-8- 育て屋
ざらついた感触の、ぬるい温度が頬をつたっていた。
キズミはベッドから飛び起きようとして、胸が重くて上がらなかった。
(うなされてたよ)
舌をぺろりと仕舞う、色違いのブラッキー=ダッチェス。
どっかりとのしかかられている。手でどかし、冷や汗をかいた上体を起こした。
「心配してくれたのか」
(そうさ。ボーッとして缶詰の種類、買い間違われるんじゃないかって)
ダッチェスはふんと鼻を鳴らした。
(重い『シンクロ』は安眠の大敵らしいね。感受性とやらが強い人間には、特に)
ナイトテーブルに置かれているペンダントの脇の、モンスターボールは静かだった。
球内のラルトスを起こさないよう、明かりはつけず居室にダッチェスを連れて行く。
カーテンを開けても、大して光量は取り込めなかった。携帯端末のライトだけ点けた。
ダッチェスが先にソファに乗り、キズミが後から横に座った。
(聞いた話だけど。『シンクロ』の悪い気を受信しやすい人間は、そういう気性ってだけじゃなくて、心の中にご大層な心配事を抱え込んでるそうじゃないか。それってアンタ、ファーストと一緒にいないことと関係あるんじゃないのかい)
「口止め料、これでいいか」
ローテーブルに、キッチンの棚から取ってきた高級缶詰を置く。
できれば一言も発したくない。やがて黙秘を諦めて、キズミは目を伏せた。
「あいつは、あのペンダントの中にいる。外では生きていけない」
バチンと横っ面を張られたかのように、ダッチェスは目を瞠った。
「脳をバグで破壊された。データ化しているあいだは、命をつなげる。恩師が作ってくれた装置だ。治療方法も……探してくれている」
感情をせき止めて、すべての音を揺らがせなかった。言い終えると、口をつぐんだ。
墓場で唱えられているようだった男の声は摩擦熱のように、長い耳をひりつかせた。
(悪い夢ってのは、ファーストの?)
ようやく話す気になれたダッチェスが、色違い特有の金目を細める。
それもあるが、と次の説明までに間があいた。
「さっきは、親が殺された日を夢で見た」
黒い長耳をぴっと震わせる。夢の内容は問いたださず、ただ腑に落ちた顔をした。
(どうりでアンタ、アイラに同情してる訳だよ)
嫌な言い方だ。ロング警部はまだ死んでいない。力任せにキズミの顔色が戻る。初面会した病床の父親にすました態度を取り続けたアイラは、怯える娘の顔をにじませるまいと必死に耐えているように見えた。あの時からずっと、新しい上司を守らなければと、贖罪のスイッチが入ったままだ。切りたいとは思わない。献身と呼べるような、過ぎたものではない。こんなものは独善だ。襲撃犯を取り逃がすような大馬鹿野郎は、どう足掻いても嫌われ者から這い上がれない。むしろ進んで、虚勢を張ってでも憎まれ役を演じて、犯した過失の重さにさいなまれ続ければいい。
同情以外の適語を探して言い返そうとしたが、ダッチェスのほうが早かった。
(アタシが『シンクロ』を鍛えたら、アンタの具合が悪化しないかい?)
「お前が鍛えてくれたら、警部たちを襲った連中を見つけ出せる確率が上がる」
(ほう。事が済めば、アイラに今までの非礼を泣いて詫びるのかい?)
キズミは腕組みをして、黙りこくった。
(アイラがアンタを手なずける展開より、面白そうだ。いいよ、鍛えてやっても)
ふふんと得意げに捻くれてみせるダッチェス。
捻くれの度合いで負けた、とキズミは感じた。
早朝から格安ピジョットジェット便も含め、公共機関を乗り継いで約五時間。
ローカルな路線バスに揺られている乗客は、キズミと色違いのブラッキー=ダッチェスのみ。目指すは、キズミの級友が営む育て屋だ。本格的に鍛えるならプロに頼ったほうがいい。キズミの提案で、下見に行くことになったのだ。ゴスロリファッションに身を包んだダッチェスが何気なく隣を向くと、キズミの首がだらりと肩に垂れていた。不眠のふの字も見受けられない。気持ちよさそうに熟睡している。
はあん?と呆れた。
(アタシに見せてどうすんだい。そういう寝顔はアイラとか、ウルスラとか……)
言いながら馬鹿らしくなってきたので、終わりまでテレパシーを呟かなかった。
おんぼろの時刻表ポールと野ざらしの木造ベンチがあるだけの、ちっぽけな停留所で降りた。
一応ここが、指定された待ち合わせ場所だ。深い緑色の丘陵に向かって、牧草地帯が青空と見つめ合うように這い広がっている。見た目を隠すファッションはとっくに脱ぎ捨てていた。バトルネーソス出入り自由の見返りに、ポケモン服デザイナー兼施設オーナーであるアナナスのフィッティングモデルをやらされているのだ。色違いのブラッキーがあくびをして、ベンチに腰かけているキズミを見やった。黒いキャップ帽に、カーキグリーンのシャツと紺のジーンズ。どこに草の汁をつけても構わない格好だ。のどかな景観によく溶け込んでいた。
ぱっかぱっかと良い蹄の音を立てて、到着した迎えは頭上の太陽がかすむ炎だった。
脚長で肉付きのしなやかな、馬具を身に付けた牝のギャロップだ。明々と燃えさかりながら、嬉しそうにいなないた。キズミは顔をほころばせて、首すじを最後に会った時と変わらない手つきでぽんぽんと叩いた。装具を点検し、あぶみに足をかけてひらりと鞍にまたがった。
人間の男にまるで興味がないブラッキーの目にも、颯爽として見えた。
「よし。こい」
本能的に忌避したくなる、炎のたてがみ。
呼ばれたダッチェスは少し嫌がる素振りをしてから、男の腹と腕の囲いの中に跳び乗った。
熱くないと説明されても、不審なものは不審なのだ。
「振り落とされるなよ」
キズミが、防風ゴーグルをかけた。
走りはじめて、わずか十歩。
ギャロップが自慢のトップスピードに移行した。
キズミは生き生きしていた。心が澄みきっていた。体が芯から滾っている。蹄の音を数えきれない。莫大にふりかかる空気抵抗。相棒のウインディと遜色ない疾走感。躍動する馬体の一瞬一瞬が感動を連れてきて、左胸に早鐘を打たせてくれる。ポケモン騎乗にかける情熱を次々に溢れさせてくれる。この素晴らしいギャロップと一陣の風になれる喜びが、とどまるところを知らない。
全身をぺしゃんこにされそうな地獄への超特急に、ダッチェスは生きた心地がしなかった。
上機嫌なギャロップは火焔を壮麗にして、白昼の箒星のように畦道を駆け抜けていった。
騎手と炎馬の楽しい時間はあっという間に終わり、目的のログハウスにたどり着いた。
地元の小牧場主から土地ごと借りているという話を、キズミは思い出す。やわらかな緑の平野にぽつんと建つ、級友のつつましいホームだ。丸いドーム屋根の獣舎はミルタンク酪農に使われていたものを改築し、ポケモン育て屋稼業に融通しているらしい。
鞍を降りたキズミが感謝を込めてギャロップの首を叩くと、赤い瞳がにっこりした。げっそりしたブラッキーが麦袋のようにどさっと青い芝生に落ちた。テラスに上がる、はしご階段の一段目。寝そべっていたニャースが来客を見つける。先っぽの丸まった尻尾をぴんと立てて、「みゃうー」と鳴いた。キズミが猫ポケモンに軽く手を振り返したその時、ハウスの裏からぼうぼう燃える薄黄色の仔馬が飛び出して、ギャロップまっしぐらに駆けこんできた。
仔馬を追ってきたカウボーイハットの少年が、あっと立ちすくんで歓声をあげた。
「いらっしゃい、レスカ!」
そばかすだらけの童顔。同年代の平均身長にひと回り届かない。
がっちりと筋肉質で、たくましい腕は作業服の長袖をたくしあげていた。
人間の服を着たワンリキーみたいなヤツ、とダッチェスは思った。
「ふおおおっ、なんちゅう綺麗なブラッキー! 撫でたい、撫でさせてくれえ!」
ハァハァと荒い息遣い。わきわきと動く指。広がった鼻の穴。
ダッチェスが毛を逆立ててフーッと唸るとがっかりして、素面に戻った。
「ランド、そのポニータは……」
キズミは予想を外さない自信があった。
「へっへーん。二日前タマゴが孵った。誕生祝いは現金で、くれ!」
「おめでとう! いや、がめついぞ」
不満をもらしつつも、キズミの口元がゆるんでくる。
にっと頬を上げた少年がカウボーイハットを脱ぎ、ダッチェスの目線の高さに屈んだ。
「初めましてクールビューティー! おれ、ランド。育て屋で、レスカの同級生だ」
ギャロップの手入れを終わると、昼食にさそわれた。
ランドの大好物のチーズをたっぷり使うラクレットだった。
「いつからテレパシー使えるの? 訓練させられた?」
(さあてね。よく覚えてない。アンタはなんで刑事の学校、辞めたんだい)
「ダッチェス」
キズミが穏やかに制止する。
別にいいし、とランドが笑った。
「性格かな。才能かも。向いてなかったんだな」
ふーん、とモーモーミルクチーズのかかった茹でジャガイモを齧るダッチェス。
食べる合間にキズミが育て屋の景気をたずねると、よくぞ聞いてくれましたとばかりに愚痴が噴き出した。研究施設から育成と調整を委託される新人トレーナー向けパートナー推奨ポケモンについて。預けっぱなしで引き取りに来ない顧客の滞納金について。理不尽なクレームの対応について。借金返済について。仕事に追われてカノジョを作る暇がない悩みについて。愚痴以外では、交通アクセスが悪い自宅兼店舗をわざわざ訪ねてくるクライアントはいないので、業務上のやり取りはほぼインターネット頼りという話など。その点はるばる足を運んだレスカは物好きだ、とも。
「持ってきてんだろ。見せてみろ」
ランドが、寄こせと手先を振った。
キズミの観察や分析が書きこまれた筆記ノートとメモリーカードを受け取った。
「相変わらずアナログ好きだね、レスカは」
ぱらぱらとノートをめくる。
「うん。悪くないトレーニングメニューだ。でもこの内容、過保護じゃない?」
「熱を出したんだぞ。それに、進化時期に来ているからあまり負荷をかけると……」
「分かった分かった。添削してやるあいだ、暇じゃん? ぴったりの仕事あるんだなあ」
キズミは外に連れ出され、ログハウスの前で待つように言われた。
獣舎に入っていったランドが、またすぐに出てきた。足の周りをオレンジ色の毛玉がわらわらしている。子犬の群れだ。群れを先導して戻って来る途中、走り出した。駆けっこ勝負がはじまった。ころころしたふわふわの塊がこぞってランドを追い抜かす。追い抜かしたのに、止まらない。吠えながら押し寄せてきた。もみちゃくになって飛びかかり、キズミはすっかり包囲された。仔ガーディが十五体。どの幼犬もミニサイズの尾を振りまわしている。
「可愛いだろ? 可愛いだろ? 可愛いだろ!」
ランドが締まりのない顔で、でれでれしている。
「みーんな国際警察犬候補のパピーちゃんだ」
「タマゴ目的の預かりはお断りじゃなかったのか」
「そうも言ってらんねえご時世で。でもメタモンは今も拒否ってる。さあ兄ちゃん、遊び相手任せた!」
ランドが親指を立てた。
見上げている十五の笑顔に、キズミも嬉しくなって笑い返した。
草地に片膝をつくと、顔中をぺろぺろとやんちゃ盛りたちの熱烈な歓迎を受けた。
家の中に戻ったランドは、旧式のノートパソコンを立ち上げた。
借りたメモリーカードには、キルリア=クラウの記録映像や数値データが入っている。
(アンタ、独り暮らしかい。人間の家族はいなさそう)
訊きながらダッチェスが、皿の底にこびりついたチーズをかじり取ろうとしていた。
「いるぞ、兄貴がひとり。国際警察で、働いてる」
笑って答えた顔は急いで作ったみたいに、元気が足りていない。
「両親どっちも、愛人作って逃げた。おれ育児放棄されたんだ。近所のボケたおばあちゃんに貰う小遣いで食いつないで、ゴミ屋敷に住んでた。家出してた兄貴が国際警察官になって帰ってこなかったら、死んでたかも。兄貴みたいに国際警察官になって、両親探し出して、おれを捨てた罪償わせてやろうと思ってたのにな」
カチカチとクリックして、参考資料を拡大する。
「でもやめた。今は親より、国際警察のほうが関わりたくないや……レスカとミナトは例外」
(へえ。ここの暮らしは安全かい)
「だって、なんもないし。ダッチェスが住み着いてくれるなら、歓迎。『シンクロ』の訓練代儲かる!」
(すぐには決めないよ。少し散歩してくる)
口の周りのチーズの欠片を舐め取り、ダッチェスは開いた窓からひらりと出て行った。
作業中のパソコンの脇に置いていたランドの携帯端末が、着信した。
返信を優先する。大した作業ではない。数行、入力するだけだ。
友人の立場を利用して、どんなささいなキズミ達の情報も漏らさず報告している。
締めくくりに、こう付け加えておいた。
『レスカもミナトも、おれの元同期だ。手荒な真似はしないでくれよ』
これで裏切られたなら、二度と家族に心をひらけなくなる。
裏活動の煩わしさに気を重くしながら、兄に宛てて送信した。