四日目 1
今回の裁判の特徴と言えば、弁護側・検察側どちらにも“決定的証拠”というものが見つからないということだ。モンスターボールの開閉スイッチが押されたか押されなかったかにしても、コウヘイが暴力をふるったかふるわなかったかにしても、それを証明することは難しい。ただ、状況証拠的に見ると現時点で検察側の方がが有利、というのが非常に厄介だ。
先日の裁判は結局、「お互いに更なる調査を進めるように」との裁判長のお達しのもと、決着がつかないまま次回へ持ち越しとなった。
裁判から一夜開けた早朝、相変わらず『ですく』に足を乗せた状態でソウゴは眠っていた。その右手は、ネクタイを緩めようとした状態のまま固まっている。鞄の方は応接用の机の上に乱雑に置かれていた。
実は僕らは、ソウゴがギリギリまで調査をしたため昨日の夜もご飯を食べていない。お腹減ったなぁ……。
と、いきなり空気を震わせた電子音に、僕もソウゴも同時にビクリと震えた。その拍子にソウゴは椅子から落ちそうになる。電子音の正体は電話機の呼び出し音だ。何回かコールが鳴った後で、ソウゴは正気を取り戻したのか受話器を手に取る。何だか、最近は電話か僕が、ソウゴの目覚まし代わりになっているような気がしてならない。
「はい、こちら御影法律事務所」
寝起き全開のソウゴの声が昨日よりちょっと掠れているけど……疲れているのかな。
「えぇ……はい。……ん? なんですって?」
何だか、電話を受けるソウゴの態度がいつもと違うのが気になったので、僕は『ですく』に飛び乗って受話器に耳を近づけてみた。すると、受話器の耳当てから「保釈金」とかそんな意味合いの単語が数回繰り返された。そして……。
「宮野正美が保釈ッ!? いったい誰がそんな金をッ!?」
ソウゴは唐突に、叫び声と一緒に椅子から飛び起きた。み、耳の鼓膜が破れるかと思った……!
その後、電話相手との会話で何があったのかは知らないけど、受話器をおいた後のソウゴの行動はムクホークの“電光石火”ごとく早かった。
まずは昨日浴びそびれたシャワーを浴びにお風呂へ。その際彼は、僕に向かって新しいスーツ一式を出すように叫んだ。昨日と同じ服で過ごすのがまずいのはわかるけど、僕にそれを頼むなんて筋違いだ。僕はガードナーであって世話役ではないのに。ソウゴは三分でシャワーを浴び終えたかと思えば、ミノムッチも驚きな早さで僕の出したスーツを着て、髪の毛を適当に整える。ひじきから少しましになった髪型で無造作に投げ捨てられた鞄をひっつかむと、ずかずかと出口へ向かって歩き出す。
「行くぞフウラ、仕事だ」
いつもよりほんの少し慌てた様子で、ソウゴは事務所の外へ消えた。僕は渋々その後へついていくけど……。
そういえば、僕の朝ごはんは?
★
僕らは、ミオシティの市街地を抜け拘置所に来ていた。おとといマサミが拘束されていたのは留置所だったが、今は裁判中なので拘置所に拘束されている。僕は、ここらへんの区別がいつもややこしいと感じている。裁判の前後でいちいち拘束場所を変えるなんて、ニンゲンは変な生き物だよね。
拘置所の前には、二人の男女が僕らを待っているように見えた。女性の方は、僕らもその姿を見慣れている“妙齢の美人”――マサミだ。保釈されたらしい彼女の服装は、今日も見ていて暑苦しいぐらいの重装備だ。そして、もう一人は……?
「おぉ、君が正美君の弁護士か」
「……あなたは」
マサミの横にいる男の姿を見た瞬間、笹の葉みたいなソウゴの目が丸くなった。
ソウゴの倍ぐらいは生きているように見えるその男は、筋肉質で屈強な体に、短く逆立った髪は藤色をしている。作業服に、古びたマントと軍手着用という妙な格好をしたそのヒトを見て、ソウゴの背筋がピンと伸びた。そして、慎重に尋ねる。
「……ジムリーダーの、冬瓜さん、ですか?」
そう、彼は紛れもなく、ミオシティのジムリーダーである“鋼鉄の男”――トウガンだったのだ。
「ほう、わたしのことを知っているのか。若いのに関心だ」
いや、ミオに住んでいてトウガンを知らない方がおかしいと思うんだけど。でも、なんでジムリーダーなんかがマサミの横に立っているんだろうか。二人は知り合い? まさか、親子なんてことは……!
「私は弁護士の御影宗吾と申します」
宗吾はスーツの懐から『めいし』を取り出そうとして、この服が朝出したばかりだということを思いだし、鞄から予備のものを彼へ差し出した。
「失礼ですが冬瓜さん、あなたが宮野正美さんの保釈金を?」
「うむ。いかにも」
トウガンは、ソウゴの『めいし』を作業ズボンの尻ポケットにねじ込んだ。
「マサミ君には、普段ジムのポケモンたちのカウンセラーとしてお世話になっていてね」
「カウンセラーというほど大層なものではありません」
と、マサミが横から申し訳なさそうにそう言った。おそらく、職業や副業でカウンセラーをやっているわけではなさそうだ。じゃぁ、“もどき”みたいなものかな。ついでに僕のカウンセリングもしてほしい。
「不躾なことをお伺いしますが」
と、ソウゴは鋭い眼差しでトウガンを見る。
「保釈金が高いとはお思いにならなかったのですか?」
保釈金というのは、被告人の経済状況に大きく左右されるものの、一般的に数十万から百万円ぐらいだ。いずれにしても、ほいと出せる金額ではない。
「がはははッ! 確かにそうだな!」
だが、ソウゴのもっともすぎるであろう質問を、トウガンは豪快に笑い飛ばした。
「ジムのファイトマネーではあるが、市民を前にしておいそれと安いとは言えん額だったよ。だがな、若いの」
と、トウガンは先程の笑みをフッと潜め、ソウゴを真剣な眼差しで見据えた。
「時代は君たち若い世代に移りつつある。だが、そんな君たちに刑務所暮らしなんぞをされては、わたしも安心して引退できんのだよ。だから宗吾君――」
トウガンは、ソウゴの肩に軽く片手を置いた。
「――必ず正美君の無実を証明してほしい」
ソウゴはトウガンのその言葉に、すでに心得ているというふうな表情で頷き、「善処します」と言った。ジムリーダーと初めての対面だというのに、いつもと変わらぬ自信に満ちた表情でうなずくなんて、ソウゴも恐れ知らずというかなんというか……。
ん? ソウゴは今日がトウガンとのファーストコンタクトなのだろうか?
「ん……? 君は……」
僕がそう思ったのと同じタイミングで、トウガンはソウゴの肩に手を置いたまま、まじまじとその顔を覗き込む。
「変なことを聞くんだが、君とは昔……どこかで一度会ったことがあったかな」
「いえ、あなたとは初対面のはずです」
対するソウゴは、トウガンの質問に見事な即答を返した。い、いや、そんなに間髪入れずに答えなくてもいいだろうに。しかしトウガンは、ソウゴの態度に気分を悪くすると思いきや、むしろ豪快に笑いだした。
「がははは! いい弁護士についてもらったようだな。まぁ、その調子で頑張ってくれ、若いの!」
ばんばん、と痛いぐらいにソウゴの肩を叩いたトウガンは、その豪快な笑いが終わらないうちにジムの方角へ去っていってしまった。よくわからないが、どうやらソウゴはジムリーダーに気に入られてしまったようである。
トウガンが去った瞬間、先程まで明るかったこの空間がいきなりどんよりとし始めたのは気のせいではないはずだ。場には僕とソウゴ、そしてマサミだけ。普段マサミがおしゃべりかはわからないが、誰も言葉を発しないのだから、空気が重くなるのはある意味当然と言える。
と、その時。ぐぅきゅるる……と、なんだか空気が抜けるような音が響いた。マサミもソウゴも驚いて音の発信源を見る。……え、あぁ、今の音は僕のお腹からだったのか! そういえば、昨日の晩も今日の朝もご飯抜きだったよ。思い出してみると妙にお腹が空いてきた。僕は悲しげに一声鳴く。
「ご飯……あげていなかったんですか?」
と、マサミが僕の方にしゃがんで、おでこから後ろをゆっくり撫でた。僕、撫でられるなんてすごく久しぶりなんだけど。僕が気持ちよさそうに喉を鳴らすのとは逆に、ソウゴの表情はだんだんと渋ーいものとなっていく。そして、気まずそうに咳払いをひとつ。
「お腹が空いたのなら、行き付けのラーメン屋台ふにでも行きましょうか」
ソウゴ、この世界のどこに女のヒトを屋台へ招待する男がいるんだ。それに、昨日も一昨日もラーメンだったじゃないか。僕がそんな意味合いの視線をソウゴへ投げ掛けると、彼は困ったような顔つきになる。
「いや、まぁ、だがそれだと今後の相談ができないな。やっぱりカフェかレストランにしよう」
「事務所……じゃ駄目でしょうか。今はあまり他の人と顔を合わせたくなくて……」
マサミの儚げな顔に霞がかかった。憂いを帯びた顔もまた美しいが、女性の容姿に無頓着なソウゴは表情をひとつも変えず、間髪入れずにこう言う。
「今事務所は人を招くことができません――諸事情により」
いや、諸事情も何も、部屋が汚いだけでしょ。
「諸事情?」
「……」
ソウゴの沈黙に何かを悟ったらしいマサミは、しゃがんでいた状態から立ち上がって、珍しく強気な声でこう言った。
「少し散らかっていても問題ありません。この子のご飯をあげられれば」
というか、マサミはよくソウゴの事務所が散らかっていることを知ることができたね。このヒトはもしかしてエスパーだろうか。
「この子は、あなたのガードナーなんですよね?」
そうだそうだ、僕はソウゴのガードナーなんだからね! もうちょっと僕を丁寧に扱ってほしいな!
「彼女がかわいそうです!」
待つんだマサミ、僕は雄だぞ!
「あなたは、私にいったい何を求めているんですか」
端から見たら普段と変わらないように見えるソウゴの顔も、僕から見たらかなり困惑しているようだ。彼がこんな表情をするなんて珍しい。たとえ勝てる見込みの到底ない裁判でも、彼のこんな表情を拝めはしないだろう。
「あなたがこの子のパートナーなら、もっとちゃんと接してあげるべきです」
マサミの墨で塗ったような眉がつり上がった。もしかして、怒ってるのかなぁ。
「いや、あの、宮野正美さん」
「わかりました、取り合えずこの子にご飯を食べさせてあげましょう。事務所はどちらですか?」
どうやらマサミは、ポケモンが絡んでくるとヒト柄が百八十度変わるらしい。
いい気味だ、爽快だ。普段僕のことをまともに世話してくれないツケを、今まさに払うときが来たんだ。そうに決まってる。
僕はマサミの腕の中で、満足げにそんなことを考えながらふとソウゴの方を見ると、彼は大きなため息をつきながら眉間を指でつまんでいた。