」
「問題ありません、少し立ちくらみがしただけです」
 嘘つけ。
「あの……鍵がかかっていたでしょう? 私の部屋」
 マサミは申し訳なさそうに言った。よく考えてみると、ソウゴはかれこれ一時間はドアの前で待っていたことになる。
「かかっていましたね」
「くたびれたでしょう」
「いえ、それほどでも」
「……」
「……」
 お互いに言うことがなくなって、重苦しい沈黙が訪れた。マサミは無言のままポケットから鍵を取りだす。それをしばらく見つめて、彼女は小さく沈黙を破った。
「彼は、優しい人だったんです」
「……彼とは、平田氏のことですか」
 ソウゴの問いに、マサミはうなずく。
「嘘じゃありません。結婚してからも、文句の言いようがない良い主人でした。それでも離婚してしまったのは、私のせいなんです……」
「私のせい、とは?」
「私が連れているアイ……リオルは、元々ある人から譲り受けたタマゴから孵りました。その人は、彼と結婚する前に、私が付き合っていた人から貰ったものなんです」
 マサミが一旦言葉を区切った後も、ソウゴは黙っていた。その無言の催促に、マサミは再度口を開く。
「結婚するときに、前に付き合っていた人のことは忘れて欲しいと彼から言われていたんです。だけど私は、アイを育て続けていた。彼が変わったのはそれからです」
 これが、マサミが首の痣を隠していた理由か。彼女は、罪の意識を感じ続けていた、そして、まだコウヘイに未練を感じている。だから……。
「だからといって、平田氏が行ったことが正当化されるわけではありません。そして、あなたがそれを隠していたことも、間違っていると私は思います」
 ソウゴはあくまで冷静だった。弁護士という立場を揺るがすこともしなかった。マサミにもそれがわかっていたのか、自嘲気味に笑みを浮かべる。
「あなたに言われて、私も気づきました。いつまでもこのままじゃいけないって。それにあなたは、私が考えている“弁護士”とは、少し違っていました」
 『少し違っていた』。この言葉に、僕もソウゴも頭に疑問符を浮かべた。
「あなたは、裁判に勝てればそれでいいと考える弁護士だと思い込んでいたんです。だけど違った。あなたは裁判のこと以上に、アイのこと……ポケモンのことを考えていた」
 ――もし裁判に負けたら、あんたの手持ちは最悪札処分だッ!――。
 ソウゴがあのとき叫んだことは、マサミにきっちり伝わっていたようだ。そう、ソウゴは誰よりもまず、ポケモンのことを第一に考える男だ。
「私はそれを知らなくて……ごめんなさい」
「……こちらも、先程は取り乱して失礼しました」
 マサミが俯きながら謝ると、ソウゴは困ったように眉間をつまんでそう言った。こういうことに慣れていない彼は、どういう反応をしたかわからないのだろう。
「まぁ、ここにとどまっているのもなんです。あなたの部屋を見せていただけませんか」
「はい」
 ソウゴに催促されて、マサミは鍵穴に鍵を差し込んで回す。ガチャリとつっかいが回る音がした。あとはドアノブを回すだけだが、彼女はふと動きを止めた。
「あの……」
「なんでしょう」
「……いえ、何でもありません」
 マサミは、結局何も言わずにドアを開けた。もしかしたら、寝室で見た光景を聞きたかったのかもしれない。
 だが、マサミがその事をソウゴに聞かなかったのは、賢明な判断だったと僕は思う。


ものかき ( 2013/11/07(木) 14:25 )