四日目 3
取り乱して泣き始めたアイの話によると、コウヘイはマサミに暴力を振るうのにあきたらず、『首を締められた』といい始めた。
待つんだ、それは度合いによっては殺人未遂だぞ!
僕はちらりとマサミを見た。肩より伸ばした栗毛がさらさらと揺れている彼女の今日の服装は、相変わらず首まで隠れる薄い繊維のセーターだ。正直、ここ数日は気温が高くなる傾向で、こんなセーターなんか着ていたら暑苦しくて仕方がないだろう。だが彼女は、はじめて留置所で出会ったあの日から、裁判のときも、今日だってこの服装だ。まさか、彼女がこの服装にこだわる理由って……!
僕は、ソウゴの足元に寄ってスーツの裾を引っ張った。ソウゴは、困った表情からふと真顔に戻って僕を見る。
「どうした」
「えっと」
言葉が通じないソウゴに、『マサミが首を絞められていた』という事実を伝えるにはどうしたらいいんだろう? あぁ、もう! じれったいな!
仕方がないから、今度はマサミのほうへ近づいて、彼女の肩に乗った。ビクッとその肩が震えるが、いちいち気にしている暇はない。僕はそのまま、前右足でマサミの首元を指し示した。すると、ただでさえ細いソウゴの目が、さらに鋭くなった。
「……フウラ、お前まさか」
よかった、これでも相棒が気づかなかったら、その頬を引っ掻いてやるところだった。
「ちょっと……フウラちゃん……?」
マサミ、僕に『ちゃん』付けをするな。それと、いまさら僕をそんな目で見たって、ソウゴにはバレている。
「宮野正美さん、あなたは何を隠しているのですか」
そう言うソウゴの口調は、氷点下並みの冷たさと、中途半端な答えを許さぬ強い圧力を持ち合わせていた。
「か、隠してな――」
「答えろ」
敬語もすっ飛んだソウゴの声は、いつも一緒にいるはずの僕ですらも一瞬肩が震えた。
弁護士に隠し事は非常にまずい。だがそれ以上に、ソウゴへの隠し事はさらにまずい。なぜかって、相棒がキレた場合、僕でも手がつけられないからだ。
マサミの喉の奥がくっ、と鳴った。彼女も、今のソウゴがどれだけ危険で、自分がもしこのまま白をきればどうなってしまうかも薄々察してくれたらしい。
マサミは、恐る恐る――それはもう、手の震えが止まらないほど――セーターの首の襟をめくった。それを見たソウゴは、いや僕だって、かける言葉が出てこないほどの衝撃を受けた。その証拠に、ソウゴの笹の葉みたいな目、その瞳が小さく揺れていた。
マサミの首には、ニンゲンがつけたらしい五本指の形をした痣が、確かにくっきりとついていた。「これは、いったい」
たっぷり数十秒がたった後に、やっとのことでソウゴが喉からそう言葉を発した。マサミの首にくっきりと残る指の形をしたスジは、彼女が受けた仕打ちをはっきりと裏付けていた。この痣は、首を絞められた痕だ。あまりに強く押さえつけられすぎて内出血を起こしている。彼女が、裁判が始まってもなお隠し続けていたのは、まさにこの痣だったというわけだ。
「なぜ……なぜ、黙っていた」
ソウゴの声は震えていた。決して悲しみとか、同情とか、そういう感情のせいで声が震えているのではない。彼が今はっきりと露にしている感情は、“怒り”、だ。
「もしこれを始めから知らせてさえいれば、過剰防衛になどならなかった、いや、起訴すらされなかったはずだッ」
「……」
「これは立派な殺人未遂だぞッ」
彼は荒げた声をマサミに叩きつけた。彼女の方は、その剣幕に多少震えるかと思いきや、むしろ逆に冷静になっていた。まっすぐにソウゴを見つめる。
「答えろッ、なぜ黙っていたッ」
「……私は」
マサミは、一つ一つ言葉を選ぶように慎重に、声を発した。
「一度は、彼を心から愛したんです」
「だから隠していたのかッ、裁判に入っても……」
ソウゴは大きく息を吸った。そんな彼の表情は、なぜかとても苦しそうだった。まるで、なにかが喉に詰まって、むせて、咳き込む時の表情に似ている。
「あんたはッ、殺されかけたんだぞッ! そんな奴を相手に、かける情けや、注ぐ愛などあるものかッ」
「あなたは――」
マサミは、強い口調でソウゴの叫びの語尾に被せた。
「――誰かを愛したことがないんでしょう」
「なにが悪い。俺の言ったことは間違っていないはずだッ!」
「あなたがそこまでむきになるのは、私がこれを隠したことで、裁判に負けそうだからですか。自分の弁護士としての名に傷が付くことを、恐れているからですか」
マサミの言葉に、ソウゴは静まり返った。いま彼女が言ったことを、理解することに頭を使っているかのように。そんなソウゴの様子に、マサミは自分が図星なことを言ったと思ったらしく、さらにその語調を強める。
「それとも、『勝てる裁判に負けることが大嫌い』だからですか」
「違うッ!」
「……」
ソウゴは即答した。そして、右手で頭をガリガリと掻いて、右へ行ったり左へ行ったり……数歩徘徊を繰り返し、しまいにはソファをつま先で蹴った。まるで精神異常者だ、僕はそう思った。
「確かに……確かに俺はそう言った。だが、そんな意味で言ったんじゃないッ」
彼は続ける。
「俺は裁判で負けることよりも、罪を背負わなくていいニンゲンやポケモンが裁かれる……それが耐えられないだけだッ!」
「え……?」
マサミは、我が耳を疑うかのように両目を見開いた。僕の横にいたアイも、泣くことすら忘れてソウゴの叫びを聞いている。
「逆に、罪を背負うべき者が裁かれないのが、なにより許せない。それだけだッ」
「……」
ソウゴはそう吐き捨てて、スーツの上着と鞄を乱暴に掴んだ。そして、大股でずかずかと事務所の出口へ向かい、その扉を乱暴に開け放って出ていった。扉が閉まった拍子に、安物の曇りガラスが震える耳障りな音が、やけに大きく事務所内に響いた。
マサミはしばらく呆然としていた。アイは、何が起こったのかまるでよくわからない様子で主人を見ていた。そして僕は、そんな二人を遠目から見ている。
飛び出していったソウゴが心配になってきた。多分、なんの目的も無く外に出たわけではないだろうが、探しに行った先で彼が膝を抱えてしゃがんでいないか心配になってくる。あれでも一応、ソウゴもガラスより強度のある心は持ち合わせていないからね。
「マサミ……?」
アイはマサミの足元へ心配そうに寄った。彼女はその場にしゃがんでアイの頭を撫でる。だが、それでも彼女は心ここにあらずといった様子だ。
僕は、アイの近くに歩み寄った。彼女には是非とも言っておきたいことがある。
「アイ、って言ったっけ」
「ふぇ?」
「僕はフウラって言うんだ。さっき出て行ったニンゲン――ソウゴの手持ちだよ」
「あ……」
僕がそう言うと、アイはさっき自分が攻撃しようとしたニンゲンがまさに僕の主人だというのに気づいて、罰が悪そうな顔になった。
「あ、あの……さっきは……」
「うん、いいんだ。別にソウゴを攻撃しようとしたしたことは。でも、ひとつだけ言いたいことがある」
僕は一旦言葉を切って、アイが集中したのを確認すると再び口を開いた。
「君は、後先を考えないで行動する方だね。マサミが首を絞められたとき、君はいてもたってもいられなくなったんだろうけど、君がコウヘイを病院送りにしたことで、いまマサミが困ったことになっているんだ」
「で、でも……あのときどうすればよかったの? だって、マサミが殺されそうになったんだもん」
アイは、見ている僕が忠告しにくくなるような表情になった。だが、ここでビシッと言わなければ、またマサミみたいなヒトが増えることになる。
「君はまだ幼い。怪我をさせないぐらいの手加減ができなかったのもあるだろうけど、君はやり過ぎた。僕は、後先を考えないで行動するポケモンは嫌いなんだ」
ポケモンはトレーナーの手持ちになった時点で、行動の一つ一つに責任がついてくる。だが、それを弁えていない一部のポケモンのせいで、僕らの印象が落ちている。アイにはその“一部”にはなってほしくなかった。
「だがら、次からは気を付けてほしい。わかった?」
「……うん、ごめんなさい」
アイは素直に謝ったが、ちょっと萎んだ表情になった。うーん、ちょっと言い過ぎたかな。
まぁ、とりあえずアイはこれでいい。問題はマサミと、そしてソウゴだ。まったく。何で僕の周りには、こんなに手のかかる輩が多いんだ!
★
事務所を飛び出したソウゴは、ぽつぽつと少しずつ後悔の念が押し寄せていた。なぜ、あんなに冷静さを欠いてしまったのか。あんなことを叫んでしまったのか。とぼとぼと歩く速度に合わせるかのように、彼はそんな考えに耽っていた。 いつの間にか橋を越えてマサミのアパートがあるところまで来ていたようだ。空は相変わらず水で薄めた絵具を塗ったような青で、太陽はすでに南天に近い位置にある。
彼は、事務所を飛び出してしまった衝動で、マサミの家の様子を見ておこうと考えた。声を荒げた後の精神状態で仕事をするのはどうかと思ったが、一日という限られた時間を無駄にしたくはなかったので、強引に足を進めた。
マサミの部屋はアパートの四階にあった。ソウゴは重い足取りでエレベーターのボタンを押す。すぐにはこの階に降りてこないと思って彼は目をつぶって待っていたが、何かを考えたいときに限ってエレベーターは少しも経たないうちにピンポン、と到着音を響かせた。彼はため息をついてそれに乗り込み、四階のボタンを押した。エレベーターは、指示通りスムーズにソウゴを四階へと連れていく。
アパート四階の一番端、そのドアには『宮野』の表札があった。ソウゴは、ドアノブに手をかけようとして、ハッとその手を止めた。
「……鍵」
ぽつり、とソウゴは呟いた。試しにドアノブを回してみたが、やはりドアは開かない。よく考えてみたらマサミの部屋のドアには当然鍵がかかっていて、それを彼女が持っているのは当たり前のことだ。つまり、ここを開けてもらうには、また事務所に戻ってマサミから鍵を借りなくてはならない。大家に借りることも考えたが、今の彼にそんなことをする心の余裕はなかった。
ソウゴはドアの横の壁に寄りかかる。あんなに叫んでしまっては、今さらのこのことマサミに会うことなどできやしない。彼はため息をついた。
――『勝てる裁判に負けることが大嫌い』だからですか――。
ふと、彼の脳裏にマサミが口にした言葉が蘇った。
敗訴することなど、ソウゴにはなんの恐怖でもない。本当に怖いのは、有罪になったことでニンゲンとポケモンが引き離され、ポケモンが『処分』されることだ。
彼の脳裏に、鮮明に焼き付いているあるひとつの記憶が掘り起こされた。本来なら、セピア色の思い出となっていてもおかしくはない時分の記憶。だが彼にとっては、昨日に起こったかのように今だに色も抜けない、鮮やかすぎる記憶だ。
あの頃は、まだ自分も幼かった。あの時、目の前で繰り広げられた光景の中で、何もできなかった自責の念が、まだ心に突き刺さってくる。
ソウゴは、壁に寄りかかったままずるずるとしゃがみこんだ。そして、その膝に顔を埋(うず)める。誰かが通りかかって不審な目で見られることを気にする余裕など、彼にはなかった。
顔を押し付けたまま、彼は小さく呟く。
「……父さん」