2 「わたしも もういかなきゃ!」
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早朝、三時四十五分。グンマに額を何度も小突かれ起こされる。……今日は早く起こして、とは言ったが、まさかこんなに早く起こしてくれるとは。シキは恨めしげにグンマを見たが、グンマはどこ吹く風とばかり、知らん振りを決め込んでいた。
浅い眠りを数時間とったのみの頭は、綿を詰め込んだみたいにふわふわしている。グンマによって布団をひっぺり剥がされ、半ば引きずり出される態でシキはベッドを下りた。冷えたフローリングにそろりと足を下ろす。
(ああ、……今日、出発だっけ)
興奮のあまり、まともに眠れなかったなあ、と目をこする。だけど不思議と眠くない。思考は酷く冴え冴えとしていて、昨日はドタバタしすぎて考えられなかった細々とした事が、するりと抵抗も無く滑り込んでくる。そうして真っ先に思ったのが、
(なんだって、こんな急に)
機が熟したら決行しよう、と決めてはいた。早くても春休み以降、と三人で数日前に確認したばかりだ。
これはどういうことだろうか。一日でも早く旅に出れるというのは当然喜ぶべき事態のはずだが、それにしてもまだ、心の準備というものが出来ていなかった。出発を前にして、心が現実に追いついていない。
(まあ、ミツキにあったら直接問い詰めればいっか)
考えていても仕方ないと思った。それよりも母が起きだす前に、家を出なくては。
そっと部屋を出る。隣の寝室にいる母を起こさぬようにと、なるべく音を立てずに一階の洗面台へ。手早く身支度を済ませ、ついでに冷蔵庫から菓子パンを幾つかとペットボトルを数本拝借して、来たときと同じく静かに二階へ戻る。暫く様子を窺ってみたが、取り合えず今のところ母が起きだす気配は無い。
机の上に四角く畳んでおいた着替えを着て、その上に、椅子の背にかけてあった薄桃色のコートを着た。クローゼットからバッグを取り出して、さっと中身を確認する。充電の終わったポケギアをバッグに入れた。先程取ってきた食料を残りのスペースに詰め込む。ペットボトルが一本入らなかったので、グンマに渡す。グンマはそれをくいくいと一口で飲んでみせた。コートのポケットからポケッチを出して時間を確認すると、四時十五分、をちょっと過ぎたところか。少し早いかもしれないが、もうそろそろ出発するべきか。
そこでシキはあっ、と思い出した。床に投げ捨てられていたスクールバッグから、ごつごつとした黒い一眼カメラを引っ張り出す。たまたま部室から借りていた――もとい、かっぱらっていた物だが、どうせ旅に出たらしばらく返せなくなるだろうし持っていってしまおうと、バックの中に押し込んだ。どうにかカメラは入ったが、更にペットボトルが一本入らなくなってしまったので、グンマに飲み干してもらう。今日は彼の腹具合には気を付けておかないとな、と思う。
……旅に連れて行くポケモンはグンマ一匹だけ。バックにはお小遣いをはたいて買ったモンスターボールが数個。これからこの中に、どんなポケモンが入るのだろうか。どんなポケモンと出会えるのだろうか。
母には、結局何も言わずに出発することになる。そのことに対して、罪悪感が無いといえば嘘になる。それに学校のこともある。もうすぐ春休みとはいえ、学校を無断で休んでしまうことに、シキの心はちくちくと痛んだ。こんな大事な時期に。そうだ、シキ達も今年は受験生なのだ。
それでも、旅立ちを前にして、シキは興奮している。今までの人生で一番わくわくしているといってもいいかもしれない。
自分よりも歳の小さい女の子が、ポケモントレーナーとして旅に出る話を、何度もテレビや本で見てきた。彼女たちはポケモンと一緒に、背の高い草原を歩き、寂れた線路を跨ぎ、石の塀を越えていく。そんなお話に、子供の頃から憧れていたし、同時に嫉妬に近いものも感じた。――自分だって、と。
自分だって、彼女たちのように旅に出たかった。幼心ながら、精一杯に渇望していたその想いは、しかし果たされること無く、そのままシキの胸の内に燻ぶり続けていた。
だがしかし、今、その願いはシキの考えもしなかった形で、叶おうとしている。思い描いてきた夢は、今、目の前の姿見の中に映し出されているのだから。
「グンマ、おいで」
そう言ってモンスターボールを突き出すと、彼は素直にボールの中へと入っていった。そのボールをポケットに入れて、準備は完了だ。パンパンに詰め込まれたバッグは、肩にかけるとずしりと重たい。その重さにまた一つ、実感する。机の上に置いておいた白いニット帽を被れば完璧だ。
最後にもう一度部屋を見渡してから、シキは部屋を出た。もう一度寝室の方を窺って、そろそろと階段を下りていく。そうして一番最後の段を下りた時だった。
――二階のほうで扉の開く音がした。
シキはハッと顔を強張らせ、今自分が降りてきたばかりの階段を見上げる。……何かを考えるよりも先に、身体が動いていた。
リビングを突き抜け、玄関へと駆け込む。ブーツに足を突っ込んだ。とんとんとん、と階段を足早に下りてくる音。こんなときに限って、上手く足が入ってくれない。(……ああ、もう!)シキは叫びだしたくなる気持ちを何とかして押さえ込む。悪戦苦闘しながら、どうにか片方のブーツを履き終わり、もう片方のブーツを履いた。足音はリビングの所まで着ている。もつれる足をがむしゃらに動かして、玄関を飛び出した。シキ、と悲鳴に近い声。
外は、昨日とはうって変わり、また冬が戻ってきたかのような寒さだ。白い息を吐き出しながら、駆け出す。後ろの方から母の声が追いかけてくる気がしたが、振り返って確かめる余裕は無かった。凍りついたアスファルトの上を、何度も転びそうになりながらも走る。声は何度も聞こえていたが、段々小さくなっていって、やがて聞こえなくなった。
○
どれくらい走っていたのだろう、足に限界を感じて立ち止まると、もう集合場所の公園は目と鼻の先であった。ひゅうっと喉の奥が鳴る。ポケッチを見ると、四時五十分、時間には余裕があった。ようやく息をつく余裕が出来て、ちらり、と後ろを振り返ったが、母がやってくる様子は無い。……上手く撒けたのだろうか。手の甲で額の汗を拭った。心臓は未だに、苦しいくらいに脈打っている。口の中は鉄の味で一杯だ。
まだ明けない早朝の空は、街灯の明かりを吸い込んで、うっすらと赤らんでいる。いつのまにか、雪がちらついていた。電線が風が吹くに合わせて、うおんうおんと不気味な唸り声を上げる。
徐々に息も整ってきて、シキはバッグの中から、白いマフラーを取り出して、首を覆う。赤くなった指先に吐息を当てながら、手袋も家から持って来れば良かった、と後悔した。
(旅先で買い揃えるしかないよね)
公園の中に入る。どこからかヤミカラスの鳴く声がする。……それにしても、寒い。だんだん指の感覚が無くなってくるような気がして、シキは手を握り締める。遊歩道に浅く積もった雪をサリサリと踏みながら、ようやっと街灯の下まで来た。そこには既に先客がいて、シキに気づくと片手を挙げて笑ってみせた。
「よっ、シキ」
「……おはよう。相変わらず、早いねミツキ」
「当ったり前だろー、だって遂に今日から、オレ達もポケモントレーナーだぜ!? もう昨日とか全然寝れなくて、仕方ないから眠くなるまでユウリとメールしてたんだけど、もう結局寝たの十二時時だぜ十二時! んで起きたのが四時だから、うん、四時間しか寝てねーんだよなーオレ」彼はここまで呼吸一つ置かずに言ってのけてから、
「あ、そうだ……、ユウリちょっと遅れるかもだと。寝坊したってさっきメールが」
「そりゃあ十二時までメール付き合ってたらねー」
「まあそうなんだけどさー……」
そう言ってミツキはくわあっと大きな欠伸を一つ。
彼は、いつもの休日と殆ど変わらぬ装いだ。こげ茶のジーパンに、白とオレンジのストライプ柄のウインドブレーカー、どちらも彼がよく着ている服だ。首には肩にかけたバックは、シキのに負けず劣らずパンパンに膨らんでいる。ふわふわとした麦色の髪が、街灯に照らされてキラキラと輝いた。きっとろくに身支度もせずに家を飛び出してきたのだろう。
「ところで、どうしたんだ?」
「……何が?」
「なんか、ヨユーなさそうな顔してるからさ。なんかあったんじゃないかって」
ああ、やっぱりばれちゃうな、とシキは心の中で苦笑した。昨日の母との会話をちらりと思い返す。嘘も隠し事も出来ない子、と。よほど自分が分かりやすい顔をしているのか、それとも。
どちらにせよ、元から隠す気なんてなかった。いずれは話すつもりだったことだ。
「家出る時に、……多分、お母さんにばれたかも」
「……マジかよ」
「それで急いで家出てきたんだけど……ごめん、気をつけてはいたんだけど……ごめん」
「んで、おばさんどうしたんだよ」
「多分、撒けたと思う。一応遠回りして此処まで走ってきたんだけど……ごめん、ホントごめん」
「……んな泣きそうな顔すんなよなー」
泣きそうな、と言われてようやく自分が酷い顔をしていることに気付く。不安と申し訳なさと、焦りとでぐちゃぐちゃになっている。
なんだってんだよ、と困り果てた声。「朝っぱらから調子狂うなー……、や、でもさ、大丈夫だって。結局おばさんだって追っかけてきてないしさ、まあ学校とかには連絡行くかもしれねーけどさあ、きっとなんとかなるってばよ!」大体なあシキ、とようやく此処で一拍息を入れて、「んなちっさいことに一々くよくよしてたら、これからの一人旅も乗り越えられねーぜ! だから気合入れてけ! まだ旅は始まっても無いんだかんな!」分かったかシキ、と思いっきり肩を叩かれた。大よそ女の子に対する力の加減ではなく、思わずつんのめる。慌ててミツキがシキの身体を支えた。
「あ、わりい」
「……ミツキはとりあえず、もうちょっとその馬鹿力抑えてよ」
「へへっ。……でも、ま、なんとかなるだろ、全部。だからさ、もう、おばさんのことも、学校のことも全部一旦忘れてさ」
まるで、私の心を見透かしたみたいなことをいう。
「……うん。そうだね。今までずっと、この日の為に頑張ってきたんだしね」
「そうだぞー。もう家にお前誘うたびに、クラスの奴らにすげえ変な目で見られたんだからな。あのビミョーな気まずさに耐えてきたオレとユウリの頑張りを無駄にする気か?」
ミツキは茶化すようにそう言って、ニッと歯を見せて笑った。シキもそれに合わせて笑う。……ミツキなりに精一杯自分を励まそうとしているのだと、シキには分かった。学校ではあんなにがさつに振舞っている彼に、まさか励まされるなんてと、ちょっと悔しい。それでいて懐かしい。そうだ、確か小さい頃も、こんな感じでミツキに慰められていたような気がする。その時は、シキがなかなか泣き止まなくて、挙句の果てにはミツキまで一緒になって泣き出して、それからユウリが慌てて引っ張ってきたミツキのお母さんが、何とかしてシキ達を落ち着けたのだった。
(そういえば、あの時は結局なんで泣いてたんだろう)
「……ねえ、ミツキ。何だっていきなり今日になったの」
「うん?」
「私達の旅の計画。出発は、確か春休み中にって決まったはずだったけれど」
「……ああ、何だそのことか。何でってそりゃ、決まってるだろお前。昨日のアレ観なかったのかよ」
「アレ?」
「昨日のコトブキテレビだよ! 五年前のセキエイリーグ再放送!」
シキは昨晩の記憶をまさぐる。言われてみれば確かに、そんな感じの番組を食事中に観ていた気もするが、どうだろう、記憶が曖昧だ。仕方なく、シキは首を振った。「ううん、観てなかった」
「なんだ、観てないのかよ……あんなにすげーバトルだったのに」思ったような反応が得られず、浮かない顔をするミツキだったが、すぐに気を取り直し、おもむろに自分のショルダーバックを探り始めた。やがて、服やら寝袋やらが乱暴に詰め込まれたバッグの中から、手のひらサイズの機械を取り出す。薄っぺらい板状をしたもので、液晶画面がついている。
「ミツキ、なにそれ」
「バトルレコーダー。普通はここのカメラで、録画するのに使うんだけどな。テレビやパソコンに繋いで、動画を落とすことも出来るんだぜ。で、昨日の放送もこいつにとってあって……ああ、でも、そうだ。今は取り合えずバスに乗ろうぜ。始発逃したら一時間近く待たないといけないし」
バス停までは、此処からそう遠くない場所にある。シキとミツキは小走りに公園を出た。シキはもう一度通りを振り返ったが、それらしき人影は見受けられなかった。
手を擦り寒さに耐えていると、やがて、バスのものと思わしき明かりが、ゆらゆらと近づいてきた。バスはシキ達の姿を認めて、バス停の前で留まる。靴についた雪を撒き散らしながら駆け込むと、中は暖房のお陰で寧ろ暑いくらいだ。シキ達以外の乗客と言ったら、小柄な老人が一人、二人と座っているのみで、ひどく閑散としている。二人は空いていた座席二つに並んで座る。
ばりばりに凍りついた皮膚が、暖房の温風でじわりとほぐされていく。二人はどちらともなしに息を吐いた。前に座るミツキに小声で尋ねる。
「このままコトブキまで行くの?」
「だな。途中でマサゴにも留まるからそこでユウリ拾って、コトブキで降りて」
「……まあ、ユウリが間に合えばの話だけどね」
町をぐるりと巡回して、バスはやがて坂道に入っていった。窓からは、馴染み親しんできたフタバの町並みが見下ろせる。いつも友達と行っていた商店街のアーケード通り、本当は今日も通うはずだった中学校の古い校舎、母がよく買物に行くスーパー。シキは窓に額をくっ付けんばかりにして、それらが完全に林の向こうに消えるまでを、じっと眺めていた。暖房が効きすぎで、早くも頬が火照り始めていた。或いはそれは、旅がいよいよ始まるという興奮からくるものだったのかもしれない。
○
「それで、五年前のセキエイリーグって?」
シキ達の逸る気持ちと裏腹に、バスは代わり映えのしない雑木林をのんびりと進む。
冬の山はいい、とシキは思う。林の間を点々と、ミシンの縫い目のように続くポケモンの足跡を追ったり、白く凍りついた白樺の枝から、氷の欠片がはらはらと音もなく舞い落ちる様を眺めるのが好きだった。
そうして雪間から覗く小川を辿っているうち、シキは先程ミツキが見せようとしていたバトルレコーダーのことを思い出していた。
「あ、そうだった、すっかり忘れてた。……まあ、ともかく見てみろって。その方が話が早いし」
再びひょいと取り出されたそれを覗き込む。ミツキが渡してきたイアホンの片側を自分の耳に突っ込んで、もう片方をミツキに渡した。ミツキが何度か画面を触ると、滑らかな液晶画面に、突如青い空とタイトルロゴが映し出された。ファンファーレの音が高らかに、空を割る。
『歴史に残る頂上決戦! セキエイポケモンチャンピオンリーグ・決勝戦』
タイトルが消えると、辛うじて興奮を抑えこむ、実況と解説者の語りに合わせて、視点はゆっくりと下に降りていき、何処かで目にした気がする楕円型のスタジアムが、そしてそれを取り囲む観客らの様子が画面に流れる。その顔はどれも、これから始まろうとしている戦いに対する期待、興奮に満ちていた。
それから画面は切り替わり、バトルフィールドに入場してきた二人の少年トレーナーを映した。
「……子供だ」
それも、シキ達と、殆ど変わらない背丈だ。顔つきには、まだまだ幼さが残っているものの、この大歓声を前にして、両者全くく怯む様子が無い。……実況が熱を込めて、二人の名を繰り返し叫ぶ。
「あー、ほら、こっちだこっち! こっちの赤い帽子の人が、今カントーチャンピオンやってる――、そんでもってこっちの人が……」
ミツキが何か早口でまくし立てていたが、シキの耳には入ってこなかった。歓声と拍手に迎えられながら、二人はフィールドの中央へ並んで歩いていく。待ち構えていた審判団と握手を交わす。二言三言言葉を交わした後、審判団は慌しく持ち場につき、フィールドには彼らのみが取り残された。ざわめきが二人を押し潰さんばかりに、包み込む。アナウンスが入り、二人はそれぞれの所定位置に着くよう指示された。
フィールドを挟んで、二人のトレーナーが向かい合う。ふっと、すべての音が消えた。観客の誰もが、息を殺して二人のトレーナーを見ている。二人は相手を見据えて、微動だにしない。ふとその目の奥に、静かに揺れる火を見た気がして、シキはどきりとした。
(この人たちは)
何なんだろう、と思う。今、彼らの目で、怖いほどに煌めいたのは、何なんだろう。シキには全く及びも付かぬ、恐らくミツキにもわからないだろう、彼ら二人だけが分かつ輝きを見た気がした。
いっそ苦しいと思えるほどに長い沈黙を、破いたのは甲高いホイッスルの音だった。……二人の間に立っていた審判が、さっと両拳を突き上げ、試合開始を告げた。二人が放ったモンスターボールからポケモンが現れ、観客はそれを、イヤホンが壊れるかと思うほどの、熱狂的な拍手をもってして迎える……。
「……な、すげえだろ」ミツキが、そっと口を開く。「オレさ、今まで友達とバトルしたり、テレビで強いトレーナー同士が戦ったりするのを見てきたけれど。でも、こんなポケモンバトル、生まれて始めて見たんだよ。もう半端ねーぞこいつらって思って、んで、早速ネットとかで調べたんだ、この人たちのこと。大会前インタビューとか、そんなやつな」
そしてミツキは、彼らが自分たちよりも早く、冒険に出ていることを知ったのだという。ミツキは一層声を潜めて、
「十二歳。……十二歳でカントー地方旅して、そんでこのリーグの時は……十三歳だと」
「……嘘でしょ」耳にした言葉が信じられず、思わず聞き返す。
つまりこの少年たちは、自分たちと同い年なのだ。シキは改めて、バトルレコーダーの少年達を見た。たった一枚のガラス板の向こうに、自分ではとても届かないような世界があるのだ。
「だから、もう、それ聞いたらさ、間にあわねえぞって思ったんだよ。だって……、シキ、お前次のリーグ開催っていつか分かるか?」
「えっ? えーっと……」
咄嗟に言葉が出ない。迷いつつも「三年後とか?」と答えてみる。
「……来年なんだよ」ミツキは切羽詰ったような声で言った。「このシンオウで来年、開催されるんだぜ! だけど、もう今年なんて受験だ何だってすっげえドタバタするだろ。のんびりしていられるのも、せいぜい今の内ってとこで。そのリーグを逃しちまったら、次のリーグ開催はまた暫く先だ。三年後、四年後、もしかしたらもっとその先か。でも」
へへっと乾いた声で笑うミツキ。「シキも分かってんよな。オレは滅茶苦茶せっかちだってこと」
「うん。そりゃもう、嫌ってほど思い知ってるよ」
「だろ。……待つのは大嫌いなんだ、オレ」
今、画面の向こうでは、二匹のポケモンが、息もつけないほどに激しい空中戦を展開している。トレーナーは矢継ぎ早に指示を繰り出し、空では突風と炎が吹き荒れていた。
シキはそっとミツキの顔を窺った。食い入るように画面を見ている。きっと昨日から、何度もこの試合を観ているに違いない。恐らくシキと同じように、いやそれ以上に、彼らの目に魅入られてしまったのだろう。
「ミツキは、やっぱり、ポケモントレーナーになりたいの?」
「ああ、当然。昔から、ずっと憧れてきたし」そう言って、照れくさくなったのか、火照った顔を更に赤くして「すっげえ強くなってさ、いつかはこの人達とも戦ったりして」
彼の顔を一瞬だけ、影のようなものが過ぎる。ほんの少しだけ、痛みを堪えるように顔をしかめた。シキがそれに気づいた時には既に、何事も無かったかのように表情を緩めていたが。
「……で、ポケモントレーナーとして第一線で活躍するなら、妥当なのがやっぱ、どっかしらのリーグを制覇することなんだよな。んで、時期的には来年シンオウで開催されるのが、一番早い」
ミツキがそろそろしまって良いか、と聞いてきたので、シキはイヤホンを外してミツキにバトルレコーダーを手渡した。ミツキはいそいそとそれをしまうと、座席のシートにぐっと身体を乗り出す。
「だからもう、一日だって待ってられねえって思ったんだよ! もう春休みだとか、学校だとか、んな悠長なこと言ってられないって。早く旅に出て、修行とかやらないと、絶対リーグには間に合わないってさ!」
「……うん、だからってさ、せめて一日くらいは、心の準備とか整理とかさせて欲しかったんだけどな」
おもむろに頭上から声が飛んできたので、シキとミツキがぎょっとしてそちらを向くと、黒髪の少年が一人、吊り革にぶら下がって此方を覗き込んでいた。
「……え、あれ、ユウリ、いつの間に?」
「結構さっき。……冗談抜きでバスに置いていかれる所だった」
停まったことにすら気がつかなかったのなーお前ら、と彼はへらりと笑ってみせて、シキの反対側の席に座る。彼は青色のダウンジャケットにジーパン、白いマフラーにリュックサックという格好だった。寝癖と癖毛の混じったくしゃくしゃ頭を、くるくる指で弄んでいる。
窓を見ると、林の隙間から僅かに、マサゴの砂浜が窺えた。バスの乗客もいくらか増えている。高校生くらいの女の子が、ミツキの二つ前に座っていた。
「……ってことは、もうマサゴ通り過ぎたんだ。コトブキまで後何分かな」
「二十……三十分くらいじゃないか? って訳でオレ寝てるから着いたら起こしてね」
「お前もう十分寝ただろー! ほら、三人揃ったから作戦会議するぞ作戦会議。最終確認しておかないとな。ルートとか、日程とか。シキ、タウンマップ出してくれ」
「それ別に着いてからでもいいだろ……オレは寝る、マジで寝るから」
「ユウリ、朝ご飯食べてないならパンあるけど」
「よろこんでいただきます」