プロローグ
見つめる腕時計の針が文字盤の真上で重なりあったとき、少女は心の中に十二の鐘の音を聞いた。それは真夜中のはじまりを告げる鐘の音。ベッドの上に横たわっていた少女の体が、たった今ぜんまいを巻かれたばかりの人形のようにふっと動き出した。
月明かりは部屋の中まで差し込んでいる。それはまだ十歳でしかない少女の横顔にくっきりとした陰影を作りながら、あたかも大人のそれのように艶やかに照らし出した。少女は純白のレースカーテンを手で払いのけながら、窓越しに夜空を見つめる。きらめく星々、そしてうさぎが餅つくまんまるな月。冴えた目に映ったのは雲のない濃紺の空だった。落ち着けるべき心が思わず高鳴るのが感じられる。こんなに明るい月下では、妖魔も姿を隠せない。――言うなれば、この上ない「探偵日和」だった。
(日付をこえた零時半、いつものポプラの木の下で)
いいな、アカリ。念押しする少年の声につづいて約束の言葉がよみがえる。「わかってるよ」、あのときと同じ言葉をアカリは静かに吐き出した。
腕の中に抱きしめたままの抱き枕をほどいて、それを自分が眠っていた場所へと押し込んだ。もこもことふくらんだ布団は、まるで自分が眠っているように見える。真夜中に家を抜け出すための身代わりには十分な見た目だ。辺りにはお気に入りのシャンプーの香りがふんわり広がっていた。
少年の言葉に急かされるようにして、慌てながら、けれど慎重にベッドのはしごを下りる。約束の時間は近い。金のドアノブを下に倒しながら扉を押し開けると、蝶つがいは今宵も眠ったふりをして味方になってくれた。冷たい廊下を忍び足で歩くのももうなれたもの。あまりの上出来ぶりに思わずその表情さえほころんだ。
玄関へと向かう階段の前で、アカリはひとつ深呼吸をする。真夜中の隠密作戦で最も失策を犯しがちな地点。一段踏み外して盛大に音響を立てながら尻もちをついたのは先月のことだったか。気持ちを静めると同時に、彼女は瞼を閉じて思いをめぐらせた。
ラピスラズリ計画=\―奪われたラピスラズリの指輪を奪還するための、彼との約束。決行は今夜零時半、相棒は今夜も、計画の名付け親にしてクラスメイト、そして約束の相手、コウスケだ。
はじまりはおとといの夕方、近所のおばちゃんが指輪をヤミカラスに奪われたことだった。庭いじりのために指輪を外し、パラソルの下の白いテーブルに置いた瞬間、見計らったように襲来したヤミカラスに一瞬で奪われたのだという。推察するに、犯人はこの辺りでも物盗りで悪名高いヤミカラスで確定的だ。右の翼に残る稲妻のような古傷は、そいつを特徴づける決定的な証拠。おばちゃんがその傷を見たというのだから間違いない。通学路で会うたびに笑顔で声をかけてくれるおばちゃんが、そのとき見せた沈んだ表情が焼きついて離れなくて。「取り返そう」――アカリとコウスケ、どちらからともなく口にしたその言葉が、すべてのはじまりだった。
警察はちょっとしたできごとでは簡単には動いてくれない。それが今回のような物盗りであっても、相手が野生ともなれば対応が難しいのが現状だ。少年少女は幼いながらにそのことに気付いていた。
夜行性のそいつを一介の子どもが懲らしめるには人目につかない夜しかない、コウスケはそう言った。その人目につかない夜が、まさに今。アカリは今宵起こすはずのアクションをもう一度頭の中に描き出す。悪い予感はしなかった。
階段は思春期の少女に対してぎしぎしと無遠慮な音を立てた。「ばか! そんなに重たくない!」と叫びたくなるのを必死にかみ殺して、アカリは階段を下りてゆく。ベッドの上に横たえっぱなしだった体も思った以上に動きがいい。初夏の夜、あたたかな夜であったことも幸いした。
「夜は早く寝なくちゃいけません」、そんな言葉が去来する。お父さんお母さんだけでなく、大人は口をそろえてみんな言う。相手がたかだか十歳の女の子ともなれば当たり前だった。ましてやひとり夜道を出歩くなんてとんでもない。けれどもコウスケとの約束は真夜中でなければ果たせない。だからこれは、お父さんにもお母さんにもヒミツの物語。両親の言いつけを破って家を飛び出す夜には、いつだって魔女や怪盗にでもなった気持ちがした。
階段を下りきって玄関にたどりつくなり、ランドセルの横にあるウエストポーチを引っつかみ、ファスナーを開けて中をまさぐる。まっさきに指に触れたのはお目当てのモンスターボール。唯一のパートナーが休んでいるボールだ。指先でその形を確かめながら取り出すと、アカリはかちりとボタンを押した。
「リコ、出ておいで」
目をつむった少女の周囲にぱあっと光がほとばしった。その奔流の中から鎌のような形の角をたずさえた獣が姿を現す。名をリコというそのアブソルこそ、アカリの最愛のパートナーだった。手入れの行き届いた毛並みの気品の高さは、明かりを殺した空間でははっきりとは瞳に映らない。質感の感じられる闇の部分をなぞって形作りながら、アカリはたもとにいるアブソルのリコを視認した。くるるると鳴らした喉は昂ぶりのしるし。落ち着けないのは私だけじゃないのね、アカリはくすっと笑った。
目が暗闇になれるのを待つ間、アカリは次々に準備に取り掛かる。まずはパジャマを脱ぎ散らかし、適当に空の手提げかばんに突っ込んでおく。すぐにランドセルの上の洋服一式を取り上げ、握り、ぱっと開いた。あたかも学校に行くための洋服に見せかけた準備はすべてこの瞬間のためのもの。宿題が終わっていないのに寝坊した朝のように、約束の夜はいつでも一瞬たりとも無駄にはできない。初夏とはいえ夜風には少し肌寒そうな薄手のシャツ、走り回っても中が見えないキュロットスカート。それらすべてを着替え終え、先ほどまでボールが入っていたウエストポーチを腰に巻き、ベルトを留める。最後にスニーカーの紐を結んだときにはもう、瞳はさっきよりずっと暗闇を認識できるようになっていた。
「おまたせ。リコ、準備はできた」
たもとに控えるリコにささやくように問う。頭の角で空を切りながらリコはうなずいてみせた。そのしなやかな両足にはすでに力が篭もり、まっしろな体は気迫に満ちあふれている。体を撫でてやるとさらさらとした体毛が指の間を通り抜けていった。
彼女がコウスケといっしょに「探偵ごっこ」をしてきた数は、もうじき両手では数えられなくなるだろう。オトナに解けない謎を解く=Aそんな謳い文句もすっかり肌になじんできた。探偵と言いつつ事件ばかりではないのももはやご愛嬌。活動の何度かは夕方や夜のこともあったが、半数以上が真夜中のできごと。どちらからともなく「丑三つ探偵団」と呼びはじめたふたりだけのヒミツの行動は、ふたりに見知らぬ世界を見せてくれた。
それはたとえばポケモンの生態。夜ともなれば小学校からの帰り道で見るのとはずいぶん違ったポケモンたちが顔を出す。むしタイプ、あくタイプ、そしてゴーストタイプ。暗がりを好むポケモンたちも大勢いることを、ふたりは身をもって知ったのだった。
ケガをした子どものイルミーゼを森に送り届けたら、お礼にバルビートとイルミーゼが見せる光のおまつりに招かれたことがあった。街はずれの廃屋では人を驚かすのがだいすきなムウマと友だちになったこともある。くまのぬいぐるみを大事そうに抱きかかえたジュペッタに出会ったときは、しろつめくさの花かんむりを作ってあげたことだってあった。それはみんなみんな、学校にいる間やお日さまの出ている間には出会えないできごと。だから子どもが夜に出歩くのは悪いことだと知りながら、探偵をやめる気にはならなかった。
なにより、アカリはコウスケが夜に見せる顔がだいすきだった。普段はへらへらとおちゃらけている彼が、真夜中になると顔を変える。ブラッキーのルナとともに精悍な顔つきで疾駆するさまは、まるで夜が人を変えてしまったかのようだった。いつかの探偵ごっこの途中、アカリがマニューラの不意打ちを受けそうになったときは、動じる様子さえ見せずに返り討ちにした。彼が強いのはそのときから知っている。だから探偵ごっこの夜には、アカリが不安を覚えたことは一度もなかった。
探偵ごっこのない真夜中はよく夢を見る。夢の世界なら空を飛んだり魔法を使えたりすることもあった。けれどアカリには夢の時間よりも、探偵ごっこをしている現実の瞬間の方がずっと楽しかった。自分の頭で考え自分の足で走り、コウスケにリコにルナ、仲間たちといっしょに幻ではない物語を紡ぐことができるから。その時間は夢のように過ぎるけれど、夢のように覚めることはない。いま目の前にしている玄関の扉を開くのは、未知の世界に自分の手でねがいごとを叶えに出かけるのと何も変わらなかった。
外界への扉を開け放つと、窓辺から見えたのと同じ満月の光がふたりの体を射抜いた。リコの純白の毛並み、ルビーのように滾った赤い瞳は、月下の今ならよく見える。リコは結ったばかりのアカリのツインテールが夜風にゆらめくのをじっと見上げていた。ふたり目が合って、アカリはにこりと笑う。
深呼吸をすると木々の香りをまとった冷たい夜の空気が体の内側を満たしていった。やはり悪い予感は微塵もしない。これから起こるであろうことの顛末を瞼の裏に映写してみても、不思議なまでにうまくいくビジョンしか映らない。アカリはもう一度リコと視線を絡めると、彼女のもとに片膝をついて、そっと言葉を紡いだ。
「さあ、はじめましょ。今夜の『丑三つ探偵』を」
月明かりの下にささやいた声は、ふたりの間にさらさら流れていった。
時計の針はまだ十分、向かうはいつものポプラの木。待ち合わせの場所、せっかちな彼はもうあの木の下で口笛を吹いているころだろうか。そんな思いをめぐらせながら、アカリは閉じかけた扉の向こうを振り返った。月明かりの糸が垂れた廊下には、糸を飲み込むほど洞々とした闇が広がっていた。