五日目 2
裁判長の声に覆い被さる形で、叫び声が響いた。一瞬、誰が何を喚いたのかわからなかった。その後すぐに訪れた、耳鳴りのような静寂の中、全員が叫んだ本人を注視する。
「そうだ! あいつは僕を裏切ったんだ! そんな奴からそれ相応の手当てをもらって何が悪いッ! それを拒むなんて許されるかッ!? いやッ、許されないだろッ! こいつは例え死んだって当然の報いだッ!」
沈黙。
しばらくの間、コウヘイの荒い息づかいだけが法廷内に聞こえていた。ミクも、マサミも、陪審員や裁判長、傍聴席だって、誰一人として言葉を発しなかった。否、発することができなかった。そして、その沈黙を破ったのは……。
「ではあなたは、事件当時にも殺意があったことを認めるんですね?」
「っ……えッ、いやッ」
コウヘイは、ソウゴの静かな質問を受けてやっと我に返ったようだ。だが、もうすべてが手遅れだ。
彼は、マサミを憎んでいたんだ。彼女を愛していたのにも関わらず――いや、愛していたからこそなのだろうか。いずれにせよ、ニンゲンの心理など僕にはわかりやしない。
「裁判長」
カッ、とソウゴは踵を鳴らして裁判長の方を向いた。先程あんなに激しい尋問をしたとは思えないほど、彼の声と表情は冷静そのものだった。
「弁護側は最後の証拠を提示します。追加資料の最後のページです」
裁判長をはじめとする、資料を持った全員がページの音を鳴らす。僕は資料を見なくても、最後のページに何の証拠が載せてあるかすでにわかっていた。
写真だ。
女性の、首元を写した写真だ。そこにはもちろん、怨念のように張り付いたあの痣が写し出されている。
「この写真は、被告人の首元を写し出したものです。ご覧の通り、首元には指の形に近い痣があります」
ミクが息を飲んだようだ。その音が僕の耳に響く。
「専門家に見てもらったところ、この痣の形は成人以上の男性が首を絞めたときにできる痣と酷似しているそうです」
ソウゴは、弁護台に置いてある一枚の紙を、他の人にも見えるようにかざした。痣を見て貰った専門家(と言っても医者だけどね)の証言書だ。
「被告人は、事件の日に被害者に首を絞められた。しかし、裁判が始まってもそのときの恐怖心からこの事を言い出せないでいました。しかし、今回は勇気を振り絞って私に話してくれました」
ソウゴは最後の仕上げ、とばかりに一字一句を力強く発する。証言台に立っているコウヘイは、まるで魂をヨノワールに持っていかれたかのように放心した状態だった。
「被害者は、事件当時に殺意があった可能性が高く、被告人に暴行および殺人未遂を犯した可能性が高いです。リオルがモンスターボールから自らの意思で出たかは、証拠がないのでわかりませんが、ポケモンを使った攻撃も、十分に正当防衛となるのではないでしょうか」
ソウゴはちらりと法廷を見渡した。
ミクは、ただでさえ丸い目をさらに丸くして、ソウゴを睨んでいる。傍聴席は、ヒソヒソと控えめなざわめきに溢れていた。
そしてマサミは二人の警官に挟まれた被告人席にて、一筋の涙を流していた。その涙は、いったい誰に向けられたものなのか――コウヘイの本心を知った悲しさか、こうなってしまった自責の念か、無罪への曙光を見出した嬉しさか――たぶんそれは本人にしかわからないだろう。
「……弁護側からは以上です」
ソウゴは、そのすべての光景を目におさめた上で、淡々とそう述べるのだった。
マサミのアパートにてあの壊れた時計を探し当てたときから、ソウゴの脳内ではすでに裁判に勝つ方程式が出来上がっていたようだ。だがその方程式はある意味で、彼が弁護士としての“タブー”に触れなければならない方程式であった。それは即ち、物的証拠を用いて理詰めで攻める“正攻法”ではなく、コウヘイの性格を利用して彼を揺さぶり、陪審員に『彼が事件当日に暴力を振るった』という印象を埋め込む、いわゆる“刷り込み”という名の“タブー”。
これを使ったら、裁判に勝てる可能性はぐんと上がる。しかし、裁判に参加したニンゲンのほとんどに、ソウゴが卑怯な手段で勝ちにいく弁護士だという印象を植え付けてしまうリスクが伴う。
だが、ソウゴはあえて裁判に勝つことを選んだ。
マサミのアパートを発った後、ソウゴはまずコウヘイという人物の特徴を徹底的に洗い出した。そこから、彼が普段から感情的になりやすい性格だということを知ったソウゴは、コウヘイに直接尋問をかけ、ボロを出させる作戦に出る。
マサミには、首の痣を病院で調べてもらうように指示した。そして、新たな証拠の申請と、コウヘイの尋問要請を裁判所に提出し、あとはひたすら尋問のシュミレーションだ。とにかく重要なのは、陪審員にコウヘイの悪い印象を植えること。コウヘイがどんな言葉を発したらどう対処するか、ミクが邪魔をしてきたらどう反駁するか、あらゆる場面を想定したシュミレーションは、窓越しの空が白んでくる頃まで続いた。
だが、実際に尋問をすると危なっかしい場面も多かった。最後なんて時間切れギリギリでコウヘイが感情的になってくれなかったらまずかった。ソウゴ自身は、今回の裁判の内容に決して満足はしていないだろう。
そして、気になる裁判の判決だが……。
『――判決。被告人・宮野正美に、無罪を言い渡す』
まぁ、思った通り。ソウゴの“刷り込み”作戦は見事に成功したというわけだね。
★
「御影弁護士ッ」
マサミに判決が言い渡され、無事に裁判が閉廷したあと、僕らの背後からあの『はいひーる』の音と共に、ソウゴの名を叫ぶ声が当たった。誰かが来たかは目をつぶってでもわかったが、僕らはその方を振り返る。
ミクだ。彼女の目の下はうっすらと赤く染まっていて、端正な顔が面白いほどに歪んでいる。
「あなたはッ……あなたが、そんな弁護士だったなんてッ」
やはり、ミクはソウゴに怒っているようだった。それを予想していた彼は、淡々とした声で返す。
「『そんな弁護士』とは、どんな弁護士でしょうか」
「あり得ないわ……! あなたを憧れていた昔の私がバカみたいッ」
「……」
ミクは忌々しげに小さく叫んだ。ソウゴはその細い目をさらに細めて、静かに彼女の罵りを聞いている。
「覚えておいてくださいッ。私はいつか、あなたを必ず倒しますからッ!」
「そうですか、楽しみですね。頑張ってください」
ミクって、純粋に負けず嫌いなんだなぁ。見ていて微笑ましいと思う僕はちょっとオヤジ気質だろうか。ソウゴはなんでもないという風に無愛想に答えた。すると案の定、ミクはさらに顔を上気させて、腹立たしげに踵を返してしまった。
「ふん、あんたの相棒はとんでもない奴だね」
ムウマージが僕に向かって負け惜しみを言ったので、僕はここぞとばかりに満面の笑みを浮かべてやった。
「君の相棒が、ソウゴを倒す日が楽しみだね」
「はっ」
僕がそう返しておくと、ムウマージはそれを鼻で笑った。彼女はさらに何か皮肉を言うかと思ったが、黙って去っていくミクの後を追おうとしたので、その背中に声をかける。
「僕はフウラ。君も名前ぐらいは名乗っておきなよ」
「……ふんっ、あたしゃウィドウって名さ。覚えておきなっ」
ミクが去ってしばらく経つと、今度は二人の警官に挟まれたマサミが、廊下の向こう側からこちらへ向かってきた。その顔は、疲れたような、緊張が解けたような、なんとも複雑な表情で、それがさらに彼女の儚さを引き立たせているようだ。彼女は今から、釈放の手続きを済ませて無事に外へ出られるだろう。
「あ……」
ソウゴの姿に気づいたマサミは、ふと小さく声をあげて立ち止まった。警官たちは遅れて立ち止まる。
「……少し、彼と話をさせていただけませんか」
マサミは警官たちに言った。すると彼らは、本来なら許されていないことながら、顔を見合わせた後、一歩身を引いてくれた。マサミは彼らに頭を下げる。
「……御影弁護士」
「はい」
「ありがとうございます」
「いえ」
この二人の会話は、いつ見てもぎくしゃくしていてもどかしい。
「勝訴したのに、あまり嬉しそうではありませんね」
「今回の裁判は……正直博打でした。勝って負けたようなものです」
「そうですか……」
マサミの返答には歯切れがなかった。ソウゴは片方の眉を本の少しつり上げる。
「まだ何か、言いたいことがあるんですか?」
「……あなたは、この裁判でいろんな方に悪印象を持たれてしまった。果たして、これで、よかったんでしょうか……?」
「あなたには関係の無いことです。釈放されれば、依頼者ではなくなるのですから」
「……」
「もうよろしいですか」
一体どうしたんだろうか。ソウゴの口調は、いつもより突き放すかのようだ。もしかして、マサミに心配されていることに戸惑っているのだろうか。ソウゴは、促すようにマサミの肩をやんわりと押しやった。マサミは、まだ何かを言いたそうにするがなされるままに彼へ背を向ける。その時。
咆哮。獣の叫び声のような奇声と共に、何かの足音が近づいてくる。ダダダダッ。まともじゃない足音だ。完全につんのめるのが前提の走り方。
その音は、僕の前にいる二人よりも向こう側から聞こえてきた。いや、もう目前だ。あれは誰だ。
包帯だらけのそいつは、真っ直ぐマサミに迫った。叫びながら、彼女に襲いかかる。ニンゲンの叫びじゃない。
「ぁ……」
「宮野さんッ」
彼女は固まっていた。動けない。あのままではそいつに襲われる……そのギリギリの瞬間に、マサミの横から何かが突進した。黒い物体――いや、スーツ。あれはソウゴだ!
マサミに突進したソウゴは、二人で廊下に倒れ込んだ。包帯のニンゲンは、バランスを崩す。あれは、やはり間違いない。信じたくないがコウヘイだ。
「よくもッ……僕を裏切ったなマサミぃッ!」
怪我をしているはずのコウヘイが、体制を立て直すのは驚くほど早かった。僕はすぐにコウヘイを迎撃すべく走り出す。
「来るなフウラッ」
僕は急ブレーキを踏んだ。ソウゴの声だ。彼も立ち上がってマサミをかばうようにコウヘイと対峙している。
なぜ止めるんだ相棒ッ!
「相手は怪我人だ」
ばかっ、だからってどうするんだよ!
「うわぁああッ!」
そう言っているそばから、コウヘイが再び二人に向かって走り出した。
ソウゴの方は、一瞬廊下全体を一瞥する。視界の端に、警官たちがコウヘイを捕まえようとしているのが見えただろう。だが、間に合わない。
するとソウゴは、廊下の端に置いてあった木製の棒に手を伸ばした。あれは、デッキブラシか! 彼はそれを両手に持ち、突くようにしてコウヘイに構える。彼の笹の葉みたいな目が瞬間、光ったように僕には見えた。
その後は、一瞬だ。
コウヘイには、デッキブラシの動きが見えなかったに違いない。わずか数秒の間に、ブラシの柄の先がコウヘイの手、肩、最後に喉元を正確に突いていた。もちろん、突いた箇所の全て彼が怪我をしていない部分だ。
喉元をやられてしまえば、いくら屈強な男性でも悶絶しないわけがない。彼が大きく体をのけぞらせた瞬間に、後ろから二人の警官が覆い被さり、「大人しくしろッ」と叫んでコウヘイの両手を拘束する。彼の方も、離せだの、この女はあぁだこうだ、だのと訳のわからないことを喚いてはいたが、実にあっけなく警官に引きずられていった。
「宮野さん」
ソウゴは、彼らの姿が見えなくなると、廊下に力なく座り込んでいたマサミの方に寄った。彼女は俯いていて、腰が抜けてしまったのか立ち上がれないようだった。
「……宮野さん」
彼は、マサミの肩に静かに触れた。弾かれたように顔をあげたその目の縁に光るものがあった。
「……終わりましたよ」
ソウゴは彼女を真っ直ぐに見据えて、いくらか穏やかな口調でマサミに言った。相棒って、こんなに優しい声を出せたんだ。
すると彼女は……。
「っ!?」
ソウゴは、叫び声をあげそうになったのをかろうじて抑えた。それも無理はない。マサミが彼の腕の中へ抱きついたからだ。そしてスーツに顔を埋めて、声もなく、ただひたすらに泣いた。喘ぎ声を漏らした。
今まで、どれだけ我慢していたのだろうか、その程度は僕には計れない。だが、しばらく呆然としていたソウゴが、慰めのつもりなのかマサミの背中をさすると、彼女はついに声をあげて号泣し始めた。
しばらくの間、廊下には彼女の声だけが響いていた。