母の苦悩
「あんた、梨夏のことどう思ってるの」
「そんなの決まってるだろ、梨夏は妹だよ」
俺が答えるまで、それほど時間はかからなかったと思う。
「なら......」
「もう夜遅いから寝ていい?」
母さんはなにやら言いたげな表情をしていたが、それ以上何も言わずに部屋から出て行った。
「......その言葉、信じるわよ」
タツノスケは皿に満たされたポケモンフードを平らげると、口にフードの入った袋を咥え、母さんに2杯目をせがんだ。
「駄目、あんた今食べたばっかりでしょうが」
「ぎゃうぎゃう!ぎゃうぎゃう!」
「なんて言おうが駄目よ」
母さんは袋を奪い取ると、タツノスケが取れないように抱きかかえてしまった。
「.........ぎゃう」
まったく馬鹿だなタツノスケは、俺なら母さんに許可なんて取らずに勝手に袋を開けて食べる。
こんなものは食べてしまった者の勝ちなのだから。
タツノスケはしょんぼりとリビングから出て行った。
たかが朝食のおかわり程度のことなのに、タツノスケの後姿はあまりにも痛々しく、母さんは苦笑いをした。
「最近やたらと2杯目をせがむようになってきたわね、あの子も成長期かしら」
「じゃあ、タツノスケの奴もうすぐ進化するのかよ」
「一緒に散歩に出たりするけど、別に他のポケモンと戦わせたりしている訳じゃないからそれは無いんじゃないかしら」
「お昼にあいつの好物のノメルの実でも買ってきてやれよ」
「ええ、そうするわ」
しばらく気まずい沈黙が続いた。お互いに次に口を開けばどういう話題になるのか分かっていたからだ。
珍しく母さんから何も言ってこなかったので、俺から口を開くことにした。
「なあ、梨夏のことなんだけど」
「うん」
「あいつまだ小学生だろ? ほら......その...、例え本当に俺のことをそう思っていたとしても、小さい子によくあるそういうのなんじゃないか」
『春季、あんた彼女作りなさい』
母さんは梨夏が俺に異性として好意を抱いていると気づいたらしい。女の勘という奴だ。
そこで俺に彼女が出来れば、梨夏は俺を諦めてくれる。それが母さんの考え。
兄妹で結婚なんてしてはいけないというのが、世の常識だ。
だがあいつはまだ小学生だろ?
確かに小さい頃、『結婚しようね』なんて約束をしたことは覚えている。だけどそんなものは時の流れと共に忘れ去られ、自然に風化していくものだ。
梨夏だって中学生になればそのことが分かるだろうし、好きな子の1人や2人、あっという間に出来るだろう。
「梨夏はもう小学5年生よ、周りで浮いた話の一つや二つ、あってもおかしくないと思うんだけど」
「今は周りに気に入った男子が居ないんじゃないのか」
「告白とかはされないのかしら」
「だから周りにいい男子が居ないんだろ。されたとしても断ってるんだろ」
中学生になれば、他の小学校だった奴とも知り合えるし、投げやりな言い方だが、すぐに彼氏なんて出来るんじゃないのか。
「あいつも中学生になれば、俺のことなんて、どうでもよくなってるよ」
「やっぱりあの子、ポケモントレーナーになならずに中学生になるつもりかしら......」
『じゃあ私もポケモントレーナーになりたくない』
「母さんって、やたらと俺たちをトレーナーにさせたがるよな」
「あんたたちを引き離したいからよ、いい? 兄妹で結婚なんて絶対に駄目よ」
「だけどそんなのは個人の自由じゃないのかよ」
「春季!!!!」
母さんは悲鳴じみた甲高い声で怒鳴った。
「ちち、違うよ、俺たちのことじゃないよ」
母さんはひどく険しい表情で俺を見つめた。
バクバクと心臓が張り裂けそうなほど振動する。鬼のような顔つき母さんの目のどんよりとした陰湿な視線に、俺は体が凍りついたように動けなくなってしまった。
しばらくして母さんの視線が俺から外れた。強張っていた体の力が抜け、思わず安堵の息が漏れた。
「......私を無駄に驚かさせないでちょうだい。心臓に悪いわ」
「.........」
いつからか、母さんが俺と梨夏が仲良くしているのを見ると、嫌な顔をするようになった。
「とにかく、春季、あんた昨日の夜、私が言ったこと覚えてるわね?」
「彼女を作れだろ」
俺に彼女が出来たことを知れば、梨夏は俺のことをキッパリ諦めてくれるという母さんの考えだ。
確かにその通りだとは思うが、普通自分の子供にそんなことを言うだろうか。
「自分で言っておいて、めちゃくちゃだとは思わないのかよ」
「そんなの分かってるわよ」
「だって俺の人生なんだぞ」
「別に本当に作らなくてもいいの、嘘でもいいから梨夏にあんたが彼女を作ったと思わせればいいのよ。その後は私が梨夏に言い聞かせるから」
「嘘はまずいだろ。それに嘘がバレた時どうすりゃいいんだよ」
「そん時はあんたがしょうもない見栄を張ってたってことにすれば問題ないでしょ。その後はまた考えておくわ」
とにかく俺が何らかのリスクを負わなければならないということは確定しているのか。
「別にそんなことしなくても、中学生になれば梨夏だって彼氏が出来てるよ」
あともう一年と少しで梨夏は中学生になるんだから、俺がそこまでする必要はないだろう。別に俺が女子にモテないからと言う訳では決して無い。
「あんた、なんでも楽観的に考えすぎ」
母さんはバンとテーブルを強く叩いた。
「なんで?」
「あんたの中学校、全員で何人いるか言って見なさいよ」
「96人」
「その中で、あんたと同じ学年は?」
「20人」
「そして男子は?」
「6人」
「梨夏もその中学校に入るのよ」
「.........」
母さんはため息混じりにつぶやいた。
「そんな少人数の中で素敵な出会いなんて見つかるといいんだけどね」
実は俺の通っている中学校はまだ人数も男子も多いほうだ、学校によっては男子ゼロ人なんて所もザラにある。
最近ではこれが普通なのだが、母さんが子供の頃は全校で200人なんて当たり前だったらしい。
俺が小学校の頃、男子は20人以上も居た。しかし、皆10歳を超える頃にほとんどがポケモントレーナーになってしまい、卒業する頃には俺を含む2人を除いて、みんなポケモントレーナーになってしまった。女子で残ったのは8人ほどだ。
誰だってそうだ、みんなテレビ画面に映るポケモントレーナーに釘付けになり、将来ポケモントレーナーになることを憧れていたに決まってる。俺だってそうだった。
今、中学校に通っている奴らは、それぞれ、家庭の事情や、旅立つのを引き止める親の涙に負けたのだろう。
母さんは真っ直ぐに俺を見つめた。
「これはね、あんた達の為にしてることなのよ」
「彼女が出来たと梨夏に嘘をつくことがか?」
「そうよ」
母さんは俺を見て悲しそうに言った。
「兄妹で結婚なんて、大人になって絶対に後悔するんだから......」
.........後悔?
「今は分からなくてもね、高校生になる頃、世の中の常識がなんとなく分かって来た頃にはあんたも嫌でも分かるのよ。いけないことだって」
常識、一体それは何なんだ?
最近俺はこの言葉を聞くと無性に腹が立ってくる。
意味が分からないからだ。
決して常識という言葉の意味が分からないというわけではない、何故それが常識なのか、何故そうしなくてはいけないのか、してはいけないのか。
俺にはそれが理解出来なかった。
都合の悪いことをはっきりと説明せず、常識だからとかいう言い訳で誤魔化しているようにしか思えなかった。
「何だよ常識って、はっきり言ってくれよ」
「もう少し大人になれば分かってくるわよ」
「じゃあ梨夏に彼女が出来たって言うのも、常識の意味が理解出来てからにするよ」
「それじゃあ遅いのよ!! いい? 私の勘が言ってる、梨夏は本気よ、頼むから手遅れになる前にあの子に言って頂戴」
「だから常識の意味を教えてくれっていってるだろ!!!」
「社会的に許されない。って意味よ」
「社会的って意味を教えてくれよ」
「説明して理解できるかしら?」
「いいから言えよ」
「いくら説明したってあんたの頭じゃ無理よ。だから私の言う通りにしなさい!」
「なんだよそれ、ちゃんと説明しろよ! 俺に教えてくれよその常識って奴を!!! それで俺が納得できれば今すぐ梨夏を追いかけて彼女が出来たって言ってきてやるよ!!」
「常識なんてものは勝手に身についていくものなのよ!!!」
「なんだよそれ、なんで俺と梨夏が駄目なんだよ!!!」
「やっぱりあんたも......」
怖くて母さんの顔を見ることが出来なかった。母さんは今の言葉の意味をどう捉えたのだろうか。
「じゃ、じゃあ、そろそろ学校行く時間だから」
俺は食器を流し台まで運ぶと、リビングを出て、玄関に向かった。
靴を履き、扉を開ける、涼しい秋の風が家の中に流れ込む。
「春季」
後ろから母さんの声が聞こえてきた。
「私、春季も梨夏のことも大好きだからね」
震えた声、母さんは泣いているのかもしれない。
「だから...」
言葉はここで途切れ、俺の背後でか細い息遣いが聞こえるだけになった。
母さんはいつも一人で俺と梨夏の面倒を見てくれていた。
それがどれだけ大変なのか、子供ながらに理解しているつもりだ。
「.........じゃあ行って来ます」
俺は外に一歩踏み出した。
「気をつけてね」
「うん」
そりゃあ彼女が居れば1番よいだろうけど、いきなりそんなこと言われても俺じゃあ無理だ。
だけど梨夏に嘘をつくことだけはしたくない。
何か解決策が無いのかと必死に思いを巡らせるが、この時俺の頭に浮かび上がるのはタツノスケの顔ばかりだ。なんで解決策がタツノスケなんだよ、チクショウ、俺の脳みそめ、現実逃避しやがったな。どれだけ考えてもタツノスケの間抜けな笑い顔が浮かび上がるだけだ。
こりゃあもう考えても駄目ということか、彼女を作れということなのだろうか。
最初から俺に彼女が居ればこんなことにならなかったんだろうなと思うと同時に、いつのまにか彼女を作ることについて前向きに考え始めている自分が、いい具合に母さんに誘導されているなと思った。
まあ彼女は無理だろうけど。