満月草の咲く夜にA
自室の横にある私専用の衣装室で、私はメイドのランクルスに麓の街に視察をするための服装について相談していた。
ところで街とは言ってもそこまで大きいわけでもない。ただ、近くの山や海の多大なる恩恵のおかげで繁栄し、そう呼ぶようになっただけなのである。
その大自然の恩恵をうけた父方の祖父が一代で築き上げた富と名誉の下に父は産まれ、父母が命を賭して維持したそれの下に私だけが産まれたのだ。
父と母の間に私しか産まれなかった時点で家の跡取りは私の夫がすることになるのだが、私の愛する母が亡くなったことはこの家の滅亡を意味していることに父は気づいていない。私の求めるものは富でも名誉でも夫でもなくただ母の『愛』なのに。
「お嬢様、やはりまだお気分が戻られていないのでは......」
その言葉にハッとして、ランクルスの方を見た。
度々自分の世界に入ってしまうのは私の悪い癖だ。だが悪い癖であっても嫌いなことではなく、むしろ母の思い出や昔のことに気分を浸らせられるので、どちらかというと好きなことである。
「大丈夫よ。それよりもこのドレスなんとかならない? もう少し動きやすい方が良いのだけれど......」
「確かに動きにくいものですとストレスが溜まりますしね。ではまた探して参ります」
そう言ってランクルスはたくさんの衣装の中に消えていった。
さっきの話の続きだ。私は求めるものはただ一つとは言ったが、それの為に私の身の回りのことがどうなろうと知ったことではないなどと思ったことはない。正確には思ったことは何度もあるが、今は思っていない。
母が亡くなった時に私を待っていたのは空っぽの心と必要のないこの世界だった。この世界に嫌気が差し、すぐにでも母の下に行きたくて様々な手法で挑んだが、いずれもランクルスに見つかり失敗に終わっている。
何度目かは覚えていないが確か「誰にも見つからないようにダクトの中で袋を頭に被せ窒息死」という方法をとったときだっただろうか。ダクトを突き破って窒息寸前の私を見つけ、身体中のゼリーを煤まみれにしながら彼女はこう言ったのだ。
『今、お嬢様がこの世界をどう思われていようとそれは仕方のないことだと思います。しかし、これだけは知っておくべきです。お母様はこの世界をお嬢様やご主人様と同じくらい愛しておられました。もしお母様の愛するこの世界が愛するお嬢様を消してしまったとしたら、天国のお母様はどう思われるでしょう。もしお母様の愛するこの世界から愛するお嬢様という存在が無くなってしまったらどう思われるでしょう。......お母様はお嬢様やご主人様の“存在する”この世界を非常に愛していらしたのです』
先ほども言ったことだがこのときの私は窒息寸前だ。こんなに長いことを言われても覚えているわけがない。でも、数日後に快復した私をこの言葉がやたらと心を締め付けたのだ。自分でも覚えているのが不思議なほどで、要するにそれだけ大切で暖かくて母の『愛』のようなものだった。今でも私はこの言葉を毎々繰り返しては、この世界から消えてしまわないように日々息をし続けるのだ。
そんなことを考えていると布の渓谷の中から大量のドレスを両手に担ぎながらランクルスが出てきた。流石に多すぎるのかまるで漫画のように困った顔をしている。立ち上がり側に寄って幾つかのドレスを持とうとすると、
「おやめくださいお嬢様。もしお嬢様に持たせてしまったことがばれては私が叱られてしまいます」
と、言って私から離れ拒否をしてきた。構うものか、貴女に拒否権はないのよ、と強引に奪い取って席まで戻る。
「申し訳ありませんお嬢様......どうかこのことはご内密に......」
「私が貴女について何かお父様に暴露したことがあったかしら? そこまで言って欲しいのなら私は今すぐにでも言いに行くわよ」
「い、いえ! そんな訳では......」
「冗談よ、冗談。私がお父様に言いに行くわけがないじゃない、極力話さないようにもしているのだから」
「え、ええ......」
このまま話していても意味がないので、とりあえずテーブルに置かれたドレスを漁ってみる。おや、と私は服を掻き分ける手を止めた。幾つか私のではない見慣れないドレスが混ざっているのだ。
「これは......」
「お母様の物でございます。そういえばお嬢様も随分とご成長されたので、お母様のドレスも入りそうだと思いまして......」
「お母様のドレス、残ってたの......」
「ええ。『私が亡くなった後、キルリアが私のドレスを着れるようになったら全部あの子にあげて』とお母様の遺書の中にあったので、今まで大切に保管しておいたのですよ」
亡き母のドレスを手に取り少し匂いを嗅ぐ。遺言を受け取ったランクルスがずっと綺麗に保管しておいたのだろう、不快な臭いなどは全くしない。広げて全体を見てみても汚れやシワなどはほとんど無く、それは清潔なドレスのままだった。
「ランクルス、今日はこのドレスにするわ」
「かしこまりましたお嬢様。ではサイズを合わせましょう、まだ大きいようでしたら調整いたします」
「そう、よろしくお願いするわ」
ランクルスに促されて、一度母のドレスを着てみる。正直に言うと若干大きかった。いくら私が成長して大きくなったからといってキルリアとサーナイトでは体格の差は歴然だ。少し残念そうに俯いてため息をつくと、ランクルスが不安気に顔を覗き込んできた。
「やはりまだ少し大きかったでしょうか......」
「ええ、ちょっとね。でも調整してくれるんでしょう?」
「もちろんです! 今すぐにでもして参ります! お嬢様は大広間で昼食をお取りになってください。調整次第自室にお持ちしておきますので」
「わかったわ。はい、じゃあこれ。よろしくね」
そう言ってランクルスにドレスを手渡すと、物凄いスピードで部屋から出て行った。だだっ広い部屋の中で、私は独りになってしまった。
「お嬢様、ドレスの調整が終わりました。いらっしゃいますか?」
昼食を取り自室に戻って数分後、ランクルスは部屋へ戻ってきた。いくら昼食という時間があったとはいえ、幾十のドレスの調整を短時間でこなすのは至難の技だ。きっと大急ぎだったのだろう、汗のような液体が水に反発する油のようにゼリーの中に浮かんでいた。
「......貴女、酷い姿よ? ドレスは私が選んでおくから、貴女はその汗を洗い流してきなさいな。それと昼食も取っていないんでしょう? それも一緒にしてきなさい」
「そ、そうでございますか? しかしーー」
「いいから行って。貴女がそうなったままで困るのは貴女以外にも沢山いるの。わかる?」
渋々といった様子で彼女は「かしこまりました」とだけ言い、ドレスを置いて去っていった。
少し強く言いすぎたか、などとは微塵も思っていない。単に言わなければならないことを言ったまでだ。
扉横のテーブルに置かれたドレスを手に取り、ベッドに並べる。赤、青、薄い緑、他にも様々な色と種類のドレスが目の前にあった。
よくよく見れば、確かに母が着ていたような気もする。気がするだけで結局のところどうなのかはわからないが、母の事でたくさんの知らないことがあると知り、胸が痛くなった。
「お母様は、自分が死ぬことを知っていたのかしら」
ふと、そんな言葉が口から漏れた。
母の死因はなんてことない病だった。普通に処方された薬を飲んで、普通に生活をしていれば勝手に治るような、そんな。
なのに亡くなってしまった。危篤の母は、誰にも看取られることなく、本当に誰にも看取られることなく逝ってしまった。
流石の父も亡くなった直後は憔悴していて、執事のムクホークがよく仕事をこなしていたのを憶えている。それはランクルスについても同様で、母の亡くなった後の処理などに追われ顔色が悪かったのも記憶にあった。おそらくその頃に遺書の処理なんかもしていたのだろう。
そんな急死した母が遺書を残すなんて、わかっていたとしか思えない。が、今となっては真相などわからない。知ったところでどうなるということもないし、私が救われるわけでもない。
「ーーお嬢様、お支度のほどはできましたか?」
突然耳に入る声に、身体が跳ね上がった。
「ああ! 申し訳ありません! お考え事をされていたとは知らず......」
「......いいのよ。むしろありがたかったわ」
「そうだといいのですが......。して、お支度はできましたか?」
視線をずらし時計に目をやると、すでにランクルスを部屋から追い出して三十分近く経っていた。用意なんてできているわけがない。考え事をしていたと言っても、ものの五分程度だと思っていたのだ。ばつが悪そうな顔をする私に対し、ランクルスは慌てることなく言い放った。
「私、お嬢様に促されて少しだけ仕事から離れたのですが、お嬢様は私がいない間にお支度をなさると仰りましたよね?」
「え、ええ......」
「早くご用意なさってください。スケジュールは時間通りに行うことが肝心なんです」
まるで仕返しをされているみたいじゃないか。澄ました顔で私に指示するランクルスに少しムッとしたが、結局のところ悪いのは私であるので素直に従うことにした。
「ねえちょっと。ドレスの着付け、手伝ってもらえる?」
「かしこまりました、お嬢様」
何一つ嫌な雰囲気など出さず、彼女は私の後ろに回った。私の手に取った翡翠色のレースのついた白いドレスを受け取り、テキパキと着付けを進めていく。何か聞こうとしていたことがあった気がするが、時間も無いので今は思い出さないことにした。
できるだけ涼しめの、動きやすいドレスを選んで正解だった。日中の最も気温の高くなる時刻は午後二時だとよく言われていることだが、季節によっては正午過ぎの時刻帯でも十分に暑い。今はその十分に暑い季節なのである。
「ドレス、それにして正解でしたね」
ちょうど思っていたことをランクルスが言葉にした。
「こんな暑い日にはゼリーも溶けちゃいますよ、ほんと」
渾身のジョークなのかどうか知らないが、あまり笑えないことは確かだ。
それにしても暑い。いつかの私の希望によって徒歩での視察となったのだが、それが全くの間違いだったと思えるほどにだ。こんな日には――
「こんな日には冷たいアイスクリームでも食べたいものですねぇ......」
貴女はエスパーか何かかしら、と言いかけたところで思い出した、ランクルスはエスパーだ。
気を取り直し、麓の街まで下る綺麗に舗装された道を歩いて行く。拓けたこの土地を作る景色はまさに絵に描いたような風景。緑の生い茂る山が奥にそびえ、右手にはラピスラズリのような海が静かに波を立てていた。何艘かの船が湾内を出入りするのが見え、その隙間を縫うように海がキラキラと輝く。港では市場が賑わいを見せていた。
丘の上まで届く種々の声。
爽やかな風が、私の頬をサラリと撫でた。