第一夜 「探偵団と黒烏」(前編)
妖魔は闇夜に跋扈する。昔から相場はそう決まっていた。世界を包む漆黒色に身を溶かしこみ、人間の目をあざむきながら行動を起こす。人の夜目はあまりに弱くて、光がなければ数歩先さえ見通せない。要するに、夜は妖魔の味方だった。ことに丑三つ時は彼らにとってまたとない好機。だから丑三つの夜をゆく人間は、彼らの手にかからないよう、彼らの野望に飲み込まれないよう、恐れながら――あるいは畏れながら――その道をゆかねばならなかった。
しかし少女は不遜であった。わずかに二桁を迎えたばかりの歳にして、宵闇を疾駆する姿に恐怖の色はない。従えるは白のけだもの、共に臆することはなく。瞳の奥に灯した炎は、漆黒の道の上を煌々と照らす光になった。その瞳がきっと睨む先は、月と星々のきらめく夜空。その濃紺の夜空を背にして、一羽の鳥が風を切っていた。
「絶対逃がさない! 今のうちに返すものを返した方が身のためだよ!」
眠りについた家々に遠慮することもなく、少女、アカリは声高に叫んだ。視線の糸で縛り付けた黒鳥は、見まがうことなくヤミカラス。少女は右の翼に遺された稲妻模様の傷跡を見落としてはいなかった。「あのヤミカラス」に外ならない。「憎き指輪盗り」、その言葉が少女の脳裏に蘇った。
脅しめいた叫びを意に介することもなげに、ヤミカラスはその翼を休めない。少女と白獅子は疾走する。が、その距離は依然として縮まらない。視界の両端を家々の壁が色づいた線となって流れていく。真夜中の一戦は想像を超えた長期戦になりそうだった。「リコ、持ちこたえてね」アカリがささやくと、袂をゆくアブソルのリコは力強くうなずいた。
目的はただひとつ。ヤミカラスを打ち負かし、奪われた指輪を取り返すこと。単純明快だった。けれど言うまでもなく、そのただひとつの目的が、一筋縄ではいかない難題だった。
腕時計はもう一時を指そうとしていた。丑三つの夜がすぐそこまで迫っている。今夜はこいつを倒さなければ帰れない。そんな気持ちが胸を圧迫した。息がつかえたようで苦しい。けれど歩みを止めるわけにはいかなかった。黒鳥を捉えているのはただふたり、アカリとリコだけだったから。
「(持ちこたえなきゃ。コウスケが来てくれるまで、私が持ちこたえるんだ)」
主人の心が喘いでいるのを、彼女の前をゆくアブソルは気付いていない。気付かせてはならなかった。まばゆい輝きを放っていた月は、いつの間にかよどんだ色をした雲に顔の半分を喰われている。胸をも覆うような暗雲を振り払うように、アカリは自らに言い聞かせた。
◇
『日付を越えた零時半、いつものポプラの木の下で』。小指を絡めあった約束は履行された。
閑静な住宅街には夜遊びをする若者の姿もなく、すでに静寂が辺りを包んでいた。ときどき通り過ぎていく車の光から身を隠し、物陰を縫いながら突き進む。黒い影をざわざわと揺らめかせるポプラの木の下にたどり着いたとき、少女はかすかに口笛の音色を聞いた。いくらか夜の闇に慣れた目を凝らすと、口笛の生まれる場所に、ひとりの少年がたたずんでいるのが見えた。
「よう。今夜も時間内だな」
とぎれた口笛の代わりに届いたのは聞きなれた少年の声だった。駆け寄ってくる少女に向けて腕時計を指先でとんとんと叩きながら、彼は笑う。長くも短くもない髪がつんつんとシルエットになっていた。アカリはつられて自らの腕時計を見やる。家を出てから、わずかに十分しか経っていなかった。
「当たり前でしょ。こんなときにドジ踏むわけないじゃん」
アカリがにいっと口元をつり上げた。「それもそうだな」背の高くも低くもない彼と、同じ目線の高さで笑顔が絡みあった。
約束の相手はアカリのクラスメイト、じゃれあいの相手、そしてなにより「探偵団のもうひとり」。十歳の彼は名前をコウスケと言った。短パンとシャツという涼しげな格好で、夜目にははっきり見えないけれども肌はもう夏色に焼けはじめているのだろう。足元に従えたパートナーはブラッキーのルナ。瞳にたたえた深紅は、のぞき込めば引きずり込まれそうなほど深い。月の光に呼応して、漆黒の体に描かれた輪がきらきらと輝いていた。突然リコが飛びついて、まっしろな毛並みをまっくろなそれに絡めあう。転げまわってじゃれあう姿を、アカリとコウスケはくすくす笑いながら見つめていた。
どちらからともなくポプラの根元に腰を下ろす。どっかり座るコウスケと、膝を抱えて座るアカリ。ふたりと二匹の視線が同じくらいの高さになる。瞳をまっすぐ捉えられるようになって、その奥に宿した感情が鮮明に読み取れるようになった。瞳にこもった色は、だれもかれも燃え上がっていた。
ふたりの作戦会議はいつも綿密だった。経験の浅さゆえの非力は、頭を使って補うしかない。幼いながらも、ふたりはそれをよく分かっていた。当日の夜はいつも、こうしてポプラの木の下で作戦をおさらいする。互いがつぶやく言葉は瞼の裏で明確なビジョンになり、作戦を完遂する自分を描き出す。それだけで、体はずいぶん軽やかに動くのだった。
「作戦は打ち合わせたとおり、まずは二手に分かれる。あいつはきっと、ただでは姿を現さない」
「わかってる。だからこそ、あいつの根城のありかを突き止めたんだよね」
話しながらコウスケが時計を見る。最初に時計を見てから一分と経つほど言葉を交わしてはいない。約束の零時半さえ回っていなかった。
「そう。根城のありかはとっておきの切り札になる。問題は、それを突きつける前のおびき寄せ方だ」
「大丈夫。私に任せておいて、このアイデアには自信があるよ」
腰に手を当ててアカリが胸を張った。「よろしくな」、そう言いながらコウスケがもう一度時計を見る。珍しく彼が焦っているのがはっきりと分かった。夜明けまでは四時間弱があるばかり。だが今宵の探偵作戦はヤミカラスを打ち破るだけでは終わらない。取り返した指輪をこっそりとおばさんの家へ届け、家に帰ったら何事もなかったかのように眠っていなければならない。これらすべてを四時間で完遂するとなれば、討伐自体にかけられる時間は二、三時間しかなかった。ヤミカラスに持久戦へと持ち込まれたら、作戦の遂行を諦めることになりかねない。そうならないためにも、悠長に笑いあっている暇はなかった。
「コウスケ、焦ってるの」
「当たり前だろ。むしろアカリは焦んないのかよ」
「ううん。いい感じに焦ってる。でも、」
笑った自分の口元がかすかにわなないたのを、アカリは感じていた。焦りどころか、不安さえないと言えば嘘になる。曲がりなりにも、相手は悪名で通っている稲妻のヤミカラスだ。そいつがどれほど強いのか、はたまた自分たちで立ち向かえるのか。立ち向かう敵のことは何ひとつとして分からない。
「不安だよ? 私にもちゃんとできるのかな、って」
アカリが、おぼろ月のような笑顔を浮かべていた。苦笑いにも似たそれは、どこか苦しそうで、不安そうで。きらきら笑ういつもの彼女とは違うのを、コウスケはもう気付いていた。胸を張ってみせたって、どこかで不安なのはお互いさまだった。
それが分かるから、コウスケは座る彼女に黙って寄り添った。そして何度か、ぽんぽんと軽く頭を叩く。くしゃくしゃと髪を撫でてくれる手のひらはあたたかかった。互いにからかいあうような仲のふたり。その彼が、張りつめた夜の中でときおり見せる屈託のない笑顔が、いつも少女の心を奥の方からじんじんと揺るがした。
「大丈夫だよ。俺、今夜はうまくいきそうな気がするんだ」
夜が昼になって、太陽が昇ったみたいに笑う彼。そうして別れたのは、もう三十分も前のことだった。
◇
距離は離されもしなかったが縮めることもできなかった。ヤミカラスは空を逃げ、アブソルは大地を追う。空を羽ばたくのは敵の本分。そしてアブソルのリコにとっては大地を駆けることが本分だった。だがアカリはそうではない。人間の体はポケモンには遠く及ばないのだ。ましてやそれが、わずか十歳ばかりの少女の体とあればなおのこと。このまま消耗戦を繰り広げれば、先に音を上げるのはアカリだということは分かりきっていた。
コウスケはまだか。繰り返す呼吸のたびに脳裏をかすめてゆく。探偵作戦のたびに、いつも彼が恋しくなる。「夫婦漫才」とからかわれるくらい仲よくふざけあっている彼が、少し離れているだけで心細い。反対に、彼がいればどんなときだって心強かった。けれど今は、からからになった喉で名前を紡いでも、きっと彼には届かない。頼れる彼は、今はどこかでヤミカラスを必死に探している。今この状況を好転させられるのは自分しかいないと、少女は気付いていた。
仕掛けるしかない。アカリは黒鳥の後ろ姿を睨みつけた。罠にはめられでもしない限り、有利なのは追う方だ。少女は白獅子に目配せをする。アブソルの身体能力なら十分射程圏内だ。獅子が大きくうなずいて、空に揺れるは鎌の角。風にでも変化したのではないかと思うほどの速度で突如駆け出すリコの背中に、少女は叫んだ。
「リコ、“かまいたち”!」
白い毛並みが月光の空へと跳躍した。一秒、前足が空を目指す。次の一秒、濃紺の角が振りあげられる。その角が陽光のようなまばゆい光を帯びた瞬間、無数の三日月状の刃が放たれた。無言の咆哮にヤミカラスが振り向く。背中越しの攻撃は完全なる不意打ち。突然詰められた距離に不覚を取られた黒鳥は、体を傾け飛翔方向を変えようと試みる。間に合わずして、体にぶちあたって砕けていく衝撃波がひとつ、ふたつ。喉の奥から絞り出したような嗄れた声が夜をつんざくと、はらりと散った黒羽が月明かりを浴びて夜空を彩った。
「リコ、終わってないわ! 油断しないで!」
リコがアカリの指示を聞き終えるころには、ヤミカラスはもう反撃姿勢に移っていた。黄色の瞳に宿した怒りの色。それはめらりと翼を燃え上がらせる力になって、リコに突っ込んでくる。翼が体を打つ前に、ひらりとかわした白き獅子。バックステップを一歩、二歩。足の動きは軽やかに。ふふん、アカリが疲れも忘れて鼻で笑ってみせた。
攻撃が失敗したと見るや否や、翼を翻して再び逃げ出すヤミカラス。その体がよろりとふらついているのを、少女は見逃していなかった。不意打ちが翼に効いているのだ。一瞬喉の渇きを忘れるほどの手ごたえがあった。距離を引き離され、追撃が再び始まる。手負いの相手に追い打ちをかけない理由がない。「叩きのめす」、両指で数えきれる程度の歳の少女は、その幼さには似合わない意志を心に秘めていた。
靴の音、乱れた呼吸の音が路地に跳ねかえる。それは少女の足取りをよりいっそう加速させた。一度は攻撃を叩き込んだとはいえ、再び距離をおかれると途端に戦線は膠着する。焦ってはいけない、言い聞かせるほど鼓動が高鳴る。夜空の月が幾重にもぶれて見えた。
コウスケはまだか。同じ言葉がもう一度蘇る。あの誇らしげな声は、頼れる背中はどこだ。体の中で生まれた熱に頭が浮かされる。堂々巡りを繰り返していてはらちが明かない。先に果てるのは間違いなく自分だとアカリは気付いていた。リコがしきりに主人の方を振り返るが、アカリにはそれに応える余裕はなくなりつつあった。にかっと笑ってみせることしかできない。
走りつづける人間は、ある一線を越えたときに突然苦しさから解放されるという。けれど私はいつその苦しさから解放されるんだろう。いつ終わりが来るか分からない戦いは、闇夜の迷路に閉じこめられて、光もないまま出口を探すのと同じだった。ひゅう、と息を吐き出した喉が悲鳴を立てる。ふくらはぎの筋肉がぴきんと張りつめて思うように動かない。ああ、もう追いつけないかもしれない――一線を越えられないまま手放してしまいそうな意識を、
「見つけたぞ! 絶対お前を逃がさない!!」
幼いけれども雄々しい声が、つなぎ止めた。