NEAR◆◇MISS















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第六章
-5- パーティー
 ミナトの行きつけのベーカリーに踏み入った途端、キズミは親友のあげたハイテンションな声に店の迷惑を考えた。
「これだ、見せたかった新商品!」
 その名もズバリ、泥ばくだんパン。
 手の平からはみ出るサイズのごろっとした膨らみが、濃厚そうな黒いチョコレートでまんべんなくコーティングされている。
「ダッチェスが来た日、覚えてるか?」
 ミナトに確認されるまでもない。その夜遅く、ジョージ・ロングロード警部が襲われたのだ。
「オレと留紺、うっかり店長に泥ひっかけちまって。それが元ネタらしいぜ。おはようお姉さん! 特製ドーナツのパーティセット予約したいんっすけど」
「まーたお世辞ねえ」
 レジ打ちのおばさんがオホホと笑う。
 その背後からひょっこり、髪を肩に垂らしたブレザー服の女の子が顔を出した。キズミとミナト共通の知人だ。早口で喋りだす。
「ママ、昨日買ったヘアゴム知らない? 早くしないとリュートに……あ、いらっしゃい!」
「おっす、ナティちゃん!」
 笑顔で手をあげたミナトとほぼ同時に、キズミが挨拶を発する代わりに軽くうなずいた。
 ぽかんと、ナティの口がひらいた。 
「……え、うそぉ!? いつものキズミ君じゃ無い! なんで無視しないの!?」 
「事情が変わった。気に障ったなら謝る」
 そういう言葉がききたかったのではなく。失敗したパン生地のような、会話の盛り上がらなさは変わらないようだ。しらけたナティの目がミナトに移る。が、とぼけられた。説明役のあてがなくなり、彼女は思う。話が進まないなら仕方がない。その代わりこちらも、ただでは起きない。
「じゃ、今までの失礼をチャラにする方法教えてあげる」
 ナティは商売っけがまぶしい、いい笑顔をみせた。 
「ウチの新商品、買ってってよね!」

 路上パーキングに停めたオフロードバイクのもとに戻ったミナトは、チョコパンの袋を持つキズミを小突き、声を低めた。
「ネーソスの尻拭いにナティが関わったんだろ。お前、深入りさせねえようにわざと突き放してたな?」
 声量を合わせた、木で鼻をくくったような返事がくる。
「済んだことだ」
「自分で自分を生きにくくするなよ、キズミ」
 聞いてやれやれと言い返す。振っておきながら早ばやと、ミナトは厄介な話題を打ち切ることにした。
「あ、引っ越しパーティーのホストよろしくな。いきなり警部補んちに押しかけはエチケットねえし、オレお前んちのほうが騒ぎ慣れてるし」
「まだ誘ってもいないのに、計画だけ先走ってどうする」
「いいって! ダメならお別れパーティー一本になるだけじゃねえか、チビっ子の」
 エディオルを指す三人称だ。
「つーか、新しいバイク買えよ。やっぱ二ケツは女子とに限る!」
 そう言われても、キズミは立て続けに壊した一代目と二代目の供養が不完全である気がしている。
「無理やり乗せておいてそれか。言っておくが、俺はポケモン乗りのほうが好きだ」
「へい、へい」
 ミナトは適当な相づちで茶化すと、運転に向けてフルフェイスのヘルメットを被った。

「てなワケで、ご招待っす!」
 朝礼後の大部屋に、ミナトの十八番の人当たりのよさがこぼれた。
 アイラは返事につまる。引っ越し祝いの催しなど思ってもみなかった。灰目をもう一人の部下に向ける。会場が彼の自宅ならば、歓迎をいやがっている筈だ。
「ウルスラは手料理によるもてなしを好みます」
 デスクを向いた横顔のまま、キズミはそっけない声で答えた。
 彼個人の意見をふせた言い方はともかく、頭ごなしの締め出しをくらわなかったということは、もしかすると。仲間意識の高まりが嬉しくて、アイラの口角が他人に見えない速度で上を目指しだす。
 と、浮かれる前に。客観的にはおそらく可愛げのない指摘が頭に浮かんだ。
「ダッチェスはどうするの? 数に入っているのかしら」
 キズミとのあいだにどんなトラブルがあったのか、詳細は聞いていない。へそを曲げたブラッキーをかくまい続けるのはかまわないが、これを機に彼らが仲直りできるとしたら。喧嘩腰にきこえるリスクを負う価値がある。
 案の上、こちらを向いたキズミの眼差しはわずらわしさに満ちていた。
 すかさずミナトがはたいて金髪をパッと弾けさせ、にっこりして言った。
「もちろん! 楽しみにしてます!」

 不安と期待の夜がきた。
 キズミ・パーム・レスカとラルトス=ウルスラ、エディオル・レインウィングスとチルット=アフロ、金城湊とガーディ=銀朱とヌオー=留紺、アイラ・ロングロードとキルリア=クラウ、そしてモンスターボール内の集団がマンションの一室に詰めこまれた。
 その中に、色違いのブラッキー=ダッチェスの姿はない。押しが足りなかったかもしれないと、隣部屋に残った彼女のようすを、アイラはふり返る。
「盛り上げていくぜーっ!」
 オレンジジュースのコップをかかげ、ミナトが乾杯の音頭を取った。
 アイラのウェルカムとエディオルのフェアウェル、合体パーティーのはじまりだ。
(美味しい! 美味しいです!)
 キルリア=クラウの顔がしあわせに包まれている。腕をふるったウルスラも喜びを隠せない。
「このピザおいしいね、アフロ」
「お! どんどん食えよエディ、いっぱいあるからな」
 聞きつけたミナトは手あたり次第に食べ物を取り、少年とチルットの前にてんこもりの皿をつき出した。
 床のガーディはぶ厚いロースト肉にかぶりつき、ヌオーはもくもくと卓上の野菜スティックをたいらげてゆく。
 キズミとアイラは視線を合わせないようにしていた。
 ご馳走がすっかり消えた頃。
「食った食った。んじゃ遊ぶぞー! 集合ー!」
 立ち上がり、腹のふくれたミナトが据え置き型ゲーム機の電源を入れに行く。テレビの前にずらりと、ポケモンたちの生け垣ができあがった。
 テーブルにとどまったエディオルが「キズミおにいちゃん」と不思議そうに声をかける。
「あのイーブイのぬいぐるみ、どうやってうごいてるの?」
 ざわっ、と視線が集まった。
 生け垣に溶けこんだ一匹に。
「うおおおっマジだーっ! すげえなジュペッタもどき!?」
 愛くるしくデフォルメされたイーブイ人形が、全会一致の驚き声を代表したミナトにふさふさの首根っこをつかみ上げられた。やだやだー、とみじかい手足があばれる。キズミは国際警察の官給品サングラスをかけ、霊感度を上げた。
 先端の折れ曲がった三角帽子のような影が、ぬいぐるみの後頭部から生えていた。貸して、と勢いで頼んだアイラの手に彼のサングラスが移ると、ウルスラの胸騒ぎが表情に出そうになった。
 ぬいぐるみが放される。興味津々、ガーディが顔を近づけた。直立したイーブイが、えいっと鼻に正拳突きをお見舞いした。積もる日数、よだれ地獄の仕返しだ。子犬はひゃんひゃん鳴いて転げ回った。
 ミナトは感慨深げに語りだす。 
「完全にゴースト化する瞬間は……グッとくるぜ。よしキズミ、定期チェックしてやらあ。予定日が分かったらまた宴会だ!」
 オレはもう見なくていいけどな。おもての明るさとは別に、ミナトは心の中で付け加えた。
「いいなあ……」
 つぶやいたエディオルは、チルットを抱きしめた。込められた寂しさは、輪から自分を切り離した諦めから来ている。
 うつむく頭にキズミの手が置かれた。 
「かならず知らせるから、心配するな。その時といわず、いつでも遊びに来い」
 少年は彼をあおぎ、まばたきした。
「うん。ありがとう」
 見合う二人して、頬をゆるませる。
 アイラの視線が温まる。はじめて見た。あの彼が、こんな風に笑うところを。
「さわらせてー」
 懐っこい声をだしてイーブイのそばにかがみ込んだエディオルのあとに、アイラが「私もいい?」と軽やかに続いた。


◆◇


 突如、暗闇に囲われた。硬直で指先たりと動かせず、オルデン・レインウィングスはまるで明晰夢を見ているような、現実から切り離された感覚をしいられている。
 神々しい人型の光が前方に降り立った。照度が下がり、容姿が成形される。聖なる威圧と高貴な風格をもつサーナイトであった。
 あの存在をおいて他に、この暗黒世界の創造主を推定できない。
 オルデンの内部で、秘書然とした優美な男声のテレパシーが唱えられた。
(お目にかかれて光栄でございます。レインウィングス様。わが主『ドルミール』の命により、ご忠告を申し上げに参りました)
 ウインディ=ファーストの命運を狂わせた国際警察官、その因縁のコードネームとサーナイトのバックが一致した。人の心を見透かせる種族が使者なれば、シンクロで繋がるエージェントと直接会談する状態と大差ない。音声は封じられており、オルデンは隠し立てできない言語的思考をゆだねるしかなかった。
「まるで、千里眼をお持ちのようですね。たしかに、『ドルミール』氏のアルストロメリア潜伏情報は得ています。しかし私のような者の、ゆかりある少年の身を案じる老婆心が、あなた方の任務の脅威になると本気でお考えですか?」
 再度、テレパシー。
(全てはレインウィングス様がため。失礼ながら、これ以上の詮索は無用と存じます。かねてより貴殿はウインディの事故につきまして、我われに独自の見解をいだいておられると……お見受けした次第でございます)
「……なるほど」
 かつてこの地の南部に拠点をもち、人々をポケモン開放運動の混乱におとしいれ、ポケモンリーグ制圧テロを起こすに至った宗教団体が存在した。その教団が保有し、自主閉鎖した研究部門――「P2ラボ」。
 ウインディ=ファーストは、その後継組織にいた被験体のガーディであった。
 ネーソス移送前の検査網をかいくぐり、身辺者たちが気づかないまま、体内に電子内蔵されつづけた忌まわしい置き土産に『ドルミール』氏が関心を示した結果が、ファーストの不幸を引き起こしたとの見方はぬぐえないのである。
「今一度、身の振り方を考えることにしましょう。そろそろ自由にしていただけませんか。最後になりましたが、君の名前を伺いましょうか」
 気がつくと、暗闇が明けていた。
 知らぬまにオルデンの人差し指が、インターホンに押し当てられていた。 
 ドアを開き方はせわしなく、現れた住人は顔を輝かせた。
「先生、お久しぶりです!」
 長いあいだ待った甲斐が、キズミの声に喜びとなってあふれていた。
 その場でしっかりと握手を交わす。異常な体験の直後で脳内のふらつきがあったが、オルデンは包み隠そうと心に決めた。幼少より見てきた息子のような彼を、いたずらに翻弄すべきでないという責任感が支柱だった。
「こんばんは。背が伸びましたね」
 追い越された身長に気をよくし、オルデンは眼鏡の奥の目をゆるやかにした。
「そうやって、俺の成長を喜んでくれるのは先生だけです」
 キズミは謙遜気味に笑う。
「エディオルは眠っています。パーティーの後で散らかっていますが、よければ上がってください」
「……そうしたいところですが、また今度にしましょう。タクシーを待たせていますので」
 飛んだ記憶をたどりオルデンが断ると、キズミは少し残念そうに申し出た。
「では、そこまで送ります」
 親子とキズミを見送るウルスラに、クラウが声をかけた。
(ついて行かないんですか?)
 キズミの育て屋の友人と連絡がつき、エルレイド修行の参考話をきけるということで泊まりを誘われ、銀朱ともども今夜は家に帰らない。
(わたくしがご一緒したら、水いらずを邪魔してしまいますもの)
(……ウルスラさんは、キズミさん思いですね。僕もアイラさんが大好きだから分かります)
 クラウが深いところからにっこりする。
 ウルスラは場に合った微笑を返すしかなかった。

 移動中、オルデンがおぶるエディオルを起こさないように、キズミとの会話は小さな声使いとなっていた。
「君には面倒をかけてしまいましたね」
「とんでもない。楽しかったです。もっとエディの相手ができればよかったんですが」
 金髪の上でチルットが耳を傾けている。 
「あれから、君の新しい上司とは?」
「言わなければダメですか……?」
 打ち明けてほしそうにオルデンが黙る。運ぶ荷物が、気分につられてキズミの腕を重くした。
「俺が部下で、気の毒です」
「そんなことはありませんよ」
「いいえ、あります」
 自身の欠点に取り憑かれた、否認。
 路肩に一台のタクシーが停まっていた。
 別れ際に、「差しでがましいようですが」とキズミが前置きした。 
「エディは寂しがってるようでした。できればもう少し、親子の時間を増やしてあげて下さい」
「ありがとう。よく見てくれていて」  オルデンは進言の重大さを理解する。
 穏やかな返事をもらえたおかげで、キズミの表情から気後れがやわらいだ。
「お元気で」
「君も。無理は禁物ですよ、キズミ君」
 タクシーが発進する。空港方面をめざして。テールランプが見えなくなると、キズミは部屋に戻ろうと足を向けた。
 高層から俯瞰していたサーナイトは、白い帯状の下体をひるがえし、何びとにも気配を悟らせずに消えた。

◆◇

 自宅近くの夜道で待ち伏せていたフワンテが、通りがかったミナトの前に飛びだした。
(湊さまー! お待ちしてましたー)
「げっ、一理(イチリ)!?」
 覚めやらぬパーティー帰りに水をさされたミナトはげんなりしたが、フワンテ=イチリはどこ吹く風だ。口の中から、黒塗りに金縁の高級感ただよう球をひっぱり出す。空洞の体内は運搬の役に立つ。
(試練のお時間ですよー。一度でも負けたら屋敷に連れ戻すっていうのが、レストロイ様のお言葉ですからね。イヤなら連勝してくださーい)
 イチリから押し付けられた球、ゴージャスボールを胸の高さで見下ろすミナト。舌打ちした。面倒くさいが、戦意のある目配せで受諾する。
 路面に黒い渦が巻き、今夜の審判者が排出された。仮面と棺桶。種族名をデスマスとデスカーン。
「雄黄、麹塵」
 赤いボールを開放し、うぬぼれ屋のエンペルト=雄黄を先頭に立てる。もともと球外に出ていたネイティ=麹塵は呼ばれた瞬間、ミナトの肩上に姿を現した。
 ゴージャスボールのスイッチを押す。 
一縷(イチル)
 放たれた光が右手を包み、グリップの硬い感触が掌になじむ。まばゆさが収束すると単眼の剣が一振り、ミナトに握られていた。抜け鞘を、柄頭から伸びた青い飾り房が地面に落ちる前に受け止める。
 戦闘準備は整った。ミナトは剣先を、デスカーンのあごに狙いをつけるようにして構えた。 
「わりぃが、オレの居場所が懸かってる。クソオヤジの手駒に加減しねえぞ」

◆◇

 清潔でほんのり甘い泡の香が、ブラッキー=ダッチェスの鼻をなでる。金色の目を上げると、パジャマ姿のアイラがご満悦で髪を拭いていた。
「はー。さっぱりした。一緒に入ればよかったのに」
(そこまで馴れ合った覚えはないよ)
 ダッチェスはすまして言う。別段つき合ってもよかったが。宿無しだったアイラが自宅の恵みを堪能できたと分かれば良い。
 がらんどうな部屋の明かりを消す前に、「次のお給料で色々そろえなきゃ」と、独り言のように買い物の目標を設定する。くっついてきたイーブイ人形と一緒に寝袋にもぐりこんでから、アイラは重要と思える知らせを聞かせた。 
「エディ君、お父さんに連れられて帰ったわよ」
(そうかい) 
 この部屋の出入り口は、クラウの帰りのためにと施錠していない。気のない返事をしたダッチェスの視線がちらり、と走った。
 忍び足で出ていく彼女を、アイラは寝たふりをして送りだした。

 話がしたいと持ちかけたのはダッチェスだったが、場所を決めたのはキズミだった。高架下で「壁屋」を営むバリヤードの、防音バリアーの中で彼らは隣り合う。
(で、アタシが出てった理由は分かったのかい?)
「いや」
 ダッチェスは顔をしかめた。
 ならば先に別件を片付けようと思う。
(夜、うなされてたよ)
 突飛な切り出し。
 キズミの反応が遅れる。
 ダッチェスはふんと胸のすいた顔をし、すぐに真面目な口調となって続けた。
(前にウルスラから聞いたんだ。国際警察官とアシスタントの『シンクロ』は副作用があるって。その一つが悪夢だそうじゃないか)
 否定も肯定もされない。
(ヤキモチだけなら可愛いもんだけどね……ウルスラからアンタへの悪い影響は増してきてる。アタシも『シンクロ』だから、雲行きが分かるんだ。アンタはアンタで、他に拠りどころがないんだろ。あの子がたったひとりの手持ちだろうし)
 傾聴するキズミが考えをまとめている様子が、目つきから伝わってくる。
 彼の束縛のなさに、自由と隣り合わせの侮辱があるようで。居着くうち見返りが不確かになり、ダッチェスは以前の視野を取り戻したくなって家を離れたのだ。けっきょく居心地のよさが忘れられず、戻ってきたけれども。
(いっそアタシを仲間にすれば、少なくともアンタは吹っ切れて、体も楽になるんじゃないのかい?)
 キズミの口がひらかれる番だった。
「鋭いな。でも……お前をファーストと同じ目に遭わせたくない」
 インナーの下に隠していたペンダント――を襟口から引っぱり出した。
「このアレストボールの中に、あいつのデータの残骸がある」
 横っ面をはられたように、ダッチェスは目を見開いた。
「治療は手探りだ。回復不能のバグポケモンは法的な抹消対象……もし猶予の延長が認められなければ……」
 頼みの綱である恩師、オルデン・レインウィングスでさえ打開策に手を焼いている。キズミの抱きこんでいる危うさは、感情的な面持ちにならず、抑揚のとぼしい声に摩擦痕のようにすり込まれていた。
 見つかる保証もない、相棒のウインディを救う手立てのために。築きあげたもの全てを捨て、仲間の刑事を敵に回す彼を想像したブラッキーの長い耳が、一瞬動く。
(アンタにアウトローは似合わない)
 それに、と色違い特有の金目を細める。
 キズミは彼女の意中を読み、小さく息をつく。
 以前なら、覚悟は鈍らなかった。
 内なる揺れを認めた彼に、ダッチェスは「なぜ」とたずねることを迂回した。  
(悪い夢ってのは、ファーストの?)
 それもあるが、とキズミの説明に間があく。
 せめて物腰は平常心でありたい。だが語ろうとすると、碧眼の奥が十年前に直面したむごたらしい光景へと吸い寄せられる。自宅の床に横たわる動かない肉体と、ぶちまけられた鉄臭い赤色。幼い少年だった日と同様に、骨の髄が冷たくなる。
「……殺されたんだ、母親を」
 聴覚を木の葉のように乾かして待っていたダッチェスは、言及せずただ腑に落ちた顔をした。
(それでアイラを気にかけてたのかい。自分みたいに親を失わせたくなくて) 
 力任せにキズミの顔色が戻る。初めてアイラとジョージ・ロングロードの病室で対面した時から、そのつもりであった。ベッドの上の父親を問題外のように直視しない彼女は、震える娘の顔をもらすまいと実は必死に見えた。
 不満な彼は腕組みし、ダッチェスをにらむ。
「気にかけた? いつだ」
(さっき言ったじゃないか、ウルスラが妬いてるって。バレバレだよ。まったくお人好しなんだから。そのうち誰かに寝首をかかれても知らないからね)
「文句を言える立場か。隣部屋を斡旋したろう」
 ダッチェスが無類の親切心を起こした由来は、キズミの知識でおぎない切れない。おそらくは、希少な色違いであるせいで欲深い人間たちの手を渡り歩き、安住の地がなかった育ちに関係するのだろう。
 本人の返答は。 
(成り行きさ。住処をもって何が悪い? そりゃ場所はよくなかったけど。アイラのこと、前よりは好きになったよ)
 そうか。
 キズミは優しく顔をほころばせた。  

レイコ ( 2015/05/24(日) 22:14 )