五日目 1
第二公判当日。
二日ぶりに裁判所へ訪れたソウゴと僕は、なんの偶然か、いきなりミクとムウマージにばったり会ってしまうという不運に見舞われた。ソウゴ自身は不運に感じているかどうかなんてわからないが、少なくとも僕には運が悪い。
「おやおや、負け戦をしに来た弁護士たちのお出ましだねぇ」
ほら、さっそくムウマージが捻りのセンスも感じない嫌みを飛ばしてきた。
「恥をかかないうちに身を引いておいた方がいいんじゃないかねぇ」
「君は救いようの無いアホだね」
こんな奴に気の利いた言葉なんか選ぶ必要もあるまい。僕もストレートに物を言うことにした。
「ソウゴは、君なんかが思っているような弁護士の器じゃない。君の相棒は負ける。君がそんな態度じゃ、ね」
これ以上彼女と会話をしているのも無駄かな。僕はそう思って早々に退散することにした。「逃げるのかい?」というあざけりの言葉を背中に受けたが、なんのことはない。こういう奴には実際に敗北を味わってもらった方が、手っ取り早く自らの阿呆さを身に染みてくれるだろうからね。
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第二公判も、第一公判と裁判の流れは大差ない。
検察官側の意見陳述の時にミクは、依然変わりなくマサミを過剰防衛として処罰する姿勢を崩さないと述べた。恐らく、陪審員たちも今はミクの意見を支持しているかもしれない。
ミクの陳述が終わると、待ちに待ったソウゴの出番だ。
「弁護側は、被告人が取った被害者への行動を、正当防衛だと主張するに当たって、いくつかの証拠を提示したいと思います」
弁護台に上がったソウゴは、前置きなく単刀直入にそう言い放った。法廷内がほんの少しだけざわめく。それはそうだろう。前回の裁判で、すでにソウゴは断崖絶壁に立たされていたのだ。普通なら、そこから彼が巻き返しをはかることなどできないと思うに決まっている。
「なお弁護側は、その証拠を提示するに当たって――」
ソウゴは少しだけ語調を強めた。
「――被害者・平田浩平氏の尋問を要請します」
この言葉に、果たして法廷内で驚かないニンゲンがいただろうか。
私語厳禁であるはずの空間がザワッとどよめいたところを見ると、多分いなかったんじゃないかな。あの新人検察官やマサミですら、口をぽっかりと開けていたのだから。
だが、ソウゴと僕はその反応ですら昨日から予想していた。先日、マサミの家で時計を見つけ出した後、ソウゴは真っ先に裁判所へ寄った。そして何をするかと思えば、明日の裁判でコウヘイへの尋問は可能か、と聞きに行ったのだ。その時はもちろん僕も驚いたよ。
裁判所の話では、コウヘイへの尋問は可能だということだった。怪我自体はかなりのものだが、意識は比較的はっきりしていて、本人の出廷するのは可能だとのことだ。ソウゴが、コウヘイにどんな尋問をするかはよくわからないが。
数分後、法廷の証言台にコウヘイが現れた。全身痛々しい包帯姿だ。顔のほうは、整ってはいるがのっぺりとしていて笑顔が胡散臭そうだ。この男が果たして暴力などというものに縁があるか甚だ疑問だが、ヒトは見かけによらないのがこの世の理だろう。
僕はふと、マサミが昨日放った「一度は彼を心から愛した」という言葉を思い出した。マサミが愛したコウヘイは、いったいどういうヒトなのだろうか。僕は持ち前の好奇心を掻き立てられた。
「では御影弁護士、始めてください」
と、僕が考えに耽っていると、裁判長がソウゴにそう指示をした。
よし相棒、昨日からほぼ徹夜で作り上げた僕らの手札を、バシッと彼らに突きつけてやれ!
「ではまず、あなたの名前と年齢を教えてください」
ソウゴは証言台に近づいた後、コウヘイに向かって言った。
「名前は平田浩平、歳は三十です」
彼の声は、以外に丸くて穏やかな低音だった。なるほど、この声に囁きかけられたら、ニンゲンなら誰だってドキリとするかもしれない。
「被告人とはどういう経緯で知り合ったのでしょう?」
「えっ? ……知人の紹介で知り合いました」
ソウゴの質問が予想外だったようでコウヘイは一瞬口を開けたものの、彼はすぐにそう答えた。周囲の反応は疑問系が多いようだが、ソウゴはいたって平常時の表情だ。
「なるほど。マンションの住民の話を聞くところによると、あなた方は夫婦円満だったようですね。離婚に至ってしまった理由は一体なんでしょうか」
「異議あり!」
やはり来た、ミクだ。彼女はそう声を張り上げて立ち上がる。
「被害者と被告人の離婚は、今回の事件とは関係がありません!」
「果たしてそうでしょうか」
もちろん、昨日のシュミレーションでミクが異議を唱えることはすでに予想済みだ。ソウゴは慌てず騒がず、冷静に反論する。
「物事には理由があります。正当防衛にしても過剰防衛にしても、理由も無いのにリオルを使って暴力をふるい、刑務所に入りたがる人間はいないでしょう。もし被告人が“意図的”に、被害者へリオルを使って重傷を負わせたことに理由があるならば、私はそれが二人の仲の拗(こじ)れにあると考えます。だからこうして二人の仲を掘り下げているのです」
「検察側の異議を却下します。弁護側、続けてください」
裁判長の決定に、ミクが悔しそうに席へ座った。ムウマージの表情をみたら、これまた胸がすく思いだ。
「離婚に至った理由……」
コウヘイは口をへの字に曲げた。これは果たして本心か、それとも演技か。
「彼女……正美には、結婚する前に付き合っていた人がいました。僕は、結婚する時にその人の一切を忘れてほしいと言った。なのに、彼女は元彼から貰ったリオルを育て続けていた。それに僕は耐えられなかったんです。僕は正美を愛していたんだ」
コウヘイの語調が最後だけほんの少し強くなった。まさか、彼の正美に対する愛は本物なのか。
「離婚を切り出したのはどちらですか」
「僕です」
「ほう。あなたから……」
ソウゴはここで意味深な休符を一拍置く。こういう憎たらしい演技は上手いんだよね、相棒は。
「それが何か?」
もちろんコウヘイはムッとした。それは当たり前だ。
「あなたは、被告人をどう思っていますか? 結婚した後も元の彼氏に未練たらたらでしたから、相当な不快感でしょうね」
「それはもう、ね。二度と顔を見たくないと思いましたよ」
第一のチャンスが到来した。僕は内心で万歳をする。たぶんソウゴも、外面は変わらないが我が意を得たりという心情だろう。
「『二度と顔を見たくない』……そのわりには、離婚後も頻繁に被告人の家を訪れていますね。なぜですか?」
「えっ……。それは、事情が、変わったんです」
少し、ほんの少しだがコウヘイは吃った。そこへソウゴは容赦なくたたみかける。
「事情、と申しますと?」
「彼女が原因で離婚をしたんだから、慰謝料を請求するのが普通でしょ? だから、貰いに行ったんですよ」
「慰謝料?」
「生活費です。正美のせいで離婚して、僕が家を出たんだ。少しぐらい貰ったってバチは当たらないでしょう」
「事件当時にあなたが被告人の家に行ったのも、その生活費とやらを貰うためですか?」
「……そうです」
「だが被告人はそれに渋った?」
「……」
ソウゴの質問に、コウヘイは少しの間沈黙した。一応彼には黙秘権が認められているが、もしかして答える気がないのだろうか。
「あなたは、生活費を求めただけなのに一方的に被告人から攻撃を受けた。あなたはそう主張するんですか」
「……はい」
第二のチャンスが到来した。ソウゴは証言台に手をつけてコウヘイを見据える。元々笹の葉みたいな目をしたソウゴは、凝視されるとなかなか怖い。
「妙ですね、被告人はお金をあなたに出したくなかった。ならば、暴力など振るわずにあなたにお引き取り願えばよかったのではありませんか。それとも、被告人は普段からヒステリックな性格でしょうか?」
「……その日はたまたま、極度にイライラしていたんじゃないですか」
コウヘイはぶっきらぼうに答える。が、ソウゴは彼の言葉が終わらないうちに声をあげた。
「あなたは本当に、被告人に何もしていないのですか? 例えば――」
「裁判長っ!」
ミクは、今までの手際では考えられない混乱した様子だった。やはり場数を踏んでいない彼女には、追い詰められたときに冷静さを保つ精神力は養われていないのだろう。五年後……いや、二年後にソウゴと戦っていれば。
「弁護側は根も葉もない憶測で被害者を揺さぶろうとしています! これは尋問ではありません!」
「証拠は存在します」
ミクが第三のチャンスを僕らに与えてくれた。ソウゴはここぞとばかりに声をあげる。まさか、ここまでシナリオ通りに事が運ばれるとは。後が怖くなってきた。
『証拠がある』という弁護側の主張に、法廷内の空気がピンッ、と張りつめたような気がした。
「前回の公判では存在しませんでしたが、昨日新たに証拠が上がったので申請しました。平田さん――」
ソウゴは一度弁護台に戻って、そこに置かれた袋に手を伸ばした。透明なジッパーのついた袋だ。ソウゴはその袋を、証言台のコウヘイへ見せた。
「――これに見覚えはありますか?」
ソウゴが手に持った袋の中には、蓋と本体がぱっくりと分かれてしまった、コンパクトサイズの時計が入っていた。
「これに見覚えはありますか?」
ソウゴは、袋の中に入っているものを、わざと『これ』と言った。
袋の中身はまさしく、ソウゴがマサミのベランダから見つけ出した時計だった。コウヘイは、袋の中身を凝視した後、「正美の家の時計ですね。壊れてるけど」と言った。
「それがどうかしたんですか?」
「この時計は、被告人の住むアパートのベランダから発見されました。ご覧の通り、壊れてしまっています。あなたなら、なぜこれ壊れたか心当たりがあるはずです」
「……」
「この時計は、時刻が七時五十七分で止まっています。前回の公判で証言台に立った泉氏の証言によると、『リオルが暴れだしたのは八時丁度』と言うことでしたが、なぜリオルが暴れだした八時以前に、時計は壊れてしまったのでしょう?」
「異議あり!」
再びミクが立ち上がった。ソウゴとコウヘイは同時にその方を向く。
「その時計が必ずしも泉洋子さんが見ていたテレビの時刻とピッタリ一緒だとは限りません。その時計が数分遅れていたんでしょう。証拠になりません!」
「この時計はテレビの時刻とピッタリ一緒だったはずです。平田さん、あなたならわかりますよね? 被告人がこの時計を、わざわざテレビの時刻に合わせていたことに」
正直、時計でコウヘイに揺さぶりをかけるのは姑息な手だと僕は思った。だが、ソウゴもそれをわかっているはず。
「リオルが暴れだした以前にこの時計が壊れた理由はなんですか?」
「……正美が、僕に投げてきました」
コウヘイは慎重に答えた。探るような目でソウゴを見つめている。
「なぜ被告人は、時計を投げたのですか」
「きっと癇癪を起こしたんだ」
「理由も無しに、ですか? 被告人が突発的にそういう行動を起こすような人柄ではないことは、あなたが一番よく知っているはずですが」
「いったい何が言いたいんですか!」
どうやら、ソウゴの物言いがコウヘイの癪にさわってしまったらしい。彼は苛立たしげに小さく叫んだ。だが、ソウゴは攻撃の手を緩めない。
「私は、もしあの時癇癪を起こしたなら、被告人ではなくむしろあなたではないかと思うのですが」
「どうして僕が! 癇癪を起こす理由なんか無い!」
気のせいだろうか、コウヘイの声は、先程よりも取り乱したように聞こえる。
「あなたの会社の同僚の話を聞くところによると、あなたは普段から少し感情的になりやすい性格のようですね」
「だからって、あの時感情的になっていたとは限らないでしょ」
「果たしてそうでしょうか? あなたは、他の男から譲り受けていたリオルを育てる元妻が憎かった。違いますか?」
「違いますよ!」
「自分を裏切った女は不幸になって当然だ、と思っているのでは?」
「裁判長ッ!」
検察台から、『はいひーる』がカッ、と鳴った。新人検察官は、その蛾眉を歪ませて裁判長に叫ぶ。
「弁護側は憶測だけで被害者を精神的に攻撃していますッ! これ以上の尋問は無意味ですッ!」
「御影弁護士、これ以上無意味に被害者を揺さぶるのなら、尋問を取り下げますよ」
「後少しで終ります」
珍しくソウゴが切羽詰まった声で早口に言った。頑張れ相棒、もう時間がない!
「平田さんあなたは、生活費と称して被告人から金銭を奪うことで、被告人への復讐とした。だが、その被告人が“生活費”をこれ以上出さないと言った! だから……」
「御影弁護士!」
裁判長が叫ぶ。しかし、ソウゴはそれを無視してさらに続ける。
「自分の思い通りに行かなかったあなたは、思わずカッとなって、被告人に殺意すらわいた!」
「弁護側の尋問を却下――」
「ああそうだよッ!!」
裁判長が尋問の取り下げを命令しようとした瞬間、その語尾にかぶさる形で、叫び声が空間を裂いた……。