四日目 5
マサミがゆっくりと開けたドアは、キィとアパート独特の蝶番の音を響かせた。今は昼なので、照明が落とされていても部屋の中は明るい。マサミに続いたソウゴは「失礼します」と言って玄関へ入り、僕は足の裏が汚いという理由でマサミに抱えられながら中へ入った。僕って意外に重いよ、大丈夫?
残念ながら、事件があったであろうリビングは、やはりきれいさっぱり片付けられてしまっていた。事件の名残といったら、アイが激突して出来たらしい壁の凹みぐらいか。幸か不幸か、アイの暴れようは横の部屋を突き破るまでとはいかなかったらしい。
僕は改めてミクの仕事の早さに脱帽した。検察官は警察と協力し合いながら捜査を進めるから、この手際の良さから見て、彼女は警察とうまい具合にやっているらしい。ソウゴには持ちえないコミュニケーション能力だ。
「やっぱり、ほとんど片付けられていますね」
「部屋が元に戻っても、事件当時の再現は可能です」
マサミの言葉を受け、ソウゴは視線を部屋に向けたまま言った。そして、不意に彼女を見る。
「思い出すのはお辛いかもしれませんが、事件当時の様子を初めから説明していただけませんか」
ソウゴの口から『お辛いかもしれませんが』と言う単語が発せられたのに僕は驚いた。相棒が他人を気遣う言葉を使うなんて。
「……わかりました」
マサミは抱えていた僕をソウゴに預け、ダイニングに置かれている『てーぶる』へ近づく。そして、僕らから見て右側の席を指差した。
「ここに彼……浩平が座っていて、その向かいに私が」
「ストップ」
ソウゴは説明が始まった瞬間だというのに、いきなり彼女へ待ったをかけた。
「そこからではなく、もっと前――平田氏がインターホンを押したときぐらいからお願いできますか」
そこから!?
結局、事件の再現はソウゴの提案通り、なぜかコウヘイがインターホンを押すところから始まった。が、僕からすれば、どこをどう見てもそこから再現を始める必要性を感じることができなかったから、その間の説明は省かせてもらう。なぜそんなところから始めたかったのか、ソウゴの思考回路は、一般人はおろか僕でも理解不能だ。まぁ彼は彼なりに事件を整理したかったのだろう。
さて、再現はマサミとコウヘイが『テーブル』に腰かけたところまで差し掛かった。つまり僕の目の前の『テーブル』には、マサミと、いつの間にかコウヘイ役に扮したソウゴが向かい合って座っている。
「――で、ここから平田氏は、本題である生活費問題をあなたに持ちかけるわけですね」
「ええ」
「それが何時何分頃だったか覚えていらっしゃいますか?」
ソウゴの左手には彼が使い古した手帳、右手にはペンが握られている。そして『てーぶる』の上には録音機が“録音中”の表示された状態で置かれている。
「七時……半頃だったと思います」
ソウゴは聞き取った情報を素早く手帳に書き込んでいく。
「続けてください」
「……私は、生活費を捻出してほしいという彼の頼みを断りました。もうさんざんあげたから、と言って」
「だが平田氏は引き下がらなかった?」
ソウゴの問いに、マサミはぎこちなく頷く。
「会話自体は二十分ぐらいだったと思います」
「その時の平田氏の態度は?」
「不遜……だったと思います。少なくとも謙虚ではなかったかと」
そう言ったマサミは、お前金あるんだろ、とコウヘイの台詞を口にした。
「アルコールが入っていた可能性は?」
「素面でした」
ソウゴの手帳に“素面”という文字が追加される。
「それで私は、彼に引き取ってもらうために――」
マサミはイスから立ち上がって、玄関に向かう。ソウゴは『てーぶる』に座ったままだ。
「――玄関へ行って浩平へ帰るように頼みました」
姿が見えないまま彼女の声だけがダイニングに響く。「それで平田氏は?」と、ソウゴは声をあげた。
「私の方に来ます」
ソウゴは録音機を胸ポケットに入れて立ち上がった。そして玄関へ向かうと、マサミがドアの前で待っている。
「『わかった、今日は帰るよ』と彼は言ったので、私はドアを開けたました」
マサミはソウゴの前でドアを開ける。となると、マサミがコウヘイに背を向けることになるから、必然的に彼女の視界からはコウヘイが見えなくなる。
「この瞬間、私は……」
マサミの言葉が唐突に途切れた。ソウゴは何も言わずに次の言葉を待っていたが、彼女は一向に喋ろうとしない。そしてドアノブを握ったままの手が小刻みに震えている。
「……後ろから、ガツンとやられて、それで一瞬気を失ったんです」
「……」
「それで、ふと気づいたら、私は、ダイニングに倒れていて、あの人が……部屋を、漁っていました」
「なぜ」
「多分、現金か、キャッシュカードを、探していたんだと、思います……っ」
マサミの声は、しゃっくりをあげたときのように軸が揺らいでいた。もしかしたら涙をこらえているのかもしれない。いくら気丈なふりをしていても、やはり彼女の中でこの一件は、トラウマ以外の何でもないんだ。
ソウゴはただでさえ細い瞳をさらに細める。
「……少し休憩しますか」
マサミはゆるゆると首を横に振る。
「だいじょ……大丈夫、です」
彼女は力なくドアを閉めた。そして、ダイニングへ引き返す。
「目を覚ました後、意識は朦朧としていましたが、あの人が何をしていたかはわかりました。だから、私はあの人を止めようとしました」
ソウゴは「どんな風に?」と言って、自分をコウヘイだと思ってやってみろ、という風に軽く両手を広げた。相変わらずさらりとものすごいことを言うね、君は。
「え、やるんですか?」
「ええ、何か問題が?」
「……」
マサミはしばらく黙っていたが、おずおずといった様子でソウゴに後ろを向かせた。そして、「こんな感じです」と消え入りそうな声で言うと、一瞬ものすごく躊躇って、控えめに彼の背中へ抱き着いた。ん? 心なしかマサミの顔が……。
だがソウゴの方は顔色なんて全く変えずに、「この後平田氏は?」と、いけしゃあしゃあと聞いてくる。相棒に恥じらいの感情を求めた僕が馬鹿だった。
マサミはソウゴの問いにハッとして、慌てて彼から離れた。ごめんマサミ、こいつはただ徹底的にやりたいだけなんだ。
「あの人は、止めようとした私の髪の毛を掴んで、テレビの横の壁に押し倒して」
「では、テレビの横へ」
彼は間髪入れずにマサミへ指示した。彼女はもう慣れてしまった様子なのか、なんにも言わずにテレビの横の壁に座る。テレビは薄型の液晶テレビだ。黒く塗装された木製の台の上に置かれている。
「倒れた私に、あの人が、その……殴りかかってきたので、私はとっさに、テレビの台にあった時計を投げ……あれ?」
台に伸ばしたマサミの手がピタッと止まった。
「……時計が、無い」
「時計」
ソウゴは短い単語を口の中で反芻した。彼の表情は、まるでその時計とやらに曙光を見いだしているかのようだ。
「それは、どんな形ですか」
「化粧に使うコンパクトみたいなやつです。テレビの時間にぴったり合わせてあるので、見たい番組があるときに便利で……」
「それを普段から台の上に置いていて、事件の時とっさに投げた、と?」
ソウゴの声音がさっきより明らかに弾んでいる。時計に対する彼の期待度は最高潮のようだ。マサミがソウゴの問いにコクリと頷く。
「本当に……無我夢中だったんです。時計なんかであの人の動きを止められ無いとわかっていても……」
「どの方向に投げましたか」
「え?」
「時計をどの方向に投げましたか」
あちゃ、いまのソウゴはマサミの話なんか聞いちゃいないな。
「えっと……あちら側だったと思うんですけど……」
マサミは、彼女から見て斜め右側を指差した。ソウゴの視点だと左斜め後ろ――ベランダの方角だ。
「投げた時計はどこへ行きましたか?」
「わ、わかりません。意識が朦朧としていて……」
「事件当時ベランダの窓は開けていましたか?」
「あ、はい。半分ぐらい」
「……」
ソウゴは無言で、ベランダへズカズカと歩いた。そして、ベランダの窓をガラリと開ける。そこには冷暖房の送風機が置かれていて、その上に観葉植物らしいサボテンが、小さい木鉢の中で花を咲かせている。その他にも、ベランダの壁に沿うように、数個のプランターが置かれていた。物干し竿も設置してあるが、洗濯物は干されていない。
ベランダに降り立った彼は、しゃがんで、膝をついて、頭を屈み始めた。ざっくり言うと四つん這いになった。僕とマサミがギョッとしたのは言うまでもない。
「み、御影弁護士、何をなさっているんですか……?」
「時計を探しています」
ソウゴはベランダを探る姿勢のまま淡々と述べた。
「で、でも、もう無いんじゃぁ……」
「完全にそうと決まったわけではないのに動かないなんて愚の骨頂でしょう。弁護士は理屈をこねることだけが仕事ではありませんから。証拠は、自らの手で探し当てるしかないんです。」
彼はそう言って、スーツ姿のまま地面を調べたり、ベランダのわずかな空間に手を入れたり、できる限りの方法で時計を探し続けた。
そして僕らが見守る中、意外にも数分とたたないうちに、彼は満足げな表情をしてリビングに戻ってきた(もちろん端からは表情が変わったように見えない)。その手には、蓋と本体がぱっくり分解してしまった手のひらサイズの時計を握っている。
「奇跡的に、プランターと壁の間にぶつかったようです。壊れています」
「あ……」
彼女は半ば信じられないような顔をして、その時計を覗き込んだ。アナログタイプのその時計の秒針は、七時五十七分の状態で止まっている。
「期待通りです。これはもしかしたら、裁判で決定的な役割を果たすかも知れません」
「え、これが、ですか?」
ソウゴは深くうなずく。
「ただ残念ながら、この時計も、あなたのその首の痣も、裁判が始まってしまった後なので証拠としては威力が弱いでしょう」
「じゃあ、どうやって……?」
「何もこの裁判では、理詰めや証拠の提示という正攻法を使う必要はありません。あなたもお忘れではないでしょう、ミオの裁判は――」
ソウゴはいつもより饒舌になって、笹の葉みたいな目を細めた。
「――陪審裁判です」
ソウゴはきっぱりそう言いきると、すぐさま鞄から透明なジッパー付きの袋を取り出してを掴んで時計を入れた。そして立ち上がる。
「今日中にやることがいくつかできました。宮野さんは今から指示することを至急こなしてください。私は少し出掛けることにします」