後日
固定電話のコール音がやかましく響いていた。今日は珍しく寝室で爆睡しているソウゴが、まさか『ですく』の上の電子音で起きるわけがない。電話を掛ける相手側も早く諦めてくれればいいのに、なかなかしぶとい性格ようで一向に鳴り止む気配がない。いやむしろソウゴも、起きないのなら留守番設定にすればいいのに。
現在の時刻は、マサミとリオルのアイをめぐる裁判からすでに二日がたった早朝だ。ここのところ徹夜続きだったソウゴは、裁判を終えて事務所に帰ってきた瞬間ベッドの上に倒れこんだ。どうやら今回は悪夢にうなされていることもないようで、今も死んだように昏昏と眠り続けている。その睡眠時間は、すでに三十五時間を突破していた。
マサミは、裁判の後無事に釈放されてミオのアパートに戻ることができた。そんな彼女は実を言うと昨日、この事務所を訪ねてきていた。だが残念ながら、ソウゴはインターフォンの音でも起きなかったようで、彼女は諦めて帰っていった。
裁判所の廊下で起きたあの出来事を、彼女は一体どう受け止めているのだろう。もしかしたら、その心中を僕は二度と知ることができないかもしれないが、持ち前の好奇心が度々いらぬ想像を働かせてしまう。
それにしても、いまだに電話のコール音が鳴り続けているんだけど、僕はどうすればいい! 苛々する!
僕は、『ですく』の上に飛び乗って、その受話器を前足で転がしてやった。電話はもちろん『通話中』となるが、そんなことは知ったこっちゃない。これでいくらか静かになった。
『――もしもし?』
ん? この声は……。
『二日前にお世話になった斎藤未来ですけど、こちらは御影法律事務所でよろしかったでしょうか』
やっぱり、この声はミクのものだったか。だが、あんなにソウゴを敵視した彼女が、なぜここへ電話なんかかけてくるんだろう。
『……無視ですか、そうですねわかりました。こっちも好き勝手言わせていただきます』
あちゃ、こっちが何も答えないせいで、ミクの機嫌が斜めになってしまったようだ。
『この前……平田浩平が暴れたときに、彼を傷つけず穏便に鎮圧してくださってありがとうございます。ガードナーがいたのにあなた自身が平田を抑え込んだのは、何か意図があったのでしょうか、きっとあったんでしょうね。……力を見せつけたかったんでしょうかね』
最後の言葉だけ囁くような音量だった。ウィドウに似て皮肉に何の捻りがないミクに、僕は思わず苦笑する。まぁ、こう見えてもソウゴは“杖道”という武道を会得しているが、彼が力を見せつけるような男ではないことは、君だってよく知ってるでしょ。
ん? 杖道って何、だって? 僕もよく知らないけどソウゴの説明によると、棒っきれで相手を叩いたり、払ったり、突いたりする武術らしいよ。
『平田の方は暴行未遂の現行犯として逮捕しましたが、そのあと殺人未遂の疑いで再逮捕しました。……あなたには一応お礼を述べておきます』
新人検察官の悔しそうな声が受話器越しに聞こえた。
『いいですか御影弁護士、一度勝訴したからといって気を抜かないでくださいね。私はすぐにあなたを追い越してみせますから。また会う日まで覚悟していてください。では』
ガチャン。ツー、ツー……。
どうやら、ミクが電話を切ったようだ。やっとうるさい電話の音がやんで、僕は清々しい気分で受話器を元に戻す。
ふん、電話越しの宣戦布告か。面白いじゃないか。悪いが、ソウゴはそう簡単にやられるような柔な男じゃない。また返り討ちにしてみせるさ。
「――電話が来たのか……?」
のそっ、と部屋の出口から背広を持った男が現れた。おっと、どうやら相棒がずいぶんと早めに目を覚ましたようだ。全くいいご身分だね。
寝起きのソウゴは、もちろん着ているスーツも裁判の時に着ていたものだ。ワイシャツがシワだらけになっている(これブランドものだよね、いいのかな)。髪の毛の方も、今は見事な芸術品となっている。爆発は芸術だもんね。
「誰からだ……?」
いや相棒、電話の相手を確かめる前にシャワーでも浴びてくれば?
僕はソウゴを見てつくづく思った。相棒って、俗に言う“ワーカーホリック”に分類されるニンゲンなのではないだろうか?
仕事がない状態の彼は、何をすればいいのかわからなくて戸惑っているように見受けられる。トレーナーとジーンズという地味な私服に着替えた彼は、過去の事件の資料をパラパラとめくったかと思えば、それを閉じてすぐにテレビをつける。めぼしい番組がなかったらテレビをけす。つける、けす、つけるけす、つけるけすつけるけす……。
かと思えば、寝室に戻って例の調べものを始める。だが、生活リズム崩壊から来る体の虚脱感からか、それも長くは続かなかった。
まぁ、そんなとりとめのない行動を連発するソウゴへ(ある意味で)救いの手が差しのべられた。来客を告げるインターフォンが鳴ったのだ。……ん? 相手は誰だって? ほら、あれだよ。
僕にとっての女神様さ。
★
インターフォンの音がしても、ソウゴはすぐに動かなかった。
なぜか。簡単だ、彼は居留守を決め込むつもりだったのだ。だけど、さっきの電話の音のようにインターフォンもまた、しつっこく鳴らされて止む気配がなかった。もう、三回鳴らして出なかったら諦めてよ。
「……うるさい」
その気持ちはもちろんソウゴも同じだった。ついに彼は根負けして、ずかずかと玄関へ向かう。恐らく文句のひとつでも言おうとしたんだろう、ドアを乱暴に開けて身を乗り出した瞬間、予想に反して彼は沈黙した。
「……宮野さん?」
ドアの前で待っていたのは、二日前の裁判の被告人、マサミだった。清楚な服を身に纏った彼女は、ソウゴの姿を見て同じように絶句している。あ、多分ソウゴが私服だったからだ。
「……あの、昨日お伺いしたのですが、事務所にいらっしゃらなかったみたいでしたから……」
いやマサミ、こいつはいなかったんじゃなくて爆睡していただけ。
「……依頼費ですか。それなら手付金のみで結構と二日前に申したはずですが」
ソウゴは右手で頭を掻いた。今回の依頼の報酬は、手付金と裁判が終わった後の判決結果によって支払われる追加報酬に分けるという契約だった。しかし今回、ソウゴは勝訴したのにも関わらず、裁判の内容に納得できなかったのか、追加報酬を受け取らないと言ったのだ。
するとマサミは首を横に振る。
「いえ、そうではないんです。……今日はお願いがあって来ました」
「はい?」
お願い? まさか、また何か厄介なことに巻き込まれたのだろうか。
彼女はその“お願い”を言う前に一度深呼吸した。そして……。
「……私を、ここで雇ってくださいませんか?」
「……」
三十五時間睡眠から目覚めたばかりのソウゴの頭では、マサミの放った言葉をすぐに理解することができなかったみたいだ。
「……」
「……」
「……は?」
たっぷり数十秒が経ち、やっとのことで出た彼の反応はこれだった。
ふう……。どうやら、数日間にわたってソウゴに降りかかった騒動は、まだ幕が下ろされそうにないようだ。