青い光彩を欲しがっただけ
1 決行は明日



 生まれたときからずっと、ずっと手に包んでいたものを、空に、吸い込まれそうな蒼穹に、解き放つように。

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 ――シンオウ地方の南部にある小さな町 フタバタウン――


 きっかけは、普段なら気にも留めないような、母のお小言。
「最近、ミツキ君達と良く遊んでいるのね」
 最初のうちは、部屋を片つけなさいだとか、宿題はやったかだとか、そういう極々些細なものだったと思われる。余りにも聞き飽きた日常会話。いつもいつも、それこそ耳にオクタンが出来るほど聞かされてきたものだから、この時も、殆ど右から左へつらつらと聞き流していたのだが、一体どのような経緯を経たのか、母の小言の矛先は次第に逸れていって、気づけば話題に上っているのは、小さい頃からよく遊んでいた二人の少年、所謂幼馴染のことなのであった。
 シキはその時、リビングのソファーに横たわって、ティーンズ向けの雑誌を読んでいた。学校の友人に勧められ、試しに買ってみた一冊。見開き一杯に咲き誇る、アイドルの笑顔が眩いばかりだ。その腕の中では、小さなポケモンが二匹――シンオウでは殆ど見かけないが確かプラスル、マイナンというポケモンだ――が、キラキラした黒い目を此方に向けていた。
 キッチンからはビーフシチューの甘い匂いが、ふわりと漂って、シキの食欲をくすぐる。シキは溢れる唾を飲み込んだ。ビーフシチューは母の得意料理であり、シキの好物であった。壁にかかった時計は、夕飯時を指している。
「うん、新聞局の関係でちょっと、ね。ミツキとユウリの三人で」
「あら、ミツキ君、新聞局だったかしら。ママの記憶だと、あの子陸上部じゃなかった?」
「陸部は結構前に辞めてるよ。こっちに入部したのは最近」
「ユウリ君は? 確か図書局だって聞いたけれど」
「ユウリは手伝い。図書室ってあんまり利用する人居なくて、退屈なんだって」
「ふうん……。……そうなの」
 嫌な、間の持たせ方だ。
 シチューを煮込む、コトコトという音だけが、やけに大きく聞こえる。沈黙に耐えられなくなって、或いは早く会話を打ち切りたくて、シキはテレビの電源を入れる。テレビではお笑い番組をやっていて、司会を務めるコンビの芸人が、軽快なリズムで観客を沸かせている。
 ふいと視線を外にやれば、群青の空に、ぽっかりと宵の明星が浮かんでいる。薄紫色をした山際を、鳥ポケモンの影が、すっと横切った。庭に積もっていた雪は少しずつ解け始めていて、その下から土色が顔を覗かせている。この調子でいけば、あと一週間もすればフキノトウの白い花が咲くだろうか。今年の春は、随分と駆け足だ。

「わざわざ家に集まって、話し合うようなことなのね」
「……、えっ?」
 そのまましばらく沈黙は続いて、もういい加減に話は終わったのだろうかと安心した頃、不意に母が口を開いた。
 その言葉の中に潜んだ棘のようなものに、ハッとして、雑誌越しに母の顔を見る。立ち上る白い湯気の向こうで、母は静かに此方を見ていた。まるで何もかも全てお見通し、という目だった。耐え切れなくなって、雑誌で視線を遮る。知らず心臓が跳ねる。
 この空気の、この流れはまずい、と思った。
「……別に、大した事じゃ無いよ」動揺を悟られまいと、必死に声を絞り出した。一度口を開けば、思ったよりも滑らかに、言葉が出てくる。シキは唇を舐めて湿らせながら、慎重に言葉を選ぶ。
「記事やレイアウトの打ち合わせみたいなもので、ほら、先生に頼まれちゃって」
「へえ、本当?」
 嘘だ。
 新聞はとっくの昔に出来上がっている。
「この前学校で球技大会あったでしょ。それについての記事を部長から任されたの。でも期限迫っているし、学校だけじゃ話がまとまりそうに無いから、それなら家でも集まってやろーってことになったの」
「あら、そうなの」
「いざ集まるってなって、それじゃあ学校から一番近いミツキの家で集まることにしようって決まって、それで」
「シキ」
「何?」
「良く喋るわね」
 一際心臓が高鳴って、いよいよシキは、ぞっ、とした。
「ミツキ君のお母さんから聞いたのよ。最近息子達が部屋に篭もって何か話し合っているみたいだって」
「……だから、記事の打ち合わせだって」
「それは嘘、よね」
 シチューをぐるりとかき回しながら、淡々と母は言った。ミツキ君のお母さん、こんなことを言っていたわ、と。
「放課後しょっちゅう部屋に篭っては、何かの、計画? を建てているみたいって。親にも、先生にも、学校のお友達にも言えないような」
 ……ああ。シキは思わず顔を覆いたくなった。脳裏に、ミツキの母のおっとりとした顔が浮かぶ。
 正直、母親達の情報網を舐めていた。……恐らくミツキの母は、部屋の前でシキ達の会話を盗み聞きでもしていたのだろう。そしてそれは速やかに、シキの母へと伝わった。
 ああ、幼馴染、家族ぐるみの付き合いの恐ろしいことと言ったら。
「ママ達に知られたら、不都合な計画を、たてていたんでしょう?」
 しかし、その言動から考え見るに、どうやら母はまだ、計画の内容までは知らないらしい。知っていたら、それこそ鬼の形相でもって、シキを止める筈だからだ。
 それだけが唯一の救いであり、希望だ。他の誰に知られようと、母だけには知られるわけにはいかない。

 窓に叩きつける雪のように激しい、母の追求は続く。湯気の向こうで、母の白い喉がうねる。嵐が過ぎ去るのを待つように、シキはただただ、口を閉ざすしかなかった。そうでもしないと、計画のことも何も、全てを吐き出してしまいそうだったからだ。ソファーに身体を沈める。雑誌は先程からずっと同じページだ。内容なんてちっとも頭に入ってこない。シキは、ひたすらテレビの笑い声に耳を澄ましていた。
 そうして頑なに無言を貫くうち、とうとう母はシキから『計画』について聞き出すのを諦めたようだった。煮え立った鍋から、二枚の皿にシチューを注ぎながら、
「全く。何を考えているのか知らないけれど」と、肩をすくめてみせて、「兎も角馬鹿なことやらかすのは勘弁してね。貴方ももう三年生になるし、そろそろ受験のことも考えなきゃいけないんだから。この時期に問題なんて起こしたら内心点に響くでしょう? この前の三者面談で先生にも言われたの、覚えてる?」
 またか。……シキは、心底うんざりした。
 受験、進学、進路。母の口からこれらの単語が出ない日は無い。いや、母だけじゃない。担任や、新聞局の顧問の先生だってそうだ。彼らはまるで、その言葉自体が保険であるかのように、事ある毎にそれらを口にする。そのたびにシキは、淀んだ空気を肺に吸い込んだような気だるさと、息苦しさを覚えて、堪らなくなる。
 母はテーブルの上にシチューの皿を置いた。シキはソファーから起き上がった。好物を前にしても、シキの気持ちは晴れない。
「シキ、私はね、貴女の事を思って言っているんだからね」
 彼らは、母は言う。お前の為だ、将来の為だ、と。
 母はテレビのチャンネルを変える。何やらえらく盛り上がった実況と歓声が聞こえてくるが、正直今のシキにとってはそれどころではなかった。


 ○


 ビーフシチューを綺麗に平らげ、尚も何かを言い募ろうとする母をのらりくらりとかわして、シキは自室へと戻っていた。
 読んでいた雑誌を床に放り投げ、ベッドに倒れこむと、スプリングが甲高く軋んだ。疲労感が、どっと身体に圧し掛かるようだ。首をもたげるように顔を上げれば、壁一面に留められた写真が目に飛び込んでくる。
 その写真の殆どは、机の上の一眼カメラで、友達と撮ったものであったり、または学校行事で撮ったものであったりするが、その中にちらほらと、風景写真が紛れ込んでいる。シキの趣味で撮られたそれらの写真は、海であったり、花であったり、空であったりする。

 ふと、気配を感じて、そちら側に身体を横たえる。一匹のポケモンが、三本の黒い指で、器用にノブを捻り、入ってくるところだった。背丈はシキの腰に届くか届かないか、といった具合の、小柄なポケモンだ。それを見て、今までずっと仏頂面であったシキの顔に、久々に笑顔が広がる。
「グンマ、おかえり」
 グンマ、と呼ばれたそのポケモン、グレッグルは、動くのも億劫だと言わんばかりに、気だるそうにシキの方を振り返って、頬の毒袋をゴボボ、と膨らませる。シキが手招きをすると、のろのろとベッドに近づいて、その脇にちょこんと座り込んだ。今日は機嫌が良いようだ。
 ベッドの傍の机へ手を伸ばし、充電器からポケギアを毟り取るようにして取る。最近買ってもらったばかりの(買ってもらう為に、散々母を説得したものだ)傷一つ付いていない液晶画面に、未読メールがあることを知らせるアイコンがチカチカと点滅していた。どうせいつもの広告メールだろうと、内容も見ずに削除する。そして、メール作成画面を起こした。送信履歴の先頭に並ぶ二人の名前――シキの幼馴染である二人の名前を、宛先に指定する。
 ……リビングの方から、歓声が聞こえてきた。大方母がテレビで、ポケモンコンテストの中継でも観ているのだろう。相変わらずグンマは毒袋を震わせている。目尻の垂れた金色の瞳は、虚空を見据えて微動だにしなかった。

 【本文】明日の作戦会議は、放課後にミツキの家にしゅうご

 そこまで打って、はたと手が止まった。先程リビングで繰り広げられた口論が、思い出される。……駄目だ、ミツキの家は危ない。またミツキの母に盗み聞きされるかもしれない。
 ならばユウリの家に集まるか、とも考えたが、ユウリの家は学校から遠い。彼の家は隣町のマサゴにあるのだ。バスを使えば大体、片道で三十分掛かるか掛らないか、といった所。帰る時間が遅くなれば、また母に怪しまれるに違いない。それだけは、何としてでも避けなければならなかった。シキの家……は、論外だろう。危険すぎる。
 さあ、困った。どうしよう。
 シキは枕に鼻を埋めた。シャンプーと汗の匂いに包まれて、瞼を閉じる。
 残された猶予は、もうあと僅か。勘の鋭い母のことだ、やがてシキ達の計画の内容も分かってしまうだろう。
 そうしたらもう、二度と。二度とこの機会が巡って来ることは無いだろう。

 机の引き出しの奥に隠しておいたカードケースを取り出す。真新しい空色のケースには、ついこの間発行してもらったばかりの、トレーナーカードが入れてある。カードに印刷された自分の名前を見て、胸が高鳴る。
 夢みたい、とシキは思った。今自分が握っているのは、薄いプラスチックの板なんかじゃなくて、実は、魔法のアイテムなんじゃないかと思えてしまう。
 このカードがあれば、自分も、トレーナーとして旅に出ることが出来るのだから。
 ……女の子の一人旅。
 絶対に母は反対する。
 ――このご時世に女の子一人で旅なんて。いい、そんな危ない事は絶対に許さないわ。貴女だけの人生じゃないんだから、……少しは周りのことも考えなさい。何かがあってからでは遅いの。もう高校生になるんだからね。今年は貴方も受験生なのよ。そんな大事な時期に馬鹿なことしでかさないで。――なんて。
 枕の下にケースを押し込む。鬱々とした気持ちになって、膝を抱えて横たわった。微かに雪の混じった風が、窓をカタカタと震わせる。
 不意に、手の中のポケギアが震えだした。シキはガバリとシーツから身体を引き剥がした。送り主は、ミツキと表示されている。開く。たった一文、文面は酷く簡潔であった。

 【本文】ケッコウハアス、

 ケッコウハアス。……ケッコウハウス。
 咄嗟に脳内で反復する。ケッコウハアス。なんだか呪文のような一文だった。なんじゃそりゃ、とシキは思わず画面の向こうの相手にツッコミを入れたくなった。よほど焦っていたに違いない、ろくに文面の確認もせずに送ったのだろう。相変わらずのせっかちっぷりだ。シキはすかさずそれに返信しようとしたが、そこにまた新着メールが届く。着信音に急かされるように、メールを開封した。
 送り主はまたも、ミツキ。

 【本文】決行は明日、いつもの場所に五時集合!!!!!

 語尾の真っ赤な感嘆符が、彼の興奮を何よりも明確に伝えていた。
 ケッコウハアス……決行は明日。何の決行か、それが何を表すのか、そんなの決まりきっている……。シキは体中にぐん、と、熱いものが巡るのを感じた。実感が湧いてこない。なんだかふわふわとしながら、それに返信する。ベッドから立ち上がった。身体は風船のように軽い。
 グンマがじっとりと此方を見ているのに気が付く。主人の様子がいつもと違うことを感じ取ったのだろうか。シキは枕の下に押し込んだケースを引っ張り出した。グンマはじっとシキの動きを追っている。
 リビングの方から聞こえる歓声が、大きくなっていく。
 部屋のクローゼッドから、バッグを取り出す。ベージュ色の大きなショルダーバッグだ。底がかなり深めに作られていて、中には数日前から少しずつ用意してあった荷物が丁寧に仕舞い込まれている。いつでも出発できるように、と用意してはいたが、まさかこんなにも早く出発の日が訪れるとは。
 ケッコウハアス……計画の決行は、明日!
 明日だ。明日にはこの家から、この町から出て旅に出るのだ。
 シキはトレーナーカードを、荷物の上に置いた。……つい数分前まではそれこそ、夢みたいに不確かだったものが、突然現実味を帯び始めている。とりあえずどうしようと、シキはベッドから降り部屋を見回した。まずは明日の服と、所持金の確認。荷物をもう一度整理して、それから大丈夫だとは思うが、グンマの体調も確認しておかなくては。一気にやらなくてはいけないことが出来て焦る。ともかく時間が絶対的に足りない。
 と、再びポケギアが鳴る。送り主、ミツキ。

 【本文】遅れたら罰金百万円!!!!

  画面越しに、彼が部屋中をドタバタと走り回って、荷物をバッグに詰め込んでいる様を見たような気がして、そしてそれに今の自分の姿を重ねて、シキは思わず笑みを零した。




まめる ( 2011/07/10(日) 22:38 )