目覚めは最悪
夕日が差し込む教室の中、俺は机に座っていた。そして真っ直ぐに黒板を見つめている。
どうやら教室に残っているのは俺だけのようなのだが、不思議なことに廊下からも誰の声も聞こえてこない。
辺りは不気味なほどしんと静まり返っている。
まだ夕方だと言うのに、みんなはもう帰ってしまったんだろうか。
黒板の上にある時計に視線を移す。
しかし、そこには時計は無く、代わりに先生の顔があった。担任の花沢先生だ。
よく見ると壁と先生の首が一体化しており、お金持ちの家によくある鹿の顔のオブジェのようになっている。
花沢先生はいつものように素敵な顔で笑ってみせた。
「皆さん、おはようございます!今日も1日元気に頑張りましょうね!」
先生の顔は1人しか居ない教室を満遍なく見渡した。
「今日もみんな元気に全員揃ってますね!」
そういってニッコリ微笑むと、先生は教卓の上にある出席簿へ視線を落とす。
すると出席簿がカタカタと揺れ、出席簿を押し上げるように教卓から手が2本生えてきた。
ニョキニョキと肘の辺りまで生えた手は、ぷつりと教卓から切離れ、教室中を飛び回り、やがて出席簿を広げ、先生の顔の近くまで寄ってきた。
「それでは出席を取ります」
相変わらず素敵な笑顔で笑い、大きな声でゆっくりと出席を取り始めた。
「石田 麗さん」
教室には俺だけしかいない、当然返事は返ってこない。
「篠崎 美夏さん」
返事は返ってこない。
「高尾 愛梨さん」
先生は俺しか生徒が居ないにも関わらず、次々と名前を呼ぶ。
「広瀬 霞さん」
俺は椅子から立ち上がり、教室の出口に向かって歩き出した。
「藤原 未来さん」
歩いている間にも名前は呼ばれている。
俺は教卓の前を通り、教室の出口までやって来た。
「若槻 諒介くん」
がらがら
引き戸を開け、レールを跨いで廊下へ足を一歩踏み入れた。
「おかえり」
教室を出ると、母さんが食卓に座っていた。どうやらここは我が家のリビングのようだ。
母さんは下を向いている。
いつもの髪型は後ろ髪をゴムで止め、うなじまで垂らしたポニーテールだが、今はゴムも髪留めも何もさずに長い髪の毛をそのまま垂らしている。
「ただいま」
俺は一言返事をすると、母さんと向かい合う形で椅子に座った。
「今日の晩御飯は?」
母さんは何も言わなず、ただじっと下を向いていた。
垂れた髪の毛で顔が隠れている為、表情が分からない。ひょっとして眠っているのだろうか。
俺はテーブルの上にあるリモコンを手に取った。
リモコンを液晶テレビに向け、電源ボタンを押す。
ブレーカーが落ちたようにストンと周りが真っ暗になった。
何も見えない......という訳ではなく、俺と、俺が座っている椅子は、はっきりと見える。
そして俺の正面には母さんが相変わらず下を向いて座っていた。
何も無い真っ黒な空間に俺と母さんは椅子に座ってふわふわと漂っている。
何も無い空間かと思ったが、よく見ると遠くにぽつぽつと何かが見える。
俺よりも何万倍もありそうな大きさの真っ赤な球体、ボコボコといくつもの窪みのある灰色の球体、ドーナツのような輪がついた球体、水のように青い球体。
もしかしてここは宇宙のつもりなのだろうか。
太陽の目がぱちりと開いて、ソルロックになった。
ソルロックの真っ赤な瞳が俺を見つめている。
「春季」
今までずっと無言だった母さんが口を開いた。しかし相変わらず下を向いたままで表情は分からない。
母さんはゆっくりと顔を上げ始める。
なんだか嫌な気がする。
もう半分まで顔が上がっている筈なのに、母さんの顔は見えない。
いや、見えないんじゃない。顔が無いんだ。母さんはのっぺらぼうのように顔がまっさらだった。
「ねえ春季」
口が無いのに顔から声が聞こえてくる。
止めろッ!! 止めてくれ!!!それ以上言わないでくれ!!!!
そして母さんは口を開く。
「お願い春季」
「あんた彼女作りなさい」
うわああああああああああああああああああ!!!!!!!!!
ドサッ
最悪だ、最悪の目覚めだよまったく。
時計を見ると朝の6時30分、まだ家を出るまで一時間以上余裕がある。
酷い夢を見た。
めちゃくちゃな夢だったが、何が酷いかってあの夢の最後の母さんの台詞は現実で言われたことだからだ。
『お願い春季、あんた彼女作って』
昨日の夜、寝る前、俺の部屋に母さんがいきなり入ってきて、そう言ってきたのだ。
実の母親にこんなことを言われれば正直かなり傷つくし、あまりにもショッキングだ。自分で言うのはどうかと思うが、現在俺は中学2年生で思春期真っ只中、案の定、昨夜は頭の中にもんもんと黒い渦が回ってほとんど眠れなかった。
しかも夢にまでやってきて言ってくるとは思わなかったな。
時計を見るとまだ朝の6時だ。
家を出るまであと1時間以上余裕がある。あまり眠れてないしもう少し眠寝ようかな。
ベッドに横になり、布団を被った。
コンコンコン
瞼を閉じると同時に、ドアをノックする音が聞こえた。
「春季、今ドサッって凄い音が聞こえたんだけど大丈夫?」
びくりと反射的にベッドから起き上がってしまった。母さんの声だ。夢で見た顔の無い母さんが思い浮かび、ゾクリとした。
もう一度ドアをノックする音が聞こえる。返事をしようと思ったが、昨日のこともあり少し気まずい。寝ていることにして無視しようか。
俺はすっぽりと頭が隠れるまで布団を被った。
しばらくてノックの音は聞こえなくなったが、今度はガチャガチャとドアノブを回そうとする音が聞こえる。どうやら母さんは俺の部屋に入ってきたいようだ。多分昨夜の話の続きをするつもりだろう。
あの時は眠たいと言って無理やり話を中断したんだっけ。
しかし残念だったな母さん、この部屋には入れないよ。
昨日母さんが出て行ってから部屋に鍵をかけておいたのだ。恨むのなら部屋に鍵をつけることを許可した父さんを恨むんだなはっはっは。
俺が無視し続けていると、ドアノブを回すガチャガチャという音が大きくなった。
ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャ
ドアが壊れるんじゃないかというぐらい激しくガタンガタンと音が部屋中に響く。
俺は怖くなって返事をすることにした。
「あーごめん、ベッドから落ちたみたい、俺は大丈夫だから」
ピタリと音が止んだ。
「......そう」
ほっと胸を撫で下ろした。なんとか母さんが部屋に入ることを諦めさせれたようだ。最初からこう言えば良かった。
「ねえベッドから落ちたときにどこか怪我してない? 部屋にいれてよ、私が見てあげる」
ゾッっと背筋に冷たいものが走る。
やはり母さんはこの部屋に入るつもりだ。そして昨日の話の続きをするつもりなんだ。
大体、普段の母さんなら俺がベッドから落ちたなんて知れば、一ヶ月ぐらいそのネタを引っ張って俺を馬鹿にしてくる筈だ。実際に昨日まで箸の持ち方が変なことを毎晩いじられていた。もちろん持ち方は半年前に直したさ。
なので普段ならベッドから落ちたなんて絶対に言えない。
馬鹿にされるのを覚悟で言ったのに......母さんの反応は明らかに異常だ。
俺は慌てて返事をした。
「いや、大丈夫、どこも怪我は無いから心配しなくていいよ」
「本当に?」
何故か怒ったような口ぶりだった。
「本当に大丈夫だから、心配しないで」
「......そう」
しばらく沈黙が続いた。
一瞬諦めて去ったかと思ったが、扉の向こうから凄まじい威圧感を感じたので慌てて布団に潜り込んだ。これはひょっとすると母さんキレてるのかもしれない。
やがて扉の向こうから母さんがわざとらしい口ぶりで話しかけてくる。
「あっそうだ、昨日の夜あんたの部屋に入ったときに忘れ物したからちょっと入れてよ」
そうきたか。
「じゃあどんな物か教えて、俺が探して後でリビングで渡すからさ」
「口で説明するのは中々難しいの、それに今必要だから」
だんだん強引になってきたな。
「部屋は結構片付いてるし、俺のじゃないものだったらすぐ分かるよ。ほら、俺ももう中学2年生だろ? 例え母さんでも女の人に部屋とかあんまりジロジロ見られたくないからさ。思春期ってやつだよ」
「思春期......?」
普段の母さんなら絶対に有り得ないどんよりとした暗い声。
『もうあんたも思春期なんだからさ、彼女の一人や二人くらい......』
何故か昨夜母さんが言った言葉の一部分が脳内で再生される。
......しまった!! 自分から墓穴を掘ってしまった!
扉の向こうから母さんの少し震えた声が聞こえてくる。
「思春期なんだったら」
「ほらだってアレだろ!? 母さんだって早く朝御飯の準備しないといけないでしょ?? 探し物だったら俺がすぐ見つけて持って行くからさ、一応俺の部屋だし、俺の方が勝手が効くよ」
扉の向こうからは何の反応も無かった。
あまりにも強引な誤魔化し方で、余計に反感を与えてしまったのかもしれない。
俺は両手を合わせ、天に祈るように母さんの怒りが静まるのを待っていた。
......頼む。
長い沈黙の後、はぁーとドアの向こうから大きなため息が聞こえてきた。
「......分かったわよ」
少し投げやりな口調だった。
「...ありがとう」
あまりにも小さな声で、扉の向こうの母さんには聞こえなかったかも知れない。
とりあえず母さんは諦めてくれたようだな、ああ緊張した。もう喉がカラカラだ。
さて、いつまでこうやって誤魔化していけるだろうか。この件がうやむやになるまであまり母さんと接触できないな。
しばらくして扉の向こうから聞こえた声は、陽気ないつもの母さんのしゃべり方だった。
「まあ確かにそろそろ朝御飯作り始めないと、どっかの寝坊助と違ってウチの梨夏ちゃんがそろそろ起きて来ちゃうわね」
“梨夏”という言葉に思わずびくりと体が反応したが、母さんに気づかれないように声だけは平静を取り繕った。
「おいおい、ウチの春季くんも起きてるんですけど」
「おかしいわね、私の子供に部屋から出ようとしない引きこもり君なんていたかしら」
「部屋に
入れないだけで、部屋から出ない訳じゃないだろ。何なら今すぐ出てきても構いませんよ」
「どっちも一緒よ、この親不孝者が」
「うるせーよ、過保護親が」
「過保護? だいたいあんた達が...」
なんだかまた空気が悪くなってきた。
ここの所、母さんにきつく当たってしまうことが多くなった気がする。
別に俺は母さんと彼女を作る話をするのが嫌だからという理由だけでここまで拒絶している訳じゃない。
問題はそこじゃない。そこじゃないけど......とにかく、出来ればこの話はもう二度としたくない。でも母さんのあんな暗い声ももう聞きたくない。
あーーなんだか面倒臭くなってきた。もうどうにでもなれ。
「はいはい分かったよ、部屋に
入れりゃあいいんだろ」
ベッドから起き上がり、ドアを開いた。廊下の窓から眩しい朝日が入り込み、思わず目を細める。
母さんはもうそこには居なかった。
一階のリビングから母さんの声が聞こえてきた。
「春希、せっかく早起きしたんだから、二度寝なんてしないで朝御飯食べなさいよ」
なんなんだよもう。