NEAR◆◇MISS















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第六章
-7- 育て屋
 深い緑色の丘陵に向かって、のどかな牧草地帯が青空と見つめ合うように這い広がっている。野ざらしの朽ちた木製ベンチに座っている色違いのブラッキーはあくびをし、隣に腰かけているキズミを退屈しのぎに見やった。ポケギアで通話中の彼は野外で汚れても困らない服装を選んでおり、Tシャツのカーキグリーンとズボンの紺がアルストロメリア市から片道五時間かかる景観の一部のようだった。
「クラウがやったぞ」
 ミナトとの電話を終えるとすぐ、ブラッキー=ダッチェスに伝えた。横聞きしていればキルリア=クラウが『炎のパンチ』を完成させたのだと分かったと思うが、朗報は直接聞かせたい。将来有望な教え子の成長を少しでも共有できる相手がそばにいて、得をした気分だ。女上司への後ろめたさを見透かすような、しらじらしい流し目を差し引いても釣りがくる。
「何か着るには、暑くなってきたか」
 青い輪模様に、金色の双眸。色違いの容姿を人の目から隠せるポケモン服を、ダッチェスは屋外で久しく愛用していない。バトルネーソス出入り自由の条件、ポケモン服デザイナー兼施設オーナー=アナナス専属のフィッティングモデルをつとめる程度だった。
(アタシが金目当ての輩に何かされたら、頼まなくても刑事の仕事をするんだろ)
 ダッチェスが遊び感覚で小生意気に返すと、キズミは考えあぐねるように黒いキャップを目深にかぶった。
 おんぼろポールが目印のローカルバス停留所、もとい指定された待ち合わせ場所に頭上の太陽もかすむ迎えが到着した。
 脚長の体型にしなやかな筋肉をまとう、馬具を身に付けた牝のギャロップだ。明々と燃えさかりながら、嬉しそうにいなないた。帽子を脱いでとっくに顔をほころばせたキズミが声をかけ、炎馬の薄黄色の首すじを最後に会ったときと変わらない手つきでぽんぽんと叩く。挨拶のあとはさっそく装具を点検し、あぶみに足をかけてひらりと鞍にまたがった。ダッチェスが本能的に忌避したくなる炎のたてがみにも、彼は腰が引けていない。手慣れた騎手の一面は人間の男にまるで興味がないブラッキーの目にも颯爽と映った。
「よし。こい」
 呼ばれたダッチェスは、彼の膝と炎馬の首のあいだに狙いをつけてジャンプした。着地の瞬間、たてがみの火先が鼻頭をちらりとなめたが、ひるんだことが損のように無傷だった。不審に思って前足を火中にさっと通してみると、熱く危険そうな見かけと違い、あたたかな揺らぎに被毛が一斉にそよいで心地よい。目的をわすれて夢中になっている彼女を、持参した防風ゴーグルをかけたキズミが現実に引き戻した。
「ダッチェス、落ちるなよ」
 走りはじめて、わずか十歩。
 激しい上下振動がおさまり、ギャロップは自慢のトップスピードに移行した。
 全身をぺしゃんこにされそうな加速度を、地獄への超特急と呼ばずになんという。
 ダッチェスの心は断末魔の叫びを爆発させてゆく。
 何も知らないキズミの心は澄みきっていた。躰の芯から熱い。蹄音の数だけ胸のなかの輝きが増してゆく。莫大にふりかかる空気抵抗が懐かしい。脚の直下には馬体の力強さがある。相棒のウインディと遜色ない疾走感に左の胸が早鐘を打っている。生きた肉体の生み出す運動は一瞬一瞬が感動を連れてくる。ポケモン騎乗にかける情熱が次々とあふれてくる。この素晴らしいギャロップと一陣の風になれる喜びがとどまるところを知らない。
 騎手と息が合うほどに能力を解放できるギャロップもまた火焔を壮麗にして、白昼の箒星のように畦道を駆け抜けていった。
 
 種族を越えた共感の時間はあっという間に終わりを迎え、目的のログハウスにたどり着いた。
 地元の小牧場主から土地ごと借りているという話を、キズミは思い出す。やわらかな緑の平野にぽつんと建つ、級友のつつましいホームだった。丸いドーム屋根の獣舎はミルタンク酪農に使われていたものを改築し、ポケモン育て屋稼業に融通しているらしい。
 鞍を降りたキズミが感謝を込めてギャロップの首を叩くと、赤い瞳がにっこりと応えた。その脇でげっそりしたブラッキーが重い荷袋のように芝生に落ち、乗馬初心者の同乗を忘れて高速移動を楽しんだキズミを睨む。テラスに上がるはしご階段の一段目に寝そべっていたニャースが青草を踏みしめ向かってくる彼らを見つけ、先の丸まった尻尾をぴんと立てて「みゃおーん」と鳴いた。顔なじみの猫ポケモンに軽く手を振り返したその時、家の裏からぼうぼう燃える薄黄色の仔馬が勢いよくあらわれてギャロップまっしぐらに駆けこんできた。
 おーい待て! と叫びかけながら仔馬を追ってきたカウボーイハットの男が、はっと立ちすくんで歓声をあげた。
「来たな、レスカ!」
 同年代の平均身長にひと回り届かない頭部をぐるっと一周するひさしの下、そばかすだらけの童顔に客の心をつかむため磨かれたらしき営業スマイルと紙一重の笑みが浮かんでいる。全体で伸び悩んでいる体型を補うかのようにジャンパーの長袖をたくしあげた両腕の筋肉が盛り上がっていた。帽子と薄いグレーの作業服を身に付けたワンリキーみたいだ、とはじめて彼を生で見たダッチェスは思った。
「ランド、そのポニータは?」
 キズミの声がやや浮き立つ。ここで予想を外すせば盛り上がった気持ちの行き場がない。
「どうだ、ママ似だろ。二日前タマゴが孵ったんだ。誕生祝いは現金でくれ!」
「相変わらず、がめついな」
 昔から知る性格の難点など、痛くも痒くもない。不満をもらしつつ、祝福で口元がゆるんでくる。
 驚かせようと秘密にしていた相手はそれを見のがさず、にんまり頬をあげた。今度はこちらが訊く番だ。
「どうだった? 久しぶりの乗り心地は。言っとくが、おれのほうがまだ馬術うまいからな」
「自分で言うな」母馬に甘えるポニータにキズミは目を向け「その子もいつか人を乗せるのか」と訊きかえす。
「素質高いぜ。ママがやることはあたしもできる! って顔して、いっちょ前に鼻息荒くしてやがる。ところで、今日の主役はどこだ?」
「後ろにいる」
 くるりと振り返った。
「うひょー!」
 酔狂な声が耳をつんざき、ダッチェスはびくっとして毛を逆立てる。
「クールビューティー! くそっ、美男美女は絵になるってかチクショー、なんの当てつけだレスカァ!」
「知るか」
「うるせー! ……チェッ、いいよ、おまけにボンボンの金城よりマシか」
「こいつが育て屋のランド。国際警察の養成所で一緒だった」
「おい、勝手に人の紹介済ませるなよ。はじめまして」
 喧嘩腰からぱっと切り替えて見せたほほえみは邪険にできない直感があり、ダッチェスの警戒心が少しとけた。

 ギャロップの手入れが終わると馬房に戻し、ランドに昼食をさそわれた。
 拒否権はなく、彼の大好物であるチーズをたっぷり使うラクレット一択であった。
「なんか、ポケモンと人の言葉で話せるっていいな」
(アシスタントは? アンタ、キズミと同級なんだろ)
「いたよ、おれが退校する前は。今は別々の道を歩んでる。そいつは自分の才能を採って警察に残った」
 特に気分を害したふうもなく事情を明らかにするランドから、ダッチェスは耳を離さない。コンビ解消と聞いておどろいた自分は、すっかりぬるま湯につかっている良い身分なのだろう。国際警察官とアシスタントは固い絆でむすばれているという思い込みは、完全にキズミたちの影響だ。ウルスラやクラウが敬愛する人間と袂を分かつ想像ができないのだが、そう言われてみればネイティ=鞠塵のような独立心の強い者もいる。
(アンタには才能なかったのかい)
「ダッチェス」
 キズミが穏やかに制止する。
 悪さがばれた子どものように、反射的にブラッキーの長い耳が下がった。
 かまやしねえよ、とランドがそばかすだらけの頬がゆるませた。
「レスカも金城もよくあんなスパルタ耐えて卒業できたと思うし、正直ちょっと引く。おれはそこまで物好きじゃねえ」
「おしゃべりだぞ、金の亡者」
「んだと、ボールマニアの変人が」
 悪態ついでにランドは口を大きくあけて笑い、チーズで黄色にかがやく最後のジャガイモにかぶりついた。
 吐き気寸前まで満腹になった後は、コーヒーをゆっくり飲みながらの食休みに入る。
 キズミが育て屋の景気をたずねると、苦労の絶えないらしい愚痴が噴き出してきた。研究施設からレベル5調整を委託される新人トレーナー向けのパートナー推奨ポケモンが現実的ではない、預けたまま引き取りに来る気配がない客の滞納金が訴訟を起こしたいレベルなどと、人間一人の暮らしで溜まっていたのかよく喋る。交通アクセスの悪いこの地域にかまえた自宅兼店舗をわざわざ訪ねてくるクライアントはめったにおらず、仕事のやり取りは全てインターネットを介しているらしい。
 いくつかの話がキズミの関心を引いた。
「それじゃ、話に聞いてたバンギラスはよそへ移ったのか」
「悪いなレスカ。気のいい奴だったからひと目会わせてやりたかったよ」
 ブラッキー=ダッチェスはニャースと共に床に寝そべり、食後のまどろみのなかで彼らの会話を聞いている。
「国際警察まだ辞めねえの? やり甲斐なら他の職でも充分だろ」
 部下を嫌う女上司から無情な宣告を受けるイメージが、キズミに苦笑いをつくらせた。
「懲免されるほうが早いかもな」
「そりゃ楽しみだ! ついでに金城も道連れにな」
 根が本気で勧めるランドは手のひらを上に向けひらひら指を折り曲げ、手荷物の中から寄こされた筆記ノートをぱらぱらとめくった。デジタル化された営業スタイルに慣れていると、キズミのような手書きで作成されたトレーニングメニューのアナログ風情に要領の悪さを覚える。それでも候補生時代は炎タイプ育成コースで競り合った相手にまちがいなく、彼が上司のアシスタントでありながら肩入れしているキルリアのためにしたためた『炎のパンチ』の指導案は上々だった。
「『冷凍パンチ』『雷パンチ』、エスパー技の再調整……この辺のゆるさはイマイチだな。あんまりポケモンに負担かけさせたくねえんだろ。過保護は変わらねえな」
「修正はまかせる。それに実力を一番引き出せるのは、真のパートナーのほうだ」
「それを分かってて、なんで一銭にもならねえ世話を焼く?」
 損得の問題ではない。アシスタントが主人を思いやるあまり、胸に秘めた望みを曲げる姿を見たくないだけだ。以前にも増して、上司とクラウの間柄に割り込むような行いは自重すべきと思っているが、上司が寛大な心の有無をはっきり示さないかぎり、クラウへの支援を続けるつもりでいる。キズミ自身が青くさいと認めざるをえない感傷を言い出しにくいことを、傍目に感じ取ったダッチェスが眠気からさめた。
 愛用ハットをかぶり直したランドが、彼らを屋外に連れだして言う。
「添削してやるあいだ、暇だろ。ぴったりの仕事があるぜ」
 そう言われ、草っぱらの運動場で待たされた。
 獣舎に向かったランドが緑地に映えるオレンジの毛玉の群れを先導して戻って来るのが見えた。途中から駆けっこがはじまり、ころころしたふわふわの塊がこぞってランドを追い抜かす。獲物をロックオンした気迫をみなぎらせ、暴徒のようにこちらへ押し寄せてくる。面倒ごとに関わるまいとダッチェスがキズミの肩の上に避難し、滑りやすい金髪の天辺に掴まり立った。興奮して一斉に吠えかかってくる声で耳が麻痺しそうだ。眼下はすっかり包囲されている。十五体の幼年期のガーディが過密し、キズミに一歩も身動きをとらせない。暖色系の花時計の中心にいるみたいだ。どの幼犬も人懐こそうに口の両端をあげて息を荒くし、ミニサイズの尾を振りまわしている。愛くるしい銀朱の同族たちにスキンシップで応えようと屈みかけたキズミは、頭皮に「近寄りたくない」と前足の爪を立てられて仕方なく背筋をもとに戻した。
 ランドの眼尻に歓喜のしわが寄っている。
「可愛いだろ? 第一次ベビーブーム! ラブラブカップルの愛の結晶たちだ!」
 ひどい台詞センスをもつ男に深入りしたくないという遠い目をし、キズミとダッチェスは立ち尽くしていた。
「ペア三組、ハネムーンをちょいとウチでな。可愛いだろ! みんな国際警察犬候補のパピーだ」
「タマゴ目的はお断りじゃなかったのか」
「そうも言ってられねえご時世でね。でも、メタモン預かりは今も拒否ってる」
(意外と殊勝だね)
「だってイヤだろ? 人間の都合で、タイプじゃねえ奴と連れ合いにさせられるとか。国際警察ですらアシスタントや警察犬の血統は――」
「それくらいにしておけ」
 ランドは目で反抗したが、キズミに言われた通り話を打ち切った。
 幼犬たちは人間の気を引こうと一生懸命だが、誰の声も言語として届いていないのだろう。
 こんにちは! あそぼう! あそんで! だっこ! なんかちょうだい!
 なでて! はしろうよ! ぺろぺろ! おなかすいた! くんくん! あそぼー!
 おじさん! ねーおじさん! おばさんおりてきて!
(キズミ、アンタ、おじさんって呼ばれてるよ)
「へえ、そうか。おじさんは何をすればいい、ランド」
 すごい! なんかきた! おばさんのこえ! てれぽしー! てでぽしーってなあに!
「全員、静かに! 座れ!」
 ぴたっと鳴き声がやんだ。ひょいと全員が腰を下げる。沢山のしっぽが風を切る音だけが低く唸っている。
 一気にボスの風格を身にまとったランドが用紙を取り出し、キズミに手渡した。
「ほらよ、スケジュール。こいつらはまだおれ以外の人間にろくに会ったことがねえ。だからもっと触れ合いをとおして、今のうちにいろんな経験させてやりたいんだ」
 カウボーイハットのひさしを指で押し上げ、笑顔で親指を立てた。肘を曲げて鍛えられた腕を差し出すと、ランドの腕力を見込んだダッチェスが澄まし顔でそちらに乗り換えた。持ち場に戻るランドたちと別れ、キズミは心置きなく草地に片膝をつく。互いに好きでたまらないという笑顔を見せ合い、やんちゃ盛りたちの熱烈な歓迎を受けた。
 家の戸口をくぐるなり、黒く艶やかな全身の被毛が微妙な気温差のようなものを掬い取る。
 窓外の様子に目と耳を傾けるランドの複雑そうな面差しに、ダッチェスは付け入る隙が生じて見えた。
(国際警察が嫌いなのかい)
「……ガキの境遇につけ込んであくどい“育て屋”やるよ、国際警察も」
 驚き慌てる変貌もなく、過去の断片が口から流れだす。
「小さい頃、おれは親に捨てられた。両親とも愛人つくって逃げた。でも帰って来ると思い込んでた。近所のボケたおばあちゃんに小遣い貰って食いつないだ。何も悪いと思ってなかったんだ、いつも笑顔でくれたから。他の大人連中は育児放棄に気づいてたくせに、誰も通報しなかった。そのうち、家出してた兄貴が国際警察になって帰ってきた。おれもう、狂ったみてえに泣きじゃくった。ゴミ屋敷のド真ん中で、汚ねえ服で突っ立ってよお。やっとその時、まわりが見えたんだ。親が帰るなんて、てめえの心が壊れねえように言い聞かせてただけだった。心の底ではとっくに絶望してたんだ。兄貴は忙しくておれの面倒みきれなかったから、施設入って国際警察官になることにした。親を探し出して、おれを捨てた罪を償わせてやろうって。あの頃はそればかり考えてた」
 はあ、と徒労に終わった息を吐く。
「でもやめた。途中から全部、バカバカしくなった。今はただ、国際警察とあんまり関わりたくないだけだ」
 話の締めくくりは、ふっきれた笑顔の残骸。種族内で傷つけあう人間という生き物はつくづく業が深い。何か遺恨があるとにらんだ目に狂いはなかったが、的中させた快感もなかった。ダッチェスが視線を外しているあいだに戸外では、賑わいに誘われて馬房を抜けだしたポニータがガーディたちの輪に加わっていた。

 空が赤い。じきに日が暮れる。
 紺のポロシャツに着替えたキズミは汗臭い服から草の切れ端や土埃をはたき落とし、荷物にまとめた。帰り支度はこれでいい。これから行きと同じくギャロップに乗り込んで、待ち合わせ場所だったバス停まで戻るのだ。ところが別れ際、家の前までポニータと見送りにきたランドの言い出しで出発が長引いた。
「見積もり出しといたぜ、ダッチェスの『シンクロ』代」
「高すぎる。ぼったくりだ」
「バカ言うな。ダチなら喜んでおれんちの生計を助けろ、これぐらい出してみせろ!」
「さっさとまけろ」
 ランドに名を呼ばれるまで、ダッチェスは部外者を決め込んでいた。
「ダッチェス、今日は来てくれてありがとな。一緒にいてよく分かったよ、すごい素質だ。訓練は任せてくれ。レスカ、空きができたらすぐ連絡する。ついでに今度来たときはポケモンレースで勝負しようぜ」
 年端もいかないポニータがやる気に満ちて前脚を掻き、周囲はなごやかな雰囲気につつまれた。


 帰路につく背中が夕闇に飲まれ、仔馬もニャースの散歩につられて出かけた。
 となれば孤立が好都合というランドも、仕事に手を付けないわけにはいかなくなる。
 連絡手段はおもに、秘話機能を備えた国際警察の衛星通信を用いていた。
「今日来たレスカの記録を送るよ。これのどこが役に立つのか知らねえけど」
 友人の立場を利用し、どんなささいな情報も漏らさず報告する。
 終わりの見えない裏活動にほとほと嫌気がさしている。
 だが、キズミ達の身の為のためにも協力すると決めた以上、割り切っていくしかない。
「なあ兄貴。レスカも金城も、おれの昔からの仲間なんだ。約束は絶対守ってくれよ」
 これで裏切られたなら、二度と家族に心をひらけなくなる。独り、苦々しさに耐えた。


 
 送ってくれたギャロップと別れ、昼間とまったく同じバス停のベンチに戻って来た。
 いかにジョージ・ロングロード警部の襲撃犯が大衆にまぎれようと、習熟した『シンクロ』ならば心紋からあぶり出せる。そのためには警察機関で育成例の少ない悪タイプを独学で指導するより、手堅くプロに任せるべきだ。そう判断して踏み切った今日の顔合わせはうまくいき、誰もダッチェスの不興を買わなかったおかげで一息つけた。あとは捜査協力に乗り気となってくれた彼女の才能がどこまで磨き上げられるか、ランドの腕にかかっている。
 おおよその帰りつく時刻を知らせようと思い、キズミはポケギアを操作する。連絡先には数時間前に届いた、女性受けがよさそうなデコレーションパンケーキとラルトス=ウルスラのとびきりの笑顔が映る画像付きメッセージの送信元を選んだ。アルストロメリアで留守番の寂しさを癒せないかと、アイラ・ロングロードのほうから伝言をうながしてくれたのだろう。気立てのよいウルスラも、厚意の手を払いのけるような無粋な真似はしなかったのだ。あのふたりが一緒にいてくれるなら心強い。隣室に引っ越されたときは波乱の幕開けを覚悟したが、女同士の関係は着実に良い方向にむかっているようだ。大事なアシスタントに手厚くしてくれる彼女のやさしさに、胸が温かくなる。
 たまにそういう顔をするから、あの子が妬くんだよ。
 自覚のなさをつついてやろうかと思い、ダッチェスは冷静に考えて辞めた。
 静寂も耳に飽きた頃、毛並に逆らって尾の表面を揺らすそよ風に、背中を押されたような気がした。 
(ロング警部が起きるってことは、アイラは本部に帰ってお別れになるんだね)
 吐き出したいだけの気まぐれであることは、よく分かっている。この問いかけからは何も生まれない。
 いつまでも返事がなかった。そこまで言葉に困るだろうか。暗い気分を与えたにしてはまったく還元されないのだけれども。
 おもむろに隣を見ると、首がだらりと肩に垂れていた。不眠に悩まされていたあのキズミがぐっすりと、熟睡している。
 はあ、とあきれた口が塞がらなかった。
(自分でちゃんと起きるんだよ)
 それだけ疲れ切っていれば、悪い夢も見るまい。
 寝顔の彼に負けないくらいの安らぎを求め、背筋を丸めて目を閉じた。

レイコ ( 2016/01/02(土) 21:33 )