3 マテンロウ・チェイサー
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三人はそれぞれ菓子パンを頬張りながら、シキの手元のタウンマップを覗き込む。タウンマップでは、コトブキシティとマサゴタウンの丁度中間辺りで、光がゆっくりと点滅していた。
「まずはこれからの予定な。……今オレ達はコトブキシティに向かっている。で、バスを降りたら、まずポケモンセンターに行くぞ。そこでお前らがくつろいでる間に、オレはポケモンジム挑戦の申請を出してくる」
「え、ジムの挑戦って申請がいるの?」
「ああ。じゃないとリーグのシード権が取れないんだよな。まあこれが結構面倒な手続きで……いやまあそれはともかく。で、それからその日はコトブキで準備して、次の日はそれぞれの目的地に向けて出発!」
ミツキの指が、コトブキシティの東にある道路を辿る。「オレはクロガネゲートを通ってクロガネシティに行く予定。まずは此処のジムで腕試ししようと思ってる。んで、お前らは?」
「ん……オレはヨスガシティかな。テンガン山の山道経由で、途中で色々寄るかもしれないけど」
「私はソノオタウンに」
「え、ソノオって花畑の? 流石にシーズン早すぎじゃない?」
「うん。本当は花畑が見たかったんだけど。……今の時期なら、多分別のものが見れるかなあ、と」
「別のもの?」
「えへへ。見れたら写真撮って送るね」
二人の声を聞き流しつつ、ミツキは座席から身を乗り出して、地図上のヨスガシティとソノオタウン、クロガネシティの上に指を滑らせた。すると、それぞれ色の違うマーカーが街の上で明滅する。シキが目を丸くしていると、ミツキが怪訝そうな顔で、これはタウンマップのマーキング機能だと教えてくれた。
「これでよし、と。……旅が始まってからだと、多分こうやって三人揃って話せる機会もないし、大まかな目的地が決まったら随時ポケギアで報告ってことで良いよな? それから、旅に当たってのルールも確認しとく。ユウリ、旅のゴール地点は?」
「キッサキシティ」
「そう。タイムリミットは、キッサキで二ヶ月とちょっと先に開催される、開港祭まで。移動方法は特に決めてねえけど、まあ基本は徒歩だよなやっぱ。旅の基本は自らの足で歩くことだもんな。それからお金とかはちゃんと自分で管理していくこと!」
「……不安だなあ。ミツキとかすぐにお金使っちゃいそう」
「オレは寧ろシキのが心配だぜ。うっかり財布落とすんじゃねーぞ」
「お、落とさないよ! 多分!」
「オレとしてはどっちも心配で堪らないんだけど……。ところでシキ、パンまだある」
「え、あるけど。まだ食べるのユウリ?」
「男子中学生の胃袋を舐めないでよ」
「あ、じゃあオレも貰う」
ユウリとミツキは、シキから手渡されたメロンパンの袋を破り、豪快にかぶりつく。見ている方が清々しくなるくらいの食べっぷりだ。こういうところで、少しだけ男の子が羨ましくなってくる。三分の一ほどを一気に平らげたミツキが、また座席に乗り出した。そろそろ周りの乗客の視線が痛い。
「……んん。えーっと、それから、いくつかチェックポイントを設定する。……これは旅の進度に合わせて、話し合いながら決めていく。出来る限り三人揃ってそこに着くのが一番望ましいけど。……最初のチェックポイントはヨスガシティの記念ホールってことでいいよな?」
その問いかけに二人が頷く。……そうして暫く三人で旅の大まかなスケジュールを照らし合わせている間に、バスはどうやらコトブキ手前の町に入ったようだった。
バスが止まる。新たに二、三人が白い息を吐きながら乗り込んできた。いつの間にか、日が昇っている。窓に張り付いた氷が朝日を透かせて、透明色に煌めいていた。やけに大人しいと様子を窺えば、ユウリは既に、うつらうつらと微睡んでいた。
○
「……おい。おーい、シキってば。起きろー」
――はっ、と顔を上げる。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
「あ、……い、今何処?」慌てて口元を拭う。……大丈夫、多分よだれは出てない。
「もうそろそろコトブキのバスターミナル前。降りる準備しとけよ。……おいユウリ、お前も起きろっ」
「痛ったッ」
吊り革にぶら下がりながら器用に舟をこいでいたユウリの足を、ミツキが蹴り上げる。
「もう、何すんのさ……、ああ、コトブキ着いたの?」
「もうすぐ。ユウリも準備しろよ」
「ん……あ痛たた、ちょっとは手加減しろよな、ったく」
三人は、他の何人かの乗客と共に下車した。どこか余所余所しいビル風が、びゅうびゅうとシキ達に襲いかかる。シンオウの中心都市と呼ばれるだけはあり、車通りもフタバやマサゴとは比べ物にならない。「この排気ガスの匂い嗅ぐと、ああ、コトブキに来たって思うよね」「お前やめろよ、田舎者っぽいぞ」「田舎者だもの、仕方ないでしょ」ミツキとユウリがそんな会話を交わすのを尻目に、シキはぐるりと辺りを見回してみせる。どこを向いても、飛び込んでくるのは、空を侵食せんばかりに伸び上がる摩天楼。
そういえば最後にコトブキシティに来たのは何時だろう。買い物や何やらは大体母任せだったし、友達と一緒に遊びにいくのもせいぜいマサゴ辺りまでだった。(本当に来ちゃったんだなあ……)そっと息を吸い込む。バスの暖房ですっかり火照った身体に、しんと染み込む朝の空気。
少しだけ、その感覚に浸ってから、数歩先に歩いていってしまった友人達を追いかけようとしたシキは、道路を隔てた向こうの道に気になるものを見つけて足を止めた。
「……それで、手続きするポケモンセンターは何処?」
「タウンマップによると、ここから一番近いセンターは、歩けば十分もかからねえみたいだ」
「ふうん。それじゃあちゃちゃーっと行って、ちゃちゃーっと済ませちゃおう。……ん、シキ?」
「……、あれ……」
「あれ?」
シキが指差した方を見る二人。そこには小さな人だかりが生まれていた。
「何だ、ありゃ」ミツキは爪先立ちになって、その人垣の先を見通そうと目を細める。「喧嘩、か? 何か言い争ってるみたいだぜ」
「余り関わり合いにならない方がいいって。早く行こうよ」
「あ、ちょ、ちょっと待って! ……あの人!」面倒事は御免だとばかり、さっさと立ち去ろうとするユウリを、シキが慌てて制止する。
人々の間を縫って、何者か――体格的に男だと推測できる――がこちら側にまろびでた。彼は数歩程たたらを踏んだ後、悲鳴や怒号の声を振り切るように、凄い勢いでこちらに向かってきたのだ。道行く人が慌てて、彼の為に道を空ける。道路に飛び出した男の手前で、間一髪、甲高いブレーキ音を立てながらトラックが止った。非難めいたクラクションが鳴り響くが、それでも彼は足を止めず、必死の形相でシキ達のいる方向に走ってきた。
「お、おいおいおい、こっちに来たぞ! どうするんだよ!」
「知らないよ! っていうかオレに聞かないでよ!」
ようやくその顔がはっきり視認できる距離に近づいて、……シキはその男の装いの、余りの奇抜さに、しばし呆気に取られてしまった。
水色のヘルメットヘアーに刈られた髪。特撮番組の撮影現場から飛び出してきたかのような、銀色と黒色の、やたらにぴちぴちツルツルとした衣装。そして胸の辺りには、キラキラ光る奇妙な金文字のロゴマーク。あまりに非現実的なそのいでたちに、
(……宇宙人?)とっさにそんな言葉が頭に浮かぶ。そしてそれ以上の思考を巡らすより先に、
「おい、シキ! 危ないッ」
「え、……あ」
いつの間にか、その宇宙人男は眼前まで迫ってきていた。駆け寄ってきたミツキがシキの腕を引く。シキはそのままミツキの方に倒れこんだ。すぐにそこを、男が猛然と走り去って行った。道路に倒れこんだ二人には見向きもしない。
「あ、危な……! おい、テメー! 待ちやがれ!」
「ちょっ、二人とも大丈夫!?」ユウリも慌ててミツキ達のもとに駆け寄る。
「な……なんか凄く焦ってたねあの人、一体何があったの?」
「……何があったとしてもオレ達には関係ないよ。何か、凄い厄介事の予感がする。これ以上面倒沙汰になる前に早く……」
「そこの奴、待て、待たんか!」
ユウリの言葉を遮るようにして、男が走ってきた方向から、今度はコートの男が走ってきた。先程の男に負けず劣らず物凄い形相だ。
「……え?」
だがこちらの顔には見覚えがある。確か数週間前も、何かのニュースで顔を見たのをシキは思い出す。
「なあ、あれって」ミツキがにわかに興奮した声音で「いつもテレビで出てる、ナナカマド博士じゃねぇ!?」
ぜいぜいと白い息を吐きながら、彼は此方にやって来る。ここまで距離が近づけば、最早見間違いようもない。あの、ナナカマド博士である。
……ポケモン学の研究者が一人、ナナカマド博士の名は、その実績、そしてその強烈な個性共に、シンオウ地方を中心に非常に親しまれており、地元メディアでは引っ張りだこの人物だった。
いつだったか、学校の理科の授業で、授業時間を少しでも減らそうと目論んだ男子生徒が、たまたま見たテレビ番組に出演していた博士の話題を先生に振ったが為に、授業時間全てを潰しての熱演が広げられたことがある。その理科の先生は、どうやらナナカマド博士に特別な思い入れがあったようで、ナナカマド博士の最近発表した学説に始まり、博士が今まで学会で発表してきた論文の数々、果ては博士の子供時代の武勇伝まで、身振り手振りを交えて熱く語ってくれた。(ちなみにその後シキ達は、たまたま授業を覗きに来ていた担任によって、理科の先生共々みっちり絞られてしまった)
かくあるシキも、シンオウ地方を代表する人物と言われれば、彼の名を上げるほどだ。特に、ある記者会見で博士が、複数の新聞記者を相手取っての乱闘を繰り広げた事件は、当時のシキに大きな衝撃を与えたものだ。どうやらある個人への中傷を仄めかした新聞記者の言葉が、博士の逆鱗に触れたらしいと、後日テレビ局が報じていた。
そのナナカマド博士であるが、此方に向かって全力で走ってくるその表情は、いつもの仏頂面が更に険しさを増して、さながら鬼の形相である。思わずシキ達も、男の後を追って逃げ出したい衝動に駆られたが、それに待ったを掛けるように、博士はゼイゼイと声を張り上げた。
「おいそこの……お前たち! お前たちも、追いかけろ! あのポケモン泥棒……ひっとらえろ!」
「……はい?」
「聞こえているだろう、お前たち三人のことだ! 早く追わんか!」
思わず辺りを見渡した三人だったが、彼が言う『お前たち』が自分たち以外の何者でもないということに気がつき、顔を見合わせた。どうしようか、と視線を交わすが、そんな三人を急き立てるようにナナカマドは叫ぶ。
「今なら……今ならまだそう遠くには……ッ、か、鞄に大事なポケモンが……ぐっ、早く、行かんかッ!」
「……い、いこうぜ!」
真っ先に走り出したのはミツキだった。博士の怒号に背を押される形で、その後をシキ、ユウリと追う。
「……ちょっとッ、おい、ミツキてめえー! どういうつもりなのさ!」
「まーごちゃごちゃ言うなよユウリ、これも人助け、人助けだってばよ! 困ってる人が目の前にいるなら、進んで助けましょうって学校で習っただろ!」そして一瞬だけ振り返って、にかりと白い歯を見せる。「ってか何だか面白そうなことになってきたから突っ込めるだけ首突っ込みたい!」
「お前、それ、後半が本音じゃねえかー!」
「だって本物のナナカマド博士だぜー! しかも『ポケモン泥棒』って……、もう大事件の匂いしかしねーだろ!」
「野次馬根性隠そうともしないねミツキ……まあ、博士もあの歳で運動はきつそうだったし……、それで、さっきの男の人は!」
「あそこの交差点を右に曲がってった! 多分大通りから地下鉄に行くつもりだろ!」
「……っく、それにしても、全く、テレビで見た通りのとんでもないお転婆爺ちゃんだねっ! 普通通りすがりにあんな無茶なこと言うかよ……っ」
尚も荒い息と一緒に不平を溢すユウリを尻目に、まだ人通りも疎らな通りを走る。時折すれ違う人々は皆、物問いたげな視線をシキ達へと送る。こんな朝っぱらから何をそんなに慌ただしくしているのだ、と。
「……あ、居たよッ、あの人だよね!」
およそ百メートル程先か、都会の街並みから明らかに浮き上がった、奇天烈な服の男が居る。見間違いようも無い、先程の男だ。先程は気がつかなかったが、手に旅行バッグを提げている。恐らくあのバッグの中に、盗まれたポケモンが入っているのだと思われた。
「よーし、いけっ元陸上部!」
「任せろー!」
軽やかにアスファルトを蹴り上げたミツキの背が、あっと言う間に小さくなっていく。見ているこちらが気持ち良いほどの走りっぷりだった。
「おー、流石元エース、惚れ惚れするフォームだ」
「私たちも行こう!」
「ま、待ってシキちょっと、速すぎ……」
シキ達がミツキに追いつくより前に、ポケモン泥棒は追って来るミツキに気が付いたようだ。しまった、という表情をありありと浮かべているのが此処からでも分かる。逃げられないと悟ったのだろうか、人気の無い路地の手前で足を止めた。そして腰からモンスターボールを二つ取り出し、ミツキの方に投げる。宙で割れたボールから赤い閃光が放たれ、その光はやがてポケモンの姿を形どって、ミツキの前に立ちふさがった。男が出したのはゴルバットとスコルピだ。こうなりゃ実力行使だ、ということだろう。
それを見たミツキもまた、腰のホルダーからボールを取り、宙へと放る。破裂音と共に、彼の相棒であるユキワラシが現れた。
「……っ、二対一では流石のミツキも少し分が悪いかな」
「ううん、四対一……!」
泥棒男の後ろからもう一人、恐らく男の仲間であろう女性が現れた。こちらは男に輪をかけて前衛的すぎる装いをしている。時代を先取りどころか、遥か遠くへ置き去りにでもしてきたような。燃え上がるような赤毛をツンと、とさかの様に尖らせ、ツルツルとした白と銀の服を着ている。丸く広がったスカートから伸びる、ほっそりとした黒タイツの足。そして何よりも、不自然なほどに赤い目が、不気味だった。
男に向かって幾らか叱咤の声を飛ばした後、彼女もまた、ドーミラーとニャルマーを放つ。敵意で爛々と輝く瞳が、ミツキを見据えた。
シキとユウリは顔を見合わせて、それぞれバッグからモンスターボールを取り出した。ミツキの隣に並び、ボールを放る。シキのボールからはグレックルのグンマが、ユウリのボールからはロゼリアが飛び出した。
「遅いぞお前らーっ! もうあとほんっの少し遅かったらオレが全部倒してたところだぜ」
「っく、ごほっ、げほっ……ぜえ」
「……おい運動音痴、辛いなら下がっててもいいぞ」
「うるさい猛進馬鹿、こちとら100メートル以上の距離を全力疾走するのは体育祭以来半年ぶりなんだ……しかも今日だけで二回目。一回目はバスね」
「あまり誇れないぜそれ」
漫才のようなやりとりをする二人をよそに、シキはそっとポケモン泥棒達の顔色を伺う。……説得は通じる相手だろうか。すでにお互いポケモンを出してしまっているが、戦わずに済むのならそれが一番望ましいだろう。
「……あの、そこの人。お願いです、ポケモンを博士に返してくれませんか! そのポケモンはナナカマド博士の大切なポケモンなんです!」
女が腕を振り上げると、ニャルマーのしなやかな身体が跳躍し、グンマへ『みだれひっかき』を放つ。その鋭い爪をもろに受けてよろめくグンマは、しかし追撃の二撃、三撃めをすんでのところでかわした。
「この状況でなお、平和的交渉に持ち込もうとする冷静さ、或いは度胸は、褒めてあげてもいいかなあ」
だけどね、とルージュの艶めく唇をにいっと吊り上げて笑う女。そのいで立ちの奇抜さも伴って、異様な迫力がある。「お譲ちゃん。アタシ達もこれがお仕事なのよね。遊びじゃないの。……お仕事の邪魔されちゃうと、お姉さんも怒っちゃうよ?」
「お仕事って、人のポケモンを盗むのが仕事なのかよ! 『人のポケモンとったらどろぼう』って学校で習っただろうが!」
にこにこと、口だけで笑う女。「ねえ、ねえ、金髪クン。アナシ達何も、人に危害を加えようとしているわけじゃないわ。ただ今よりステキな世界を作るためにすこーし、力をお借りしてるだけなの。……なのに、ねえ、全く理解してくれないの、皆。アタシ達のこと、盗人だの悪人だのって決め付けてさあ。アタシ達のやってることは、きっと皆の為になると思うのに」
女は艶々のブーツで、ざくざくと雪塊を踏みつける。
「シンオウ地方でとーっても有名なナナカマド博士が、研究しているポケモン達。きっと一際ステキな力を持っているに違いないわ。……その力を、老い先短いご老体にもち腐れさすのは、あんまりにも勿体無いでしょう?」
もう一度、今度はワコへ『みだれひっかき』。それらを全てかわしきったワコが、お返しだとばかりに『こごえるかぜ』を吹きかける。冷気に怯んだ僅かな隙を突くように、ミツキが『ずつき』を指示したが、此方は見切られてしまった。
「あららら? ……もしかして、オコサマの割には、結構強いかもしれないのねぇ、貴方たち」
わざとらしく驚いてみせる女は、まだまだ表情に余裕を残している。
シキはふと、女の立ち振る舞いが何処と無く、彼女の手持ちのニャルマーに似ているなと思った。ペットは飼い主に似ると良く聞くが、あの澄ました様な気配が、どうにもそっくりだ。……こんな時に一体何を考えているんだろうと、シキは思わず自分自身に呆れてしまう。
……ともかく、この短い応酬で、彼らに人のポケモンを奪うことに対して、良心の呵責を全く感じない人物であるということは知れた。ならば最早、戦う他に術はないのだろう。
「けっ、話し合いは無駄みたいだぜ、シキ。……さあ、足引っ張るんじゃねーぞ、二人とも!」
「気合入ってるねえ、ミツキ」
ユウリの茶々入れに、口の端を吊り上げて返したミツキは、ユキワラシに指示を飛ばす。
「そら、先手必勝だ! ワコ、『こおりのつぶて』!」
ミツキのユキワラシ……ワコが纏っていた冷気が、急激に凝縮され、氷の弾丸となって相手のゴルバットに襲い掛かる。相手に回避させる間さえ与えない、鋭い先制の一撃。移動の要である翼を射抜かれ、ぐらり体制を崩したゴルバットへ、
「あ、打って、グンマ!」
シキの指示と殆ど同時に飛び出したグンマが、頬へ拳の一撃をめり込ませた。更に振り向き際、背後から『アイアンテール』を仕掛けようとしていたニャルマーに牽制の蹴りを喰らわせる。横に吹っ飛んだゴルバットとニャルマーが、路上の街灯とゴミカゴにぶつかって、それぞれ、ごおんと派手な音をあげた。
ひゅう、とユウリの唇から掠れた口笛。
「今日も相変わらずイカしてるねぇ、シキのグレックル」
「あ、あはは」ゴミカゴの中身が路上にぶちまけられるのを見て、一瞬、ジュンサーさんに見つかったら大変だな、とシキは思ったが、すぐにその思考をかき消す。すぐさま体勢を立て直したニャルマーへワコ、続けてグンマが追撃を狙い飛び出す。
「あはっ、調子に乗らないでよ! ドーミラー、『さいみんじゅつ』!」
女の後ろに漂っていたドーミラーが、そこに割って入った。金色の瞳が不規則に瞬いたかと思うと、その視線の先にいたグンマ、続いてワコが膝をつく。
「そこから『ねんりき』で締め上げなさい!」
「スコルピは『どくばり』!」
眠りに落ち、完全に無防備な状態の二匹に、無慈悲な攻撃が加えられる。不可視の力を加えられたグンマの身体が雪溜りへ投げ出され、スコルピの尾から連射された十数の針がワコへ降り注いだ。だが、それだけの攻撃を受けて尚も起き上がらないグンマへ、ニャルマーの『みだれひっかき』がトドメとばかりに襲い掛かった。
「チカ、『なやみのたね』」
チカ、とユウリに呼ばれたロゼリアが、グンマを身を挺して庇う。そしてドーミラーとスコルピの攻撃を、片腕の薔薇から出す花びらで牽制しながら、もう片方の薔薇で小さな種を三つ打ち上げた。放物線を描いたそれがワコとグンマ、そしてチカの額でぽふっと弾ける。
途端、眠っていた二匹はびくりと飛び起きた。寸前に迫っていた『みだれひっかき』を、グンマが間一髪かわす。
「いよっし、助かったぜユウリ!」
「分かったから早くトドメさす!」
おう、と腕を振り上げたミツキだったが、彼がワコに指示を飛ばすよりも先に、その横を駆け抜けたグンマの『かわらわり』が、ドーミラーの青銅のボディを地面に叩き落した。そこから流れるようなステップでニャルマーとの間合いを詰め、抉るような『どくづき』を脇腹に決める。
「おおー、お見事グンマ」
「わっ、待ってグンマ、私まだ指示してないのに」
「……、ワコっ、『ずつき』だ『ずつき』っ!」
仲間達をいとも容易く沈められ思わずたじろいだスコルピへ、渾身の頭突きがぶち当たる。ぎいっと呻き声と共にスコルピが地に伏せば、ポケモン泥棒達にはいよいよ打つ手が無くなった。
「チカっ」
ユウリが呼びかけると、チカが薔薇からまた種を射ちだす。種は宙で弾けるやいなや、細く頑丈そうな蔦を伸ばし、身体に食い込まない程度の強さで、器用に泥棒達をふん縛る。これは『やどりぎのタネ』と呼ばれる技だろうとシキは推測した。ひいっと悲鳴を上げる男の手から、ミツキが旅行バッグを引き剥がす。
「ちょっと、もう少しお手柔らかに扱って頂戴、坊やー」
「はいはい分かった分かった。……ミツキ、中身は」
「ん……と、ちょっと待て」
見た目の割にはずしりと重いバッグを地面に起き、ごそごそと中を探り始めるミツキ。「何か分からん資料とファイル、本とか……っていうか何だってんだこのお菓子の量……。まさかあの爺ちゃんコレ全部食べる気なのかよ」
「うーん、博士の食生活は大いに気になるところだけれど、ミツキ、盗まれたボールは」
「も、ちっと待ってくれ。多分……もう、ちょっと奥に」
「ちょっ……一々片付けながら出さなくてもさあ。ミツキって変なところで神経質だよね。いいよ、ほら俺も手伝う」
焦れたのか、ミツキを押しのけて鞄を漁るユウリ。路上には饅頭やら羊羹やらの箱(それにしても本当に博士は、これを全部食べる気なのだろうか)が散乱する。「あらあら、博士の荷物そんなに乱暴に散らかしちゃって。後で怒られちゃうわよ」此処まで追い詰められてもなお、女は余裕の笑みを消さない。にやにやとシキ達を見上げている。……こうして改めて見れば、女は中々の器量の持ち主であると知れた。こんな奇天烈な装いでなければ、少なくともシキが知る限りの女性の中では、頭一つ飛び出た容姿だ。なぜこんな綺麗な人がポケモン泥棒なんてやったのだろうと、シキは心中首をかしげる。
鞄の荷物は粗方出された。ユウリとミツキは底の方を掻き回していく。ボールはまだ出てこない。茨に縛られていた女が遂に堪え切れないといった様子で、最初はくつくつと、次第に引き攣るような笑いを上げ始めた。
「なにが、おかしいんですか」背筋がざわつくのを感じつつ、シキは恐る恐る問いかけた。
「ん、なにがって、そりゃあ、ねえ?」
女は唇を三日月のようにくっと吊り上げ、シキに向かって挑戦的に笑んでみせる。その笑みの真意をシキが測りかねていた時。
さっとミツキの目の前を一匹のポケモン……パチリスが走り抜けていった。
手に、三つのモンスターボールを抱えて。
「な」
「……あっ!」
「まあ、こうして捕まってしまったのは計画外だったけれども。でも、今回のところは、博士のポケモンさえ手に入れることが出来れば、アタシ達の仕事はとりあえず完了かしら」
シキは慌てて女を振り返る。ざっと考えを巡らす。
……どのタイミングでかは定かでないが、彼女は予めバックからボールだけを抜き取っていたのだろう。そして自らを囮として追手の注意を引き付けておき、戦闘のドタバタの最中、保険として放っておいたパチリスに、ボールを持たせ逃がしたのだ。
冷静に思考できたのはそこまでだった。
「くそっ!」
バッグを投げ出したミツキがパチリスを追う。だが、いくらミツキの脚をもってしても、その差は一向に縮まらない。パチリスが何本か向こうの路地にさっと入り込む。そちらの方角に抜ければ、町の中心街に出る。そろそろ人も増えてくる時間だ。最早追いつけまいと、その場にいる誰もが確信した。
ぱあん、と小気味の良い音と共に、路地からパチリスが弾き飛ばされるまでは。
「……え」
パチリスの手からボールが転がり落ちる。追いついたミツキがすぐさまそのボールを拾い集め、路地の向こうからやってくる人物を、呆然と見上げた。
現れたのは、一匹の……確か、チャーレムといった種族名のポケモンと、それを従えるトレーナーだった。
「あの博士が珍しく慌てふためいていたものだから、一体どうしたのかと思ったけど」
シキ達のいる場所からは、その顔は丁度逆光になってしまいハッキリとは分からないが、声は凛とした女性のものであった。そのトレーナーはミツキに手を貸し片手で引っ張り起こすと、チャーレムを連れ立って此方に歩み寄ってきた。
シキは赤毛の女の表情がぐっと歪められるのをみた。つい先程まであんなに余裕たっぷりだったのが、今では見る影もなく、その目に憎悪を燃え滾らせている。
「あはっ……あははは! まっさか、まーた貴方に会うなんてねぇ! 相っ変わらず、この世の悪は全て叩きのめすと言わんばかりの、小生意気な面!」女はここで一息おいて、ギッとトレーナーを睨みつける。「――二度とは拝みたくなかったのに」
「私も同感よ、マーズ。こんなところで感動の再会、なんて。……まだシンオウに居座って、こんなせこせことした悪事を働いているのね。団はもう解散したんでしょう? いつまでそのダッサイ団服着てんのかしら」
「あーら、この団服が如何に素晴らしいかが分からないなんて。まあ他の誰ならともかく、アナタに理解してもらう気なんてサラッサラないけど。あ、そうだわ、アナタと博士が帰ってきてるってことは、彼もこっちに戻ってきているのかしら?」
「ふん、その質問に答える必要はないね。マチェ、お願い。……ええと、そこの黒髪の子、『やどりぎのタネ』を解いてもらっていいかな」
「あ……うん、分かった」
蔓の拘束が解ける。泥棒達にチャーレムは静かに歩み寄ると、うなじの辺りに手刀を入れて意識を奪い、ひょいと肩に担ぎ上げた。拍子に赤毛の女の手からナイフが滑り落ちる。ユウリが眉を顰めながら、それを拾い上げた。
「これでとりあえず一件落着ね」チャーレム使いのトレーナーから、泥棒達に相対していた時の鋭い気迫のような物がふっと薄れた。チャーレムに労いの言葉をかけてから、大分砕けた様子でシキ達に話しかけてくる。「……ええと、三人とも、それからそこの金髪の男の子……、ボールのポケモン達は無事?」
「あ、はい! 私達は大丈夫です」
「ポケモン達もちょっと疲れてるみたいだけど、なんとか無事だぜ」
「良かった。……ウチの博士が随分振り回したみたいで、色々と迷惑かけちゃったね。ごめんなさい」
トレーナーは泥棒達の腰からモンスターボールを取り、路上に倒れ伏す泥棒達の手持ちポケモンらを中に収めていく。そして持っていた手提げバッグにボールと、ユウリから受け取ったナイフをハンカチに包んで仕舞い込んだ。それからユウリとミツキが散らかした博士の荷物を、きびきびと鞄に詰めていく。
「そんな。私達、結局殆ど何の役にも立てなくて。トレーナーさんが来てくれなかったらどうなっていたかと、今でもぞっとするくらいで」
「ええ、本当に危ないところだった。……チャーレムがね、諍いの物音を聞き取ったみたいで。急いで駆けつけてみたらこの有様。でも、あなた達が泥棒を足止めしていなかったら、こうはいかなかった。だから礼を言うわ。……本当にありがとう」
荷物を全て片付けたトレーナーは立ち上がり、三人に向かって、こちらが申し訳なるくらい深々と腰を折る。こうして近くで見れば見るほど、すらりと整った顔立ちの美人であることが分かった。涼しげな桜色の光を帯びた切れ長の目に、腰に届く程度の長さの艶々とした黒髪。なんだか雑誌の見開きにでも出ていそうな人だ、とシキは思った。
「……ところで、不躾なようだけど、あなたは何者? さっきから『ウチの博士』とか何とか、随分博士と親しい間柄なようだけど、博士とは一体どういった関係で……?」
「あっ、そうだね、私としたことが自己紹介を忘れてたわ。私はハルヨシ。隣町のマサゴタウンは分かるかな、……その町にある『マサゴタウン・ポケモン第一研究所』ってところで、ナナカマド博士の助手として働いているの。助手って言っても、あんまり大したものじゃなくて、なんていうのかな、どっちかって言うとお手伝いさん? みたいなお仕事なんだけどね。それから、この子はチャーレムのマチェ」
三人もそれぞれ簡単に自己紹介をした。ハルヨシはその一つ一つに丁寧に相槌を入れてくる。やっぱり助手というだけあって、キッチリとした印象を受ける人だ。
「うーんと、とにもかくにも、ひとまず博士のところに戻りましょうか。ポケモンセンターで待っててってさっき言っておいたから、多分そこに居ると思うの。そう、良かったらあなた達にも私と一緒に来て欲しいんだけど。この泥棒達を警察に突き出す時に、経緯を説明してもらいたいし、博士もあなた達にキチンとお礼したいだろうし。大丈夫かな?」
三人は素早く顔を見合わせる。
「ポケモンセンターなら、丁度オレ達も行こうとしてたとこだぜ」
「それなら良かった。それじゃあまずは警察へ行きましょうか」
ハルヨシとチャーレムのマチェを先頭にして、一行は警察へ向かう。隣をぺたぺたとついていくグンマを見やりながらシキは、そういえば倒してしまったゴミカゴを戻していなかったなあ、と少し後悔した。