一日目 1
ここ最近の悩みを聞いて欲しい。どういった類いの悩みかと言ったら他でもない、僕の相棒――御影宗吾についての悩みだ。黒髪に黒の瞳、背はそれなりに高い方で肉もそれなりについている。いわゆる中肉中背の男だ。大抵の女性が気にする顔の方はというと、うん、まぁ悪くはない。人並みだ。目は二重で少し細く鋭くて、ちょうど笹の葉みたいな感じだし、鼻は標準値の高さだし、口元は笑えばえくぼができるし。まぁ、最後に笑ったところを見たのは僕がイーブイだった頃が最後だけど。目つきが鋭いとか、よくそう囁かれるのは、顔のつくりのせいじゃなくて本人の意識のせいだと僕は思うね。
まぁそれはともかく、今もソウゴは僕の数歩隣で、ゴロゴロと床を転がることができる――確か『きゃすたー』とか言っていた――が付いた椅子にぐでんと座っている。睡眠中だからか、残念ながら耳の後ろで切り揃えられた髪も今はひじきみたいになっている。足は『ですく』の上に組んで置いていて、その『ですく』の上には、これ以上散らかせないってほどの資料や本が投げ出されている。……いやそこだけではなく、ソウゴの顔の上やお腹の上にも本が置かれているんだ。
その資料や本がやけに埃っぽいものだから、事務所の空気も酷いものだ。せめて一日一回でいいから窓を開けて換気をして欲しい。散らかし放題にも関わらず、事務所の窓は密閉されていて、ここはまるで密室だ。こんな澱んだ空気では僕の額の葉っぱが萎びてしまうではないか。事務所の立地条件は良いはずなのに、住民がこんなに生活力がない男ではここを建てたヒトがかわいそうでならない。
延々と不平不満を述べてきたけど、残念ながらソウゴは僕の心境を知るよしもない。当たり前だ、言葉が通じないのだから。いや、だがたとえ言葉の壁があったとしても相棒、これだけはわかって欲しい。
仕事にのめり込みすぎて、僕にご飯をあげ忘れるのだけは勘弁して。
お腹がペコペコでいよいよ暴れだそうか、と計画を立て始めた頃になって、ようやく僕に救いの手が差しのべられた。正確には救いの『音』かな。『ですく』の上にある電話が音を立て始めたんだ。その音に反応して、ソウゴは眠りから覚めたようだ。むっくりと起き上がって、大儀そうに電話の受話器を取る。その拍子に顔やお腹に乗せてあった本や資料が床にバサバサと落ちた。いつもの光景だ、別段気にしない。ただ、散らかした汚い書類が事務所に散乱しているせいで部屋にイトマルがわいて出て、それを僕が撃破するのにどれだけの労力を費やしたかを君は知るよしもないだろう。
「はい、こちら――」
ようやくソウゴが受話器に声を吹き込んだようだ。寝起きにしては芯のあるしっかりとした声だ。恐らく電話の相手はソウゴの声を聞いて、ああ彼は朝早くから仕事に励んでいるなぁ、と感心しているに違いない。
ソウゴはしばらくの間、電話越しの相手と二言三言会話をしていたが、段々とその声音がいつもの調子になっていくのを感じた。いつもの調子、と言うのはつまり彼が普段仕事をするときの声だ。そして受話器を下ろしたソウゴは、いつの間にか椅子の背から滑り落ちたらしいスーツの背広に腕を通す。スーツの襟の裏のタグには『DEBON』とロゴが入っている。確か、このスーツは高級ブランドのはずだけど、ソウゴが着るとそれもなぜかくたびれたように見えるから不思議だ。その後ソウゴは洗面所へ行ったかと思えば、一分ほどしてまた戻ってきた。先ほどのひじきはまだマシになったようだ。そして彼は最後に、スーツの襟に付いたバッジの方向を直す。黄金色に光っていて丸いバッジ――ソウゴの身分を証明する重要なバッジだ。
「いくぞ、フウラ。仕事だ」
所々が擦りきれている革の手提げ鞄を手に取って、ソウゴは強引にドアノブを押してずかずかと外へ歩き出した。僕は渋々その後をついていくけど、歩き始めてふと思い出した。
ソウゴは、また僕にご飯をあげ忘れている。
僕やソウゴの暮らすこの社会には、大小含めてありとあらゆる事件やトラブルに溢れている。殊に僕らポケモンが絡んだ事件となると、ニンゲンだけの事件より遥かにその件数は跳ね上がる。もちろん、ニンゲンの事件――『りこん』だったり『いさんそうぞく』だったり――も数だけ見たらかなりのものだけど、ポケモン絡みのトラブルとなるとそれこそ、道ばたの石ころのようにゴロゴロゴロゴロ……と辺りに転がっているわけだ。
例えば、ポケモンバトルを一つ取り上げてみる。もしバトル中の不注意でトレーナーのポケモンが観客に被害を被らせたら? もしバトル終了時にもらうはずのファイトマネーが明らかに不釣り合いな額だったら? あまり言いたくないけど、もし相手が放った技の打ち所が悪くて自分の手持ちが急死してしまったら? 確かに大抵のトラブルがちまちましたもので、争い沙汰にまでは発展しないだろうけど、最後の例なんかはどうだろう。恐らく、裁判に持ち込まれるのではないだろうか。
ここまで説明してしまえばもうわかるだろうけど、そんなトラブルだらけなこのトレーナー社会では、弁護士という職業が非常に重宝される。そう、僕の相棒御影宗吾は弁護士なのだ。しかもただの弁護士ではなく、ポケモンの事件を専門に扱う弁護士だ。襟に付いている金色の丸いそれは、中央に天秤が彫られた輝かしい弁護士バッジ。非常に厳しい国家試験に受かった者だけに与えられる、言わば身分証名の役割を果たすものだ。
現在ソウゴは、ここ――シンオウ地方のミオシティに事務所を構えている。……そう、さっきソウゴがみっともなく寝ていたあの部屋ね。普段の生活から彼を見ると、本当に他人の弁護ができるか眉に唾をつけたくなるけど……。とにかく、先ほど電話で舞い込んだ新たな弁護の依頼をこなすべく、僕らは目的地へと向かうのだった。
ん? そういえば、僕らはどこへ向かっているんだろう?
★
ミオシティの中心には巨大な跳ね橋が架かっている。その跳ね橋といったらもう、ヒトの手で作られたはずなのにまるで古来より存在しているかのごとく、静かに通る者を圧倒する荘厳な橋だ。船が通るときには、橋がパックリ二つに分かれるのだけど、その様子もまた圧巻だね。橋を渡った時は、歩き始めてから数分しかしなかったが、僕はすでにソウゴがどこへ向かっているかを知ることができた。橋を渡って西、シンオウ最大の図書館であるミオ図書館を越えて市街地に出ると、どんよりとした空気をまとった四角い箱が見えてくる。箱、もといコンクリートの建造物の名は留置所。今度の弁護の対象はそこに勾留されているらしかった。
留置所は刑務所ほど厳重ではないけれども、真っ青な格好をした警備員や、彼らが従える警備ポケモンが巡回している。ソウゴの後を歩く僕に、警備ポケモンの一匹らしいハーデリアが鋭い睨みを利かせてきた。彼らはどんな者でも疑う性分らしい。
ソウゴは弁護士バッジにものを言わせて、受付の事務員に面会の手続きをする。そして僕らは電話を受けてから一時間程度で、弁護すべき相手と会うことができた。
鞄を脇において席に付いたソウゴは、改めて相手側と向き合った。ガラス越しに座っているニンゲンは、一言でざっくり言うと“妙齢の美人”だった。年は多分ソウゴと同じか、少し上ぐらいだろう。墨汁の染み込んだ筆でなぞったように整った眉。その眉に合わせて二つの目が控えめについていて、肌は透き通った白い陶器を彷彿とさせる。薄く引き締まった唇は、赤というより薄い桃色に近い色をしている。全体的に儚げな印象を受ける女性だ。ポケモンである僕が言うんだ、きっとかなりの美人に決まっている。だけど、今の彼女はその陶器の肌をナゲキのように真っ青に染めていて、覇気が全く無かった。
被疑者である彼女には、逮捕をされた時点で弁護士を自ら選ぶ権利がある。だけどもし、どの弁護士に依頼をしていいかわからない時や、裁判ギリギリまで弁護士を選ばなかった場合、“弁護士会”という団体が適任の弁護士を決めることになっている。僕はマサミの顔を見た瞬間、もしかしたら彼女は後者ではないかと思った。彼女はまるで、弁護なんてして何になるのかと言いたげな表情をしていたからだ。
先に言葉を紡いだのはソウゴだ。彼はスーツの懐から手のひらサイズの入れ物を取り出し、蓋を開けて『めいし』を一枚抜く。そしてそれを相手に見えるように仕切りのガラスに立てた。
「御影宗吾と申します。宮野正美さん、今回私はあなたの弁護を任されました」
ソウゴは初めて弁護する対象に会うときに、こうやって常套文句で自己紹介をすませる。この台詞は昔から、一字一句、抑揚まで全く変わっていない。一方、妙齢の美人――マサミは、立てられた『めいし』を虚ろな目で見た。まるで眠いとでも言いたげな表情をしている。
「……よろしくおねがいします」
と、彼女は『めいし』から視線を離さないまま小さく声を発した。
「あなたはすでに警察と検察の取り調べを終えて、供述調書も作り終えていますね。そして、裁判は二日後に行われます」
マサミのゴニョニョのような言葉に対し、ズバズバと桐で穴を開けるかのごとく話すソウゴ。相変わらずな相棒だ。
「事件の内容はすでに把握はしていますが、あなたにはもう一度、体験したことを話してもらいます」
「え?」
マサミが若干目を白黒させている。だが、ソウゴはお構いなしに言葉を続けた。
「あなたの口から直接話を聞かないと。調書では細かい状況はわかりませんから」
マサミは俯き加減に目を伏せ、沈黙していた。いきなり訪れた嵐に戸惑っているのか、はたまた不快感を示しているのか。
だがそのどちらにしろ、ソウゴはそれを気にしないはずだ。その証拠に、マサミがそんな表情をしている間にも、彼はすでに調書や資料を眼前に並べて、音を記録する機械――『ろくおんき』のスイッチを入れて、強引にマサミを事件の説明へと引きずり込んでいたからね。